血に堕ちた日
世界は悪意に満ちている。
世界には、誰しもの心の中には、個々の望みがあり、その望みの中に大小様々な善意と悪意がある。
個が望みは叶えることができる。
しかし、誰か一人の望みを叶える為には必ず代償を捧げなければならず、それが世界の謂う罪になるかもしれない。
望みは個人の意思とは関係なく現実をつきつけ、時として牙を剥く。
世界の鉄則は揺るぐことなく個人の世界さえも侵攻し、構築するのだ。
世界がその強大さで飲み込もうとするとき、私たちは荒波に揉まれる小船の如く、ただじっと蹲ることしかできない。
それでも、たとえ万に一つの光明もなかったとしても、もがき、抗うことは無駄であろうか。
正義を行うとき、悪意を悪意によって抑制し、鎮圧する。
それは紛れもない罪であり、正義ではない。
しかし、この世界の鉄則を変えることができたなら。
それが、望みなら。
支払われるべき代償はいったいどこにあるというのだろう。
罪とは、なんなのだろう。
激昂とともにぶつかり合う金属音。
大気を揺るがすほどのそれが断続的に鋭く響く。
光に満ちた神殿の中央。玉座の間で二人の獣が激突していた。
大天使ミカエルと熾天使ルシフェル――。
本来争うはずのない天使同士が、今は不倶戴天の敵を殺めんと熾烈な戦いを繰り広げている。
しかしこの戦いは何も二人だけのものではない。
神殿の外、すぐそばまでルシフェルの率いる天使らが大挙し、主神に傅く天使らがそれと真っ向から対峙していた。
ルシフェルに同調し反旗を翻した天使軍は己の正義に従い、主神に全幅の信頼を寄せる天使軍は彼らの世界の反逆者を懲らしめんとする。
平和の使徒は純白の翼を互いの血で染め上げて、それでもなお雄叫びを上げながら相手に切りかかる。
足を薙ぎ、腕を飛ばし、腹を裂く。腕を削がれ絶叫する者の首を落とし、殺した者を怒り狂った者が殺す。
血を血で洗い、血しぶきを浴びてももはや誰も気に留めなかった。
それが幾千と繰り返されてきた。
どれほど斬っても、どれほど血を被っても止まぬ連鎖。
殺戮に次ぐ殺戮。
誰も止める者などいなかった。否、誰も止めることなどできなかった。
安息の地である天界は戦渦の地へと豹変し、もはや阿鼻叫喚の地獄絵図と化していたのだった。
そんな中、玉座に泰然と構え、醜く可憐な戦乱とゴミのようで美しい天使たちを睥睨する者が。
主神ゼウス。
この世の全てを司る全知全能の神は、顎にたっぷりと蓄えた白い髭を撫でた。心なしか、口元が浮ついているように見える。
そして傍らに立つニンフのアイギーナを呼び寄せ自分の膝の上に座らせると、戸惑うアイギーナを構うことなく愛撫し始めた。
アイギーナは眉をひそめながらも、振り払おうとはせずにじっとしている。
目の前で戦う二人をまるで喜劇を観賞するかのような瞳で嘲り、神殿の外の光景は絵空事だというように歯牙にもかけない天界の王。
ニヒルな笑みの奥底で何を思っているのかは誰にもわからない。
ルシフェルはミカエルとの絶え間ない死闘の中で二人の姿を目に留める。
命を一糸で繋ぎ留めているような鍔迫り合いの最中、ルシフェルはゼウスの愚行に頭がかっとなるのを感じた。
「大天使ミカエル、そこをどけ!」
「どきません!熾天使様こそ自分が何をしているのかわかっていらっしゃるのですか!」
ルシフェルは忌々しく舌打ちをした。自分と瓜二つの愚弟はどこまで愚かなのか。
ルシフェルは彼の背中に生えた十二の翼を一度大きく広げてから、一気に力強く羽ばたかせた。
「やめっ……」
物凄い風圧がミカエルを襲い、彼は何か言う前に吹き飛んでいた。
ミカエルは神殿の石壁に激突し罅隙を作ってめり込む。
ミカエルは血塊を苦々しく吐いたあと、首をだらんと下げて動かなくなった。
ルシフェルはそれを確認すると剣を薙ぎ下ろし、ゼウスに向き直る。
彼らが王は王座の肘掛に大儀そうな面持ちで頬杖をついて、じっと熾天使を見つめていた。
ルシフェルは彼の覇気とも殺気とも言える鋭い視線に臆することなく、重々しく口を開いた。
「あなたは……ゼウス様は何故あのようなことをなさったのですか」
ゼウスは口元を吊り上げ、息が漏れたように笑う。
「人聞きの悪い。反乱を企てたのはお前のほうではないか。この戦いも、流れた血も、皆お前のせいだ」
そう言ってゼウスは神殿の外を指すように顎でしゃくった。
ルシフェルは肩越しに外の惨状を覗いて、下唇を血が出るほど噛み締めた。そして剣の柄を握りつぶさんばかりに固く握る。
「ふざけないでいただきたい……。あのような大罪を犯しておいてよくもそんなことを……」
ゼウスはふんと鼻を鳴らす。
「大罪?違うな。間違っておるよ。わしは罪など犯しておらん。罪があるとすれば、それは口先で無垢なる天使どもを惑わせたお前だ」
ルシフェルは答えない。
「お前はこの、嘘偽りで固められた世界をそんなにも好いておるのか?」
ゼウスはアイギーナの髪を一房手に取り、それを眺めながら呟いた。
ルシフェルは口を開きかけ、しばし何か言いたそうにした後口を閉じる。
「ふん……わしは好かん。反吐が出るほどに。このような間違った世界など、意味を成さぬ。つまらぬ」
ゼウスは眉間に皺を深く刻み込み、腫れぼったい瞼の下から憎しみのこもった瞳を向けた。
「だからわしが変えてやった、本来のあるべき姿に。……それは罪か?」
そのどす黒い感情の先に何があるのか。彼のその瞳に映る世界は、ルシフェルの知る世界とどう違うのか。
ルシフェルには知る由もなかった。
ルシフェルは顔を伏せる。やがて呟くように懇願した。
「我が崇高なる王よ、高潔にして慈愛に満ちた我が親愛なる王よ。今からでも遅くはありません。箱を回収してください。さもないと、あなたはきっと後悔する。世界は、本当に取り返しのつかないことに――」
「覆水は盆に返らぬ」
その突き放す言葉を聞いて、前髪に隠れたルシフェルの瞳がかっと開かれた。そして伏せていた顔を上げると、己が今まで慕い、追従してきた主神をその瞳に映す。
そこにいるのはもはや神ならざる者であった。
「ならば私が……」
ルシフェルは剣を両手で低く構える。
「私が……なんだ?くふっ、お前に何ができる」
ゼウスは嘲笑を零しながら立ち上がる。
そして諸手を胸の前で伸ばすと、広げた掌に光の玉を形成する。
それは周りの光を取り込むように肥大化していき、半径が大人一人分もあろうかというほど巨大になった。
光球の周りには時折、紫電が走る。
ゼウスは天空神だ。彼が操るのは気候に他ならない。その中でも特に雷を司っており、その逸脱した能力は神々から畏れられている。
ルシフェルが到底太刀打ちできる代物ではなかった。
その光球は触れたものの存在を消す力があった。神のみに与えられる畏敬の念さえ抱く力。
ルシフェルは以前に一度だけこの力を目の当たりにしたことがある。
ゼウスの妻の一人が他の男と交わり、それが彼にばれたときだ。
彼女らはこれによって消された。文字通り彼女らがこの世に生を受けた事実を消されたのだ。
それは一部の例外もなく天使たちの記憶から抹消され、ルシフェルもゼウスが酒乱になって面白おかしく話したときまで忘れていた。いや、正確に言うならこのとき記憶が再構築されたのだ。
ルシフェルはそのときの身体の奥底から来る怖ろしさを今でも覚えている。
「今ここで消えるお前に何ができる」
ゼウスは確かめるように吐き捨てた。
ふざけるな。
十二の翼がざわざわと総毛立った。全ての翼を大きく広げた姿は秀麗な絵画のようである。
ルシフェルの瞳は巨大な光の向こう側を見つめている。
――俺が。
確かな殺意をその手に込めて。
確固たる決意をその瞳に宿して。
ルシフェルは美しい翼を折りたたむ。そしてゆっくりと前傾姿勢になり、左足を前に、剣を下段で構えた。
ルシフェルは低い姿勢を保ったまま矢のように走り出した。
ゼウスは一度深く息を吸った。
そして。
ゼウスは吼える。覇気とともに打ち出された光球。それは床を削り取り、転がっている瓦礫を飲み込みながら侵攻してくる。
その威圧感を否応なしに突きつけてくる。
それでもルシフェルは立ち止まることなく突き進んだ。翼を羽ばたかせ、一気に加速する。
――俺が。
己の正義を信じて。
すぐ目前まで光球が迫り、視界いっぱいが目も眩むほどの光で包まれる。ルシフェルは突きの構えで光の渦に突っ込んだ。
「俺が!!!」
「馬鹿な」
ゼウスは呟く。
一直線にゼウスへと突き立てた剣先から血が伝ってくる。
それは鍔で溜まって、そこから垂れる雫が石の床に一定の間隔で落ち、血の水溜りを更に大きくしていった。
毒々しいまでの赤がルシフェルのつま先に当たった。
剣は貫いていた。
ゼウスの盾となったアイギーナを。
「馬鹿な女だ」
ルシフェルは目を疑った。信じられないという眼差しで自分が手にかけた美しいニンフを見つめる。
アイギーナは荒い息を、血とともに漏らしていた。
ゼウスはにやりと笑った。
「お前も、馬鹿だな」
ルシフェルの腹から突き出る剣先。赤く染まったそれからは絶え間なく血が滴っている。
「がはっ……」
ルシフェルは嘔吐感に耐え切れなくなって吐血する。吐き出された血はびちゃびちゃと音を立てて床に落ちた。
「兄さん……ごめんなさい」
背後から、聞き慣れ親しんだ声がした。それは紛れもない弟ミカエルの声。
「ミカ、エル……」
ルシフェルは息も絶え絶えにその名を口にした。
彼は力なくうな垂れる。
全てわかっていたのだ。
反乱を企て、天使たちを誑かしたときから。
自分ひとりの力は脆弱で、神になど及ばないと。
それでも熾天使として、神に仕えるものとして、主の不義は正すべきなのだ。
それが、ルシフェルという天使の存在意義だからであり、それが、彼ルシフェルそのものであるから。
自然と涙がこぼれた。悔しくて、悔しくて、でも報いることができなくて。
ルシフェルを穏やかな絶望が支配する。
不意に、頬に伝う涙が優しく拭われた。
視線を上げると、アイギーナが弱々しくも温かな微笑みを湛えていた。
彼女の唇が僅かに動く。
「――、――」
アイギーナはそっと言葉を紡ぐと、糸が切れた操り人形のように、手をだらしなく垂らした。
その瞬間、彼は胸の奥底から来る言い知れない衝動に突き動かされた。
アイギーナに突き刺している剣を渾身の力でさらに押し込む。
「なっ……!」
憎きゼウスの驚愕の表情が、彼の涙の溜まった瞳にあった。
剣はあとほんの少しのところで届かず、それ以上前に進まなかった。
ルシフェルは舌打ちする。
「……とどかない、か」
呟くと、薄く笑ってから頭を垂れた。
この日、ルシフェルと彼が率いた天使たちは反逆の咎で堕天使とされ、天界を追放。地上へと落される。その際地上が裂けたためにすり鉢状の穴ができた。
それが今日の魔界である。
生きながらえたルシフェルと堕天使たちはそこで悠久の時を過ごしてきた。無作為に過ぎる時間の中で、彼らは何を思ったのか。
ルシフェルは魔界の王ルシファーとなり、魔界を統治した。
堕天使は悪魔となり、魔王に付き従った。
そして心の中の闇はいつしか、復讐の焔へと変わる。
復習の焔は悪意によって燈され、正義を行うまで今も燃え続けている。
世界は悪意に満ちている。
事実の改変があります。本作はギリシア神話オリンポス十二神のお話を基に作ってありますが、多少違います。本作はルシフェル視点での物語構成となっているため、彼が正義のヒーロー、ゼウスが悪者みたいに扱っていますが、本当のところは違います。
でも、それも含めて楽しんでいただけたなら幸いです。