第48話 相性の問題
翌朝。日は昇りかけて、街中が喧騒に包まれ始める頃合い。
俺は時計をぼんやり眺めながら出かける用意をしていた。
武器一式――といってもダガーナイフ一本。
服装はいつもダンジョンに潜るときの戦闘服。
革の手袋までしっかりはめた万全の装備だ。
靴もダンジョン攻略用のものを選び、玄関の扉に手をかける。
すると、背後から声をかけられた。
「あれ? どこか出かけるの?」
エリンだ。朝食の片づけをした直後なのだろう。手からは水が滴っている。
「言ってなかったっけ? 今日、リースさんとの修業の予定が入っているんだよ」
「あー、確かに昨日そんなこと言ってたかも……」
「まあ、そういうわけだから。遅くなるかもしれないから、夕方頃に帰ってこなかったら、先に夕食食べておいて」
「いいけど……一体何時頃に帰ってくるの?」
「訊かれても今のところわからないから何とも言えない。早く帰ってこられるかもしれないし、ずっと帰ってこられないかもしれないし」
「ずっと帰ってこられないって何よ。何日間も帰ってこないってこと?」
「まあ、そんな感じかも。あまり深く気にしないで」
「わかったわ。いってらっしゃい」
彼女は手を振りながら応えた。おざなりないつも通りの挨拶。
普段と何も変わらない出来事だからこそ、今日は特段と愛おしく思える。
「いってきます」
そう言うと、扉を押した。
分厚い扉はまた一段と重く感じられる。
エリンに表情を悟られないように、振り向かずパーティーハウスから歩き出した。
俺とジンは似ている。どちらも卑怯者だ。
仲間の命より自分の命を先にベットするようなずる賢さを持っている。
ジンが俺達を頼ってくれないのなら、俺も同じ選択肢を選ぶ。それだけの話だ。
「お久しぶりです。いや、久しぶりっていうほどじゃないかもですね」
「どうしたんだ。こんな朝早くから呼び出して」
目の前の男が尋ねてくる。
警戒しているのか、口調がいつもより心なしか荒い。
現在、俺と男が立っている場所は、普段からリースとの特訓時に集合場所として使っている街の外の空き地だ。
草木など邪魔なものが付近になく、人気も少ないため、戦闘の特訓をするにはうってつけの場所である。
男を呼び出すのは、そう難しいことではなかった。
元々顔見知りだから声をかければついて来てくれたし、彼の居場所も【地図化】と《索敵》によって覚えていた気配を使えばわかることだった。
このまま向かい合っていても埒が明かない。
俺は本題を切り出すことにした。
「頼みがあってきたんですよ。ヒューゲルさん――いや、こう言った方が早いですか、『首切り』さん」
彼は即座に腰の重心を落とした。
右手は背中にかけてある大剣の柄に。
臨戦態勢。答えはイエスと言っているようなものだ。
いつ襲いかかられても対処できるように俺も身構えると、質問が飛んできた。
「どうしてわかった?」
「決め手は《隠密》が上手すぎたってことですかね」
最初、俺はパーティーハウスに張り付いていたヒューゲルのことを、ネメのストーカーだと思い込んでいた。
しかし、郵便受けに入っていた住所のない封筒、そしてジンから首切りという殺し屋の習性を聞いたことによって自分が思い違いをしていることに気がついた。
手紙を送るのには住所が必要だ。
それがないということは直接投函されたことになる。
つまり、郵便受けに手紙が届いた時点で、首切りはピュリフの街に来ていたということだ。
正確にいうとそれより前になる。調査時間が必要だからだ。
暗殺を成功させるには、ターゲットの行動様式や実行場所、本当に暗殺が可能かを調査しなければならない。
ヒューゲルはパーティーハウスの周りで、それらを探っていたのではないか。
彼が首切りの手下で、調査だけをしていたという可能性もなくはないが、それは彼の《隠密》の上手さが仇となった。
先ほど決め手といったのはそういった意味である。
それに首を両断できるほどの武器は限られてくる。
少なくともフォースが持つ刀と同程度かそれ以上に大きい刃物でなくては駄目だろう。
ヒューゲルがいつも身につけている大剣。
首切りの条件にはぴったりと当てはまっていた。
もしかして、彼がダンジョンを目当ての冒険者を騙ってこの街にやって来たのは、目立つ武器を怪しまれないように携帯するためだったのかもしれない。
また冒険者のコミュニティーに入ることでジンの情報も聞き取りやすくなる。一石二鳥の役である。
それに首切りがピュリフの街を拠点にしている殺し屋という話も聞いたことがない。
ヒューゲルがこの街に来たばかりだという点も、彼が首切りだと裏付けられる理由の一つになるだろう。
ヒューゲルが首切りと同一人物だと仮定すると全ての辻褄が合うのだ。
「キミとは随分相性が悪いらしいな。私の気配を摑めると知った時から警戒はしていたのだが、よもや正体までばれるとは……。相当まずい状況だ」
――相当まずい状況。
彼はそう口にした。何がまずい状況なのか。
俺が暗殺を邪魔しようとしていることか?
それとも首切りの素性を知ってしまったことだろうか?
何が彼にとって不利な要素なのか、なるべく知っておく必要があった。
そこを把握しておけば、交渉だけで解決できる余地が現れるかもしれない。
「もしかしてヒューゲルって本名なんですか?」
「ああ。決してばれないと高を括っていたのでな。次回からは潜入時に偽の身分を使うことにしよう」
次回か……。この場を乗り切る自信があるってことだろう。
彼の様子からは引くそぶりが見られなかった。
ヒューゲルが言っていたまずい状況とやらは、身分がばれたことを指していたらしい。
俺が暗殺を阻止できるとは考えてもいないようだ。
自分としても分の悪い賭けはしたくない。
力業で全てを解決するのは最後の手段だ。
安全に物事が運べたら、それに越したことはない。
なので、プレッシャーをかけることにした。
「ところでヒューゲルさんってそんなに強くないですよね?」
「いうじゃないか」
「事実の確認ですよ。《索敵》っていうアーツで全部わかっちゃうんですよ。暗殺者として名が通っている割に実力はないですね。多分、気配が摑めないことさえ除けば、そこらの冒険者と変わらない強さだと思います」
《隠密》さえなければ、首切りはジンやフォースの足元にも及ばないだろう。
《隠密》というアーツを一点特化させたからこそ得られた最強。
その代償は自身の剣の実力だ。もちろん俺よりかは強いはずだが。
「つくづくキミとは相性が悪いようだ。そこまでわかってしまうとはね」
「そうみたいですね。俺はヒューゲルさんとは特段相性がいいようです」
ヒューゲルが歪な鍛え方をしているのと同様、俺も歪なアーツの鍛え方をしていた。
攻撃アーツを捨てて、ダンジョン探索に有用なアーツだけを習得するという稀有な冒険者。
使えるアーツの中でも《索敵》は俺の一番の得意技術だった。
特訓期間が一番長いというのもあるし、【地図化】スキルによる補正もかかる。
20階層での遭難経験によりアーツは極限まで磨かれ、俺の《索敵》は一流の暗殺者であるジンを凌ぐと、彼自身にお墨付きまでもらっている。
そもそも、気配を消すアーツの《隠密》と、気配を探るアーツの《索敵》。相性がいいのは後者である。
《隠密》は万能なアーツではない。 モンスターから見つかりにくくなる程度のアーツである。
ある程度モンスターの注意を集めてしまったら、いくら《隠密》を使おうとも気配は消し切れない。
これはモンスター相手だけでなく人間相手でも同じことだ。
《隠密》で気配を消し切るなんてことは普通できるものではなく、同レベルの《索敵》とぶつかった場合、《索敵》による気配察知が勝ってしまう。
そんな背景もあることながら、《隠密》を誰にも認知されなくなる程度まで昇華してしまったヒューゲルには驚きなのだが。
並の《索敵》なら、ヒューゲルを見つけることはできない。
だが、俺の《索敵》の目を誤魔化すことができないのは、先日のパーティーハウスに張り付いていたことを見破ったことからも明らかである。
ヒューゲルが様子などを窺いもせず、即座に暗殺を仕掛けてしまえば、彼の計画は上手くいったかもしれない。
最初の時点ではヒューゲルの《隠密》の深さに、俺も気配を掴むことができなかった。
しかし、一度気配を知ってしまい、彼の《隠密》に慣れた今じゃ、そう上手くはいかない。
要するに首切りにとって、俺は天敵なのだ。
首切りはジンには勝てるが、俺には勝てない。
俺はジンの足元にも及ばないが首切りだけにはアドバンテージを取れる。
三すくみの関係。
だから優位な立場で話を進められる。
「ヒューゲルさん、お願いがあるんですけど、ジンさんを狙うのを諦めてくれませんか?」
「悪いが断らせてもらう」
「諦めてくれたら危害を加えません。ヒューゲルさんが首切りだということも秘密にしておきます。いいことずくめでしょう。駄目ですか?」
「断ると言っている」
「なんでですか? ヒューゲルさんは一回仕事を失敗しただけで済みますよね? そのくらい構わないでしょう? ジンさんはもう悪事に手を染めません! だから!」
「これは矜持だ」
彼は泰然とした態度で言った。
「確かに現在のジンは悪事から足を洗った。善人といっても差し支えはないと調べはついている。だからなんだ。被害者はそれでは報われない。世の中にはな、自分を不幸に陥れた者の不幸を願わずにはいられないような人間がたくさんいる。加害者が幸せであればあるほど妬む人間はたくさんいるんだ」
「でも――」と彼は続けた。
「そう思うことは悪いことなのか? 自分を不幸に陥れた者を赦し、前を向ける人は強くて立派な人間だ。けれども、世の中には弱い人間の方が多い。そういう弱者の肩を持つと私は決めている」
「それなら、ヒューゲルさんだって加害者じゃないですか! 人を不幸に陥れている本人じゃないですか!」
「そうだ。私自身、間違った道を選んでいると自覚している。誰よりも弱い人間だ。だが、この道を引き返すつもりは微塵もない」
ヒューゲルの瞳には覚悟が灯っていた。
自分の弱さを認め、それでもなお、道を突き進むことを選んだ者は強い。
過去や現在、潰れるほどたくさんのものを抱えながら、足を進める力があるということだ。
彼がその矜持に至るまでに何があったのかは知らない。
だけど、きっと、俺では測れない何かがあったのだ。
出会ったばかりの人間である俺の言葉が届くわけもない。
元から話し合いでは解決のしようがなかった。
俺達は戦い合う運命だった。
「あなたのことが少しだけわかったような気がします。ヒューゲルさんはおそらく善人なんですね。だからお願いがあります。俺を悪人にしないでください。あなたがこのままジンさんを狙うというなら、俺はあなたに手をかけなくちゃいけなくなります」
「キミにその気概があると?」
「覚悟は昨日のうちに済ましてきたつもりです」
ヒューゲルの眼差しが突き刺さる。
俺の瞳を覗き込んで、覚悟を推し量っていた。
しばらくして、彼は諦めたのか首を軽く振った。
「なるほど。本気なようだ。若い頃の私の目にそっくりだ。だからこそ、キミを止めたい気持ちもある。でも、止まらないのだろう」
「はい」
俺は大空に向かって宣誓するように言う。
ヒューゲルが歩みを止めないつもりなら、俺も止まるつもりはない。
覚悟の表明であり、俺自身で選び取った決断だ。
「なら、こうしないか。お互いに主張を曲げることはできない。だからといって殺し合うことはないだろう。私はキミみたいな善良な少年を殺したくはない。そして、キミを人殺しにもしたくない。だから、戦って勝った者が主張を貫くのを諦める。それはどうかい?」
「俺は負けても諦めるつもりはないですよ」
「そうか。じゃあ、私はキミの意識を奪い、ジンを殺しに行くとしよう。予定の時刻より早まってしまうが、それも仕方ない。対するキミは、私に負けを認めさせるだけでいい。単純なルールでいいだろう?」
「いいんですか? だいぶ俺に有利な気がしますけど」
「構わない。ハンデだ。強者の驕りというやつだ」
「ずいぶん余裕そうですね」
「余裕そうではない。余裕なんだ。だってキミ、大して強くないだろう。一応、『到達する者』のメンバーの情報は調べ上げているのでな」
「わからないですよ。本当は実力を隠しているかも」
「キミは忘れているようだが、私も暗殺者の端くれだ。《索敵》を使えるのはキミだけじゃないぞ」
なんだ、《索敵》で俺の実力もばれているのか。
見栄を張って損した。
それもそうか。仮にもこの国最強の暗殺者だもんな。
俺の実力を誤解して引きさがってくれればと期待していたのに……。
「どうやらはったりは通用しないようですね。それなら仕方ないです。ここから先は真剣勝負といきましょう」
俺はヒューゲルに向かい合ったまま、腰に差していたダガーナイフを抜き放つ。
ナイフは身体の前方へ構えた。
ヒューゲルも大剣を抜いて、中段の構えを取っていた。
両者の視線が交錯し、互いが互いに頷く。
開戦の合図。戦いの火蓋が切られた。
最初に踏み込んできたのはヒューゲルだ。
駆け出して距離を詰めると、大剣を横薙ぎに一閃。
首元を狙うような豪速の剣筋が繰り出される。
それを《離脱》で躱すと、追撃に斬り上げが待っていた。
こちらはアーツを使わず、難なく避けられる。
上体を引くと、目の前を鉄の塊が通過した。
続くもう二撃も右へ左へと軽く避け、距離を離した。
体勢を立て直しながら、ヒューゲルの様子を窺う。
この戦い、焦る必要は全くない。
落ち着いて対処していけば、ヒューゲルの攻撃には当たらなそうだ。
首を狙う薙ぎ払いだけは練度が高かったが、斬り上げとその他の攻撃は大したことなかった。
おそらく、あの薙ぎ払いで数多くの悪人の首を両断してきたのだろう。
彼の《隠密》は誰よりも深く、決して対象に気配を察知されない。
言いかえれば、彼は通常の暗殺において攻撃を外さないということだ。
あの薙ぎ払いさえあれば暗殺を成し遂げられるはずで、他の攻撃の練度が低いのも頷ける。
首切りの異名を得たあの一閃だけは注意しなければならないが、その他の攻撃はあまり気を割かなくても大丈夫なのかもしれない。
一点特化。彼を表すのにはつくづくぴったりな言葉だ。
《隠密》だけでなく剣術においても、一つを極めているのだろう。
対する俺の戦型も首切りとさして変わらない。
狙うのは《必殺》による一撃。
ここ最近の修業で得た、唯一無二の攻撃手段だ。
要するにこの戦い、お互いの持つ、勝ち筋のカードは一枚だけ。
その一枚をどう決めるかという勝負である。
ヒューゲルは早々に決め札を切ってきた。
開幕速攻、不意をついて勝負を決める気だったのだ。
しかし、その結果は失敗と終わってしまった。
こうして、両者離れて仕切り直しという状況になり、ヒューゲルは決め札を早々に開示してしまったことになる。
完全なる失策だ。決め札を温存している分、こちらが有利な状況だ。
しかも、ヒューゲル側からは俺の攻撃手段が一つしかないことはばれていない。
俺は情報戦において優勢に立っており、このままのリードを引き離していけば、実力差をひっくり返して勝てるかもしれない。
目指すは持久戦。
ヒューゲルが疲れてきたところを《必殺》で決めるのが理想形だ。
「いやー、もうそろそろ諦めてくれませんか?」
「それはこちらの台詞だ。キミが諦めてくれないかね」
にらみ合う両者。互いに息を荒らげ、額には汗が滲んでいる。
俺とヒューゲルの戦いはかれこれ一時間近く続いていた。
動きに緩急はあれども、こんなに長い時間身体を動かしていたら、疲れるのは当たり前だ。
二人の戦いの推移はというと完全に膠着していた。
首切りの横薙ぎの一閃は俺に届かないし、俺がここぞというタイミングで放った《必殺》も難なく避けられてしまった。
しかも、その直後にカウンターを放たれてしまい危うい目にあった。
それ以来、積極的な攻撃を避け、回避中心の負けないことを重視した戦い方に戻すことにした。
自分でいうのもなんだが、ここまで攻撃力を持ち合わせていないとは思わなかった。
もう少しだけ《必殺》の練度が高かったら、状況が打開できていたのかもしれないが、この現状じゃ俺一人の力じゃどうにもならなそうだ。
自分の弱さが情けなくなってくる。
疲労困憊の身体に酸素を送り込む隙を作ろうとヒューゲルに声をかける。
「よくそんなに大きな剣を振り回していられますね。太刀筋から見るに剣術系のスキルじゃなさそうですね。身体強化系ですか?《隠密》に補正がかかるスキルとは別に、そういう類のスキルを持っているんですか?」
体力が切れかけているのはヒューゲルも同じだったようだ。
戦いの間を開けるためにか、こちらの会話に乗ってきた。
「さあな。戦っている相手に自分のスキルをひけらかすような愚かなことはしないが」
「それもそうですね」
身体強化系のスキルを持つ者に接近戦を挑むのは骨が折れる。
大剣を躱すことができても、距離を詰められ取っ組み合いになったら、力の差で負ける。
不用意に近づいたら、その瞬間に戦いは終わってしまうだろう。
だから、俺としてはヒット&アウェイで決めるつもりであった。
対するヒューゲルは依然、《隠密》で限りなく気配を消しての攻めを狙っている。
おそらく、俺の《索敵》が切れ、彼の存在を掴むことができなくなるのを待っている。
だが、狙いに反して、俺の《索敵》が途切れる状況はそうそう起こりえない。
日常から発動しているお陰もあって、長時間発動することは慣れている。まだまだ余裕だ。
だけど、気配を薄めながら戦われるのは、こちらとしても立ち回りにくいし、色々と都合も悪い。
なんとかして、《隠密》をやめさせられないかと提案してみる。
「そろそろ《隠密》解除したらどうです? 疲れるでしょう?」
「残念だが《隠密》なら何時間でも発動できるぞ。キミこそ私の気配を掴んでいるアーツを発動し続けるのが限界なようだな」
「残念ですね。俺も《索敵》は何時間でも発動し続けられますよ」
「そうか。やはりキミは厄介だな」
ヒューゲルは剣を構えた。
水平方向に刃を寝かせ、右手側から思いっきり振り抜く姿勢。
彼の十八番。首元を狙う横薙ぎへの溜めである。
地面を蹴りだすはずの右足に体重が乗っている。
ここから助走をつけて突っ込んでくる展開は何度も味わった。
既に見切っている攻撃だ。
「なら、これで決めさせてもらおう」
彼は自身満々に言う。
だけど、それは虚勢だ。ヒューゲルの手は読めている。
「それはこっちの台詞です」
俺も身体の力を抜き、即座に回避アーツで立ちまわれるよう構えた。
いい具合だ。調子がいい。
これなら、上手く回避してカウンターを決められるかもしれない。
口元が自然とにやついた瞬間、対峙する彼は意外なことを口走った。
「キミのお望み通り、《隠密》を解いてあげよう」
そう言った直後の出来事だった。全身を刺すような悪寒が襲う。
足がすくんで動けない。
この身体の芯を震わせる殺意の波動。
――《殺気》だ。
ミスった。嵌められた。
瞬時に頭で状況を理解する。
《隠密》からの《殺気》。
俺が19階層での戦いの最中、ジンから教わった盗賊系職の常套手段。
気配を消した直後に、濃い気配をぶつけることでモンスターの注意を引きやすくするテクニックだ。
ヒューゲルは同じ手を、そのまま俺にも使ってきた。
《索敵》により極限まで研ぎ澄まされた俺の感覚は、彼の《殺気》を全て余すことなく受け入れてしまう。
理屈は理解しているのに、肉体は思い通りに動いてくれない。
《殺気》で身体が凍らされる。力を入れようにも、今までどうやって手足を動かしていたかわからない。
指一本ですら、意識の制御下を離れてしまっていた。
焦点が上手く合わない視界の中では、既にヒューゲルが飛び出していた。
コマ送りのように迫ってくる大男。
均衡していた戦いの中でこの隙は致命的だった。
瞬く暇もなく、距離を詰められ、彼の攻撃圏内に侵食される。
それでも、まだ、俺の身体は動いてはくれない。
真横にスライドされる大剣はやけにスローモーションに見えた。
ゆっくりと俺の首に吸い付いていくみたいに滑らかだ。
まるで首と刃の間にレールが敷かれているような、そんな幻覚さえ見てしまう。
緩慢なその光景を眺めながら、俺は終わったと生を諦めていた。
負けた。これから先に待つのは、首と胴体が綺麗に二つに分けられる未来だ。
一秒先への理解と納得が、他人ごとのように頭に入ってくる。
だから、目の前で破裂した血しぶきと衝撃が自分のものではないと理解するのには幾ばくかの時間を要した。
気がついたら、ヒューゲルは地面に横たわって肩を押さえていた。
地面には小さい血だまりが出来ていて、彼は赤い湖の中でうめき声をあげている。
突然の状況にあっけに取られていると、空き地の木陰から聞き慣れた声が現れる。
「何が起きているか全くわからないんだけど、助けて良かったんだよね、幼女攫い君?」
その声で俺は全てを理解した。
賭けに勝ったのだ。
負けそうなギリギリのところで持ち堪えて、勝ちを掴み取ることができたのだ。
不確定要素だった、もう一つの切り札へ俺は答える。
「遅いですよ。リース師匠。何分遅刻しているんですか?」




