容疑者を追う
昼間の灼熱の空気は、深夜の暗闇にも依然として残っていた。
警視庁捜査一課の門川刑事と南条刑事は、覆面パトカーの中で夜を明かし、八月二日を迎えた。
二人は、東京都内で相次いでいた強盗傷害事件の容疑者を張り込んでいたからである。
彼らの名前は、江藤元と中垣誠也である。
二人は元々、同じ暴力団に所属していたが、三年程前に揃って抜け出し、今も同じ小さなアパートで同居している。
江藤と中垣が強盗に手を染め始めたのは、暴力団から抜け出した頃である。
彼らは、主に高齢者を狙って強盗を企て、被害総額は数千万に上ると言われている。それなのに、今も小さな古びたアパートで同居しているというのは、不思議ではあるが。
一週間前にも、都内の高齢者夫婦が、何者かに殴られ、現金を奪われるという事件が発生した。
しかし、残念ながら、江藤と中垣がその強盗傷害事件の犯人であるという確たる証拠はない。あくまでも、まだ容疑者である。
だが、捜査の指揮を執る城戸警部は、彼らが犯人であると確信していた。
そこで、門川と南条の二人が、江藤と中垣を張り込んで、再び強盗に手を染めるところを現行犯逮捕しようというのだ。
「昨日コンビニで買ってきた、パンとコーヒーがあるから、食べようじゃないか」
あくびをしながら、門川が言った。
後部座席からパンとコーヒーの入ったビニール袋を持ってきて、二人は朝食を取り始めた。
それから、しばらくしないうちに、一台のタクシーがアパートの前に止まる。
そして、二人組の男が現れた。江藤と中垣である。
運転席に座る門川は、急いでエンジンをかけた。
江藤と中垣は、タクシーに乗り込む。
「警部、江藤と中垣が、タクシーに乗り込みどこかへ向かっています」
助手席の南条が、城戸に報告した。
「こんな朝に、何をするつもりだ?」
門川が、ハンドルを握りながら呟く。
というのも、今まで江藤と中垣が関与したと思われる強盗事件は、どれも辺りが暗くなった夕方化夜に発生しているのだ。それなのに、二人ははまだ夜の明けて間もない朝にどこかへ向かっているのだ。そこに門川は違和感を感じているのだ。
「しかも、奴らはタクシーを使っている。これは、何も起きずに終わりそうだな」
こう呟いたのは、南条である。
確かに、これから強盗を死に向かう二人組が、タクシーを使って犯行現場に向かうというのは、おかしな話である。
江藤と中垣が、車を持っていることは調べがついている。それなのに、わざわざ跡の残るタクシーを用いて犯行に及ぶとは考えにくい。
南条からの報告を受けた城戸も、同じことを考えていた。
今回、江藤と中垣を現行犯逮捕するのは無理だろう。城戸は大きくため息をついた。
「城戸君、どうしたんだ」
そう声を掛けたのは、中本捜査一課長だった。
「江藤と中本が動きましたが、どうも現行犯逮捕できそうにありません」
「確かに、まだ朝早いからな。可能性は低いかもしれんな」
「ええ、しかも彼らは、タクシーを利用しているんです。犯行に及ぶ可能性は、ゼロに等しいでしょう」
城戸がそう言うと、中本も小さくではあるが溜息をついた。
そんなやり取りをしていると、南条からの報告が無線で入る。
「警部、タクシーは、首都高に乗りました」
「首都高か…」
「ええ。それがですね、どうも羽田空港へ向かっている様なんですよ」
「何か、大きな荷物でも持っていたのか?」
「いえ、そういうわけではないんですがね。タクシーの向かう方向からするに、羽田へ向かっているのかと」
「わかった、慎重に頼むよ」
城戸が、南条にそう言うと、
「羽田に向かっているのかね?あの二人は」
と、中本が城戸に尋ねる。
「尾行している南条の話によると、どうもそうらしいです」
「高跳びをするつもりじゃないのかね?」
中本は、目を大きくしながら大声で言う。
「それはわかりません」
対して城戸は、冷静に答える。
「高跳びするとなったら、厄介なことになるよ。これは困ったな…」
「しかし、奴らは大きな荷物は持っていなかったそうです。高跳びではないかもしれません」
「そうだといいがね」
中本が言った。
タクシーが江藤と中垣を降ろしたのは、羽田空港国内線ターミナルの前である。
そこから、ターミナルの中へ入り、真っ直ぐ航空会社のカウンターへ向かう。
二人がカウンターでのやり取りを終えた後、尾行している刑事二人もそのカウンターへ向かい、警察手帳を示してから聞き込んだ。
その結果を、直ぐに携帯電話で城戸へ報告する。
「警部、二人はやはり羽田空港でタクシーを降り、国内線ターミナルへ入りました」
「国内線か。それは良かった」
と、城戸は安堵の表情を見せてから、
「それで、二人はいったいどこへ向かうんだ?」
と、質問した。
「聞き込んだところ、羽田空港を9時15分に発つ、北九州空港行き全日空三八七五便に搭乗するようです」
「行き先は、北九州か」
「ええ、向こうには、十時五五分に到着します」
「わかった、そのまま追ってくれ」
城戸は、そう言って、電話を切った。
「あの二人は、北九州へ向かっているのかね?」
傍で通話を聞いていた中本が、そう言った。
「どうも、そうらしいです」
「一体、北九州にどんな用があるのか?あの二人は」
門川と南条は、城戸の指示通り、江藤と中垣を追って北九州入りした。
羽田空港から北九州空港までは、約一時間四十分のフライトである。
気のせいか、九州の日差しは、やはり東京よりも厳しいように感じられた。
北九州空港に到着した江藤と中垣は、直ぐにターミナルを出るや否や、タクシーを拾って出発した。
二人を追う警視庁の刑事達も、すぐ後ろに止まっていたタクシーを拾って、前のタクシーを追うように運転手に告げた。
江藤と中垣乗るタクシーは、北九州空港を出てずっと直進した。
しばらくして、そのタクシーは、東九州自動車道の苅田北九州空港インターへと入る。
料金所を過ぎて、東九州道の上り線に合流する。
トンネルをいくつか通り過ぎると、北九州ジャンクションが近づいてきた。東九州道と九州道が交わるジャンクションである。
門川と南条の追うタクシーは、九州道の上り線、門司、下関方面へと分岐した。
間もなくして、タクシーは小倉東インターへと近づく。
タクシーは、小倉東インターで、九州道から北九州都市高速一号線へと合流する。その後、北へ進路を取っていった。
助手席に座っている南条が、城戸へ報告する。
「警部、二人は、北九州空港のターミナルを出た後、タクシーを拾いました。今、北九州都市高速を小倉駅方面に向かっているところです」
「小倉駅方面か、くれぐれも慎重に頼むよ」
城戸は、そう言って電話を切る。
その後、彼は、時刻表にある路線図の頁を開いた。九州の路線図である。
「彼は、小倉駅から列車で日豊本線を南下して、大分へ向かうのかもしれないな」
城戸が、呟いた。すると、小国刑事が、その呟きに反応する。
「小倉駅からでしたら、博多に向かう可能性もありませんか?」
それに反論したのは、川上刑事である。
「博多に行くんだったら、北九州空港じゃなくて、最初から福岡空港に行くのが普通じゃないか?」
すると、城戸が、
「ああ、私も川上と同じ理由で、博多に行く可能性は低いと思う」
と、言った。
しかし、彼らの予想とは裏腹に、タクシーは、小倉駅を通り過ぎて北から西へと進路を変えた。
「警部、タクシーは、小倉駅を通り過ぎて、戸畑方面へ向かっています」
南条が、再び城戸に携帯電話で報告をする。
「目的地は、小倉駅じゃなかったのか。一体、どこへ向かっているんだ?」
「今のところ、全くわかりません。引き続き追います」
すると、タクシーは、戸畑ランプで北九州都市高速を降りた。その後、戸畑市街へと向かっていく。
結局、タクシーの目的地は、戸畑駅であった。
駅前のタクシーの乗降スペースで、江藤と中垣の乗るタクシーは停車し、扉が開く。すると、二人の男が降りてきた。もちろん、江藤と中垣である。
その後ろで、南条と門川もタクシーから降ろしてもらった。
江藤と中垣は、戸畑駅へと入っていく。それを、警視庁の刑事達が追う。
どうやら、彼らは事前に切符を買っていたようで、江藤と中垣は、券売機やみどりの窓口に寄らず、そのまま改札を通ってしまった。
二人は、そのまま乗り場へ向かうかと思われたが、トイレへ消えていった。
刑事達は、慌てて物陰に隠れ、様子を伺う。
「警部、彼らの目的地は戸畑駅でした。今、改札の中へ入って、トイレにいるようです」
南条が、物陰で城戸にそう報告をする。
「戸畑駅?しかも、彼らは切符を持っていたんだな?」
「ええ、その通りです。しかも、事前に購入していたと思われます」
「どの列車に乗るのか、わからないんだな?」
「はい、今のところ、不明です」
「それなら、くれぐれも慎重に頼んだぞ」
城戸は、そう言って電話を切る。
すると彼は、窓の外を眺めながら思索に耽る。城戸にとって、江藤と中垣の行動は不可解であった。
もし、彼らが列車に乗るために戸畑駅に来たとしたら、大きな疑問が残る。何故、小倉駅を通り過ぎ、わざわざ戸畑駅へと向かったのか。
小倉駅と言えば、九州の中では、博多駅に次ぐターミナル駅である。しかも、北九州空港から考えると、位置的に最初に到着するのは小倉駅である。
城戸が江藤と中垣と同じように、北九州空港から福岡入りして、列車を使って移動をしようとするならば、タクシーで小倉駅まで移動し、そこから目的の列車に乗車するだろう。
そこが、城戸にはどうしてもわからない。
戸畑駅では、南条が、じっと腕時計を睨んでいる。
「おい、いくら何でも遅すぎじゃないか?」
南条が、そう言った時、すでに江藤と中垣がトイレに消えてから五分が経過していた。
「ちょっと様子を見てみよう」
門川がそう言って、二人はトイレの方へ足早に向かった。
男性トイレの個室は、すべて扉が開いている状態で、中を見ても誰もいない。辺りを見回してみても、男性トイレに江藤と中垣は居そうにない。
「おい、見失ってしまったのか?」
門川が、焦燥を露にしながら言う。どうも、南条も同じ様である。
「いや、違う。多目的トイレだ」
南条が、そう大声で答えると、二人は男性トイレを飛び出す。
多目的トイレの扉の鍵が開いていることを確認すると、南条が勢いよく扉を開く。
すると、奥の壁に寄りかかって倒れる、二人の男が目に飛び込んできた。
しかし、その男は、南条が勢いよく扉を開け、突然姿を現したのにも関わらず、何の反応もない。
胸のあたりをよく見ると、血で赤く染まっていた。
南条と門川は、ゆっくりと近づき、その二人の男が江藤と中垣であるのを確認した。