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第32話 二人だけの世界

 俺がエリンを生きて帰すと誓ってから、十何日もの時が過ぎた。

 ダンジョン内なので正確な経過時間はわからないが、俺達が20階層に降りてから一カ月は経っただろう。


 そんな中、俺達二人は幸運にも生を繫ぎとめていた。

 しかも、大きな怪我をすることもなく、自分達の足でダンジョン脱出の道を模索している。


 両手を何度も握り締める。

 大丈夫。力はちゃんと入る。まだやれそうだ。


 丁字路の交差点の先、ちょうど正面に見えるエリン相手にハンドシグナルを送る。

 俺とエリンがいない交差点の路からはモンスターが歩いてきていた。

 もうすぐ罠を設置した地点にたどり着くことを合図で知らせたのだ。


 薄暗い路で待機する少女も俺の合図に了解したようだ。

 限られた視界の中でもわかるように、ゆっくりと大きく頷いた。


 パキッ。枝を折る音を数十倍にも鋭く大きくした音が鳴った。

 どうやらモンスターが罠にかかったらしい。


「――ッ」


 間をおかずして、足を踏み出した。

 駆けてすぐの曲がり角を折れる。


 カエルもどきだ。やつは足を氷漬けにされて、もがいていた。


 ――《縮地》。


 一足でカエルもどきとの距離を詰める。

 ジンが普段から使用していた移動系アーツだ。

 瞬時に迫ってきた俺に、カエルもどきはビクッと僅かながら体を震わせた。


 モンスターとの遭遇時は基本、最初に目視されたものが狙われやすいとされている。

 これでカエルもどきも完全に俺に狙いを定めただろう。


 薄紅色の矢が高速で放たれる。


 ――《流線回避(ストリーム)》。


 続いて、20階層に放り込まれる前、何度も目に焼きつけてきた回避アーツを発動させる。

 カエルもどきから射出されたなめらかで鋭い舌をいなす。

 寸前で躱したため、唾液の粒が頰を掠めた。


 そのまま流れるように身体を動かし、カエルもどきの右側を過ぎていく。

 やつのぎょろっとした黄色の目と視線が交差した。


 直後、先程俺が迫っていた軌跡をなぞるようにゆっくりと進んでいた光の玉が、カエルもどきの横顔に吸い込まれる。


 エリンの放ったスペル、《光刃術式》だ。

 このスペルを吸い込んだものは、光の刃を体内から出現させられる。

 瞬きの後には、光の刃で埋め尽くされた両生類が立ち尽くしていた。


 しかし、こいつがこの程度の損傷じゃ死んでくれないことは学んでいる。

 20階層のモンスターは、人類が気軽に到達できない僻地に相応しいがごとく耐久力が高い。

 周囲に展開しているモンスターを寄せつけないよう配慮して、込める魔力を抑えたエリンのスペルでは一撃で倒すことは難しかった。


 ここが勝負どころ。

 ――お前を殺す。絶対に。


 ありったけの殺気を目の前のカエルもどきへと飛ばした。

《殺気》。暗殺者がメインに使用するターゲット集中アーツである。


 俺もこのアーツをジンが使用しているところはあまり見たことがない。一、二度程度だ。

 だから勘だけが頼りなのだが、それでも成功している自信はいくらばかりかあった。


 アーツは他人の技術を真似る以外にも、その種の技術を学ぶことで自然と身につける方 もある。

 気配操作系のアーツである《隠密》を練習していたからか、自身の気配を操るのには慣

れていたのだ。


《隠密》と真逆のアーツである《殺気》は比較的簡単に身につけることができた。


 カエルもどきの視線は一瞬だけ正面から現れたエリンに向いたが、すぐに俺へと向き直した。

 よし。成功している。ちゃんとターゲットは取れた。

 内心で拳を握っていると、カエルもどきの舌攻撃が襲ってきた。


 心配はいらない。今のカエルもどきは罠魔法で体の動きを制限されているせいで、上手く振り返ることができない。

 結果、背後にいる俺への攻撃は粗いものとなっていた。


 この程度の攻撃なら《流線回避(ストリーム)》で難なく対処可能だ。

 次々と迫る舌を躱していく。一つ一つ丁寧に。落ち着いて捌いていく。


 次に迫る攻撃をいなそうと右手を持ち上げた瞬間、エリンの二射目のスペルが炸裂し、カエルもどきを仕留めた。

 後に残ったのは氷でできた槍が脳天から突き刺さるモンスターの死体だけだ。


「よし。よくやった。ありがとう」


 打ち合わせ通りに動いてくれたエリンにねぎらいの言葉をかける。

「どうもね」と小さい声が返ってきた。


 罠魔法にかかったモンスターをスペルで一発、その後俺が回避アーツを駆使し気を引いたところで、二発目のスペルでとどめを刺す。

 まさに作戦通りといった展開だった。その成果に満足して肩を回す。


 カエルもどきとの戦いにも随分慣れてきた。

 アーツも戦いのたびに上達していき、今では元から身体に備わっていた機能の一部のように操れるようになってきた。


 モンスターの肉を切り取るためにエリンにナイフを手渡す。

 彼女の肉を剝ぎ取る技術も段々と上達しているようだ。

 これも20階層での生活に慣れ始めた証だろう。

 ひとまずの安心を覚えながら、作業を続行しているエリンに声をかけた。


「じゃあ、これが終わったらしばらく休憩しようか」


「わかったわ。ならさっさと終わらせないとね」


 20階層に放り出される前ほどではないが、それでも少しだけ元気のこもった声で彼女は応えた。

 だいぶ彼女の精神状態も安定したのかもしれない。


 カエルもどきと最初に戦った時とは大違いだった。

 まるで憑き物が落ちたといったくらいの変化だ。

 その変わりようにほっとしている自分がいた。


 エリンが片づけを終えると、場所を移動し、しばらく休めそうな区画に向かう。

 モンスターが少ないこの付近だったら、睡眠もとれるかもしれない。

 脱力して腰を下ろす俺に、エリンも続いた。


「大丈夫、エリン?」


 俺は彼女の表情を窺いながら尋ねる。

 それに彼女は両手を胸の前に伸ばしながら応えた。


「大丈夫って何が?」


「その……色々だよ」


「ああ……まあね……。完全に立ち直ったとまでは言わないけど……。ちょっとは楽になったかしらね。ノートのお陰で」


 苦笑いを向けてくるエリン。その表情はどこか恥ずかしげだ。

 溜めていた感情を吐き出したあの時のことを思い出して、居心地が悪くなっているようだ。

 慌てて、言葉を続けた。


「あー、でも足とか痛いかも。ずっと歩きっぱなしだったから」


 嘆きながら靴を脱いだ。

 地面に転がっていく靴は、連日の歩き通しで擦り減って、だいぶぼろぼろだ。


「もう靴も限界っぽいね」


「そうね。替えがないのが痛いわ……」


 俺の持つアイテムバッグに入るスペアの装備は、俺とロズリアとジンのものしか入っていない。

 エリンの装備はネメのアイテムバッグに入ってる状態だった。

 よって、エリンの替えの靴がない。


 靴に関しては他の衣服と違ってサイズが重要になるので、上着や靴下のようにロズリアのもので代用するということも難しいようだった。

 薄汚れた靴下を脱ぎながら、エリンは嘆く。


「うわっ。随分悪化しているわね」


 ところどころ擦り切れ、赤くなっているエリンの素足が目に入る。

 摩耗した靴を履き続けたせいだ。


「とりあえずいつも通り綺麗にするだけしちゃおうか。傷口に菌とか入るとまずそうだし」


「わかった。お願い」


 そう言ってエリンは俺の膝の上へと足を投げ出した。

 それに対して俺はアイテムバッグからタオルを取り出す。

 すぐさまエリンのスペルによって濡らされたタオルを絞り、傷口周りを中心にエリンの足を拭き始めた。


「――痛っ」


「動かないでよ」


「しょうがないじゃない。沁みるんだもの」


 頰を膨らませるエリン。

 この表情は本気で怒っていないタイプのやつだ。


「でも、ありがたみがわかるよな。ネメ姉さんの回復スペルの存在の」


「うん、頼りにしすぎていたせいで、応急処置の道具とか全く持ってきてなかったものね」


「そのくせ、いらないものは結構バッグに入っているんだよな……」


 なんて言いながらふと、この数日でエリンとの距離も随分縮まったな、と思った。

 昔のエリンなら、俺に足の手当なんて任せなかっただろうし、痛みを感じたらすぐ怒っていたはずである。

 それが今や、特に文句を言われないままエリンと会話ができているときた。

 これは大きな変化である。

 多分、それは彼女が俺に心を開いてくれるようになった証なのだろう。


 昔の彼女は他人を寄せ付けないことで、自分が傷つくのを防いでいた。

 しかし、今のエリンからはそういう排斥的な言動は見られない。

 それどころか心の距離が縮まった影響で、二人の物理的な距離も狭まっている気までする。


 以前の俺達は、座って休むにも、もっと離れた場所で座り合っていた。

 でも、今やお互いの肩が触れ合うほどの距離で座ることがほとんどだ。


 そして、俺自身もその距離感を不思議と不快に感じなかった。

 エリンの過去の告白を聞いて、俺も彼女に心を開くようになったのかもしれない。


 正直言って、今まで俺は『到達する者(アライバーズ)』のメンバー全員を尊敬こそしていたが、親近感を覚えたことはあまりなかった。

 彼らはどこか別の世界の人間で、凡人の俺とは違う道を歩むべき存在なんじゃないかとまで考えていた。


 でも、エリンの抱えているものをぶつけられて、彼女も自分と同じ一人の人間なんだと。

 それも、挫折や後悔を抱えた似た者同士なんだと、身近な存在に感じられるようになっていた。


「はい、終わり」


 水で濡らしたタオルで拭くだけという、手当ともいえないくらいな簡単な処置の終わりを告げる。


「ほんとありがとうね。こんなことまで……」


 本来、感謝されるほどのことでもないんだけど、それでもしおらしく頭を下げられた。


「いいって別に。このくらい大したことじゃないし」


 素直に感謝を伝えてくるエリンって慣れないな。

 背中がむず痒くなってくる。


 まあ、口を開けばすぐキツイ言葉が飛んでくる昔の姿よりは、ずっとマシなんだけど。


「なんか、エリン丸くなったよな」


「えっ? 太った? どちらかというと体重は落ちているわよ」


「そうじゃなくて、性格的にってこと」


「ああ、そうね」


 エリンは特段怒る様子も見せず考え込む。

 以前なら、『丸くなった?』なんて言ったら、『それって太ったって言いたいの?』とキツイ口調で返されていたと思う。


「これでもかなりノートには感謝しているのよ。あなたが思うよりずっとね」


「特に感謝されるようなことした覚えないんだけど」


「私の情けない身の上話をちゃんと聞いてくれたじゃない。それに私を励ましてもくれた。ピュリフの街に帰すって約束もしてくれた」


「約束をしただけで、まだ何も成し遂げてないけどね」


「でも、嬉しかった。それにここまでちゃんと生き延びられているじゃない」


 そういって、俺に微笑みかける。

 素直な気持ちをぶつけてくるエリンを見て、かわいいところも結構あるじゃんなんて、内心思ったりもしていた。


「エリンはさ。ダンジョンから出られたらさ、やりたいこととかあるの?」


 俺はふと疑問を口にした。


「やりたいことね……。どうして、そんなこと訊くの?」


「目的とかあった方が、頑張ろうって気にもなれるじゃん」


 それにエリンにはダンジョンから出ての先の生活でも、幸せになって欲しかった。

 この先の人生は20階層の生活なんかよりずっと長いはずなのだ。

 自分を卑下しながら歩み続ける人生なんて悲しすぎる。


 彼女には希望を抱きながら、毎日を過ごせるようになって欲しい。

 だから、その希望の手がかりになりそうなものを彼女の口から聞きたかった。


「そうね……ぱっとは思いつかないわね……」


「そう……」


 少し残念な気持ちになる。

 まあ、やりたいことなんてそうすぐに見つかるものでもない。

 長い人生の中でゆっくり見つければいいだけの話だ。


「あっ、でも!」


 エリンは咄嗟に何か思いついたように顔を上げた。

 つぶらな瞳がこちらに向けられる。


「ないこともないかも」


「何?」


「答える前に一つだけ質問していい? ノートは私のやりたいことを聞いたら手伝ってく れたりする?」


「それはもちろん」


 俺は即答する。

 彼女が幸せを手に入れることは俺の願いでもあるのだから。


「じゃあ、恋人とか欲しい」


「意外なの来たな……」


「そう? 私、彼氏とかいたことないし、そういうのも経験してみたいかなって」


「いいんじゃない。手伝うよ」


「そう答えて欲しかったわけじゃないんだけどね……」


 そう答えて欲しかったわけじゃないって、何……?

 手伝うのを拒否して欲しかったってこと……?

 それとも――。


「ノートは何かないの? ここから出てやりたいこと」


「そうだな。色々あるけど、俺も恋人は欲しいかも」


「何それ?」


 エリンはいきなり笑い出す。

 それにつられて、俺も思わず笑い返した。


「変だった?」


「いいや、全然。ただ笑いたくなっただけよ。いいわよ。私も手伝ってあげる」


「エリンが手伝ってくれるなら心強いや」


「私もノートが手伝ってくれるなら、叶えたも同然ね」


 俺達の間で重なる手と同じように、抱く気持ちも繫がっていればいいのに、と思わずに

はいられなかった。






 ***






 淡い幸福はきっと長くは続かない。

 それはいい意味でも悪い意味でもだ。


地図化(マッピング)】スキルで何度も行き来した路を確認する。

 駄目だ。やっぱり抜け道はなさそうだ。

 肩を落としたい気持ちを堪え、歯を食いしばる。


 わかっていたことだ。

 ありそうもない希望がないと確信に変わっただけだ。

 そう落ち込むことじゃない。


 自分を奮わせ、意識をしっかりと持つ。

 そして、覚悟を胸に、繫いだ手の先にいる少女に言った。


「エリン、転移結晶が見つかった」


「……えっ⁉ ほんと⁉」


 跳ね上がる声とともに右手が引っ張られる。


「ほんとなのよね? 帰れるのよね?」


 喜んで食いついてくるエリンに、俺は曖昧な頷きしか返せなかった。


「転移結晶が見つかったのは本当だ。でも、簡単に帰れるってわけでもない」


「どういうこと?」


「簡単に言うと、転移結晶にたどり着くまでの道に中ボスがいるんだ。多分、避けては通れないと思う」


 16階層以降、新たに出現するようになったギミック、中ボスの存在を《索敵》で察知していた。

 しかも、場所は転移結晶と俺達がいる現在地を繫ぐ大部屋。


 20階層は転移結晶のある入り口からは短い一本道が延びていて、中ボスがいる大部屋に繫がっている。

 その大部屋から路は分岐するようになっていて、迷路状の階層を構成しているようだった。

 つまり、俺達がピュリフの街に帰るには、中ボスは避けては通れない相手ということだ。


 頭の片隅では中ボスと鉢合わせないようにと願っていた。

 一カ月近くの道中の行き着く先が、こんな結末だとは。


 17階層から転移された位置が、中ボスより手前だったことを期待していたが、現実はそう上手くいってくれないようだ。

 といった状況を丁寧に、そして慎重にエリンに伝えた。


「わかったわ」


「……あまりショック受けてないんだな」


 エリンの顔色を見て、感想を漏らす。


「まあね。ノートを信じるって決めたから。一緒に帰るって約束したからね」


 彼女の瞳はもう濁っていない。

 以前の諦めとは違う、別の新しくて明るい感情がこもっている。


 やっぱりエリンは確実に変わり始めている。それもプラスの方向に。

 この先ずっと生きていれば、自分の過去と向き合って、ちゃんと変われるのだろう。


 だから、彼女にはここで死んで欲しくないって思った。

 絶対にこの階層から出してあげたいって思った。

 俺のささやかで一番叶えたい願いだ。


「で、どうするの? 作戦はあるの?」


 エリンが問いかける。俺は静かに頷いた。


「立てることは立てた。けど、成功する確率は低いと思う」


「いいわよ、従うわ。ノートが一番マシだと考えた作戦なんでしょ?」


「ありがとう。それで作戦の内容なんだけど、俺が中ボスを引きつけているうちに、エリンには転移結晶のある場所まで向かって欲しい。部屋から結界内までの路にはモンスターがいないから、中ボスさえ突破できれば帰れると思う」


「あなた……一緒に帰るって約束は……」


 エリンは裏切られたかのような表情を浮かべている。

 右手を握る力が強くなっていくのを感じる。


「そうじゃない。ちゃんと約束は守るつもりだ」


 そう言って、俺は続ける。


「確かに俺の方が死ぬ確率は高い。でも、こんなところでみすみす死ぬつもりもないよ。エリンが中ボスにばれないように大部屋を抜けて、モンスターが寄ってこなくなる転移結晶の周りの結界にたどり着いたら、俺も中ボスを撒いてそっちに向かうから」


「でも、撒けなかったら――」


「死ぬかもな。けど、これが二人で生き残る最善の策だ」


「二人で戦うってのは駄目なの?」


 エリンは懇願をこめて言う。


「そっちの方が無理だよ。《索敵》で探った感じだと、20階層の中ボスは16階層のボスと同等かそれより強い。そんな相手に、エリンと俺だけで戦うなんて無謀だ。だから、戦わないで逃げるんだ」


「……逃げる?」


「そうだ。俺も真っ正面から中ボスと戦うわけじゃない。ただ《殺気》で引きつけて、アーツで回避に専念し時間を稼ぐだけだ。そのくらいなら、中ボスを倒すよりずっと簡単だ」


 ここ何日間のカエルもどきとの連戦で回避アーツの技術だって研かれている。

俺には勝算が皆無な戦いには思えなかった。


 それに冒険者の中で最速に近い《絶影》状態のジンと何百回と手合わせしてきたのだ。

 20階層にいるモンスターの攻撃は目で追えるようになっていたし、動きにもなんとかついていけている。


 これはジンとの手合わせによる影響だけじゃない気もする。

 死という恐怖に晒され続けていることで、今の俺の感覚は確実に研ぎ澄まされている。

 昔の俺とは比べ物にならないパフォーマンスを発揮できる自信があった。


 俺がパーティーに入っていきなり1階層に連れてこられた時、フォースは『有り余る経験と踏んできた場数、潜ってきた死地の数』がジンにはあると言っていた。

 それが彼の強さの秘訣だとも。


 その意味がやっとわかってきた。

 確かに潜ってきた死地が、格上との戦いが、俺を成長させている。

 中ボスがどれだけのスピードを持つかは戦ってみないとわからないけど、やってみるだけの価値はあるように思えた。


「本当にノートを信じていいのよね……死なないわよね……」


「心配いらないよ。絶対に二人で生きて帰ろう」






 ***






 これが人生最後の睡眠になるのかもしれない。

 そんなことを考えながら、アイテムバッグから毛布を取り出す。

 20階層での生活も長かった。 毛布もすっかり汚れて黒くなっている。


 俺達は中ボスと戦うことに備えて、最後となる休憩を取ることにした。

 幸いにも、辺りには自分達の方へ寄ってきそうなモンスターもいない。

 しばらくぶりの睡眠も取れるだろう。


 いつの間にか一枚の毛布に二人で包まり、睡眠を取るようになってしまった。

 今も例に漏れず、俺の隣にはエリンが横たわっていた。


「弱気な発言はしないって決めてたけど、一つだけ言っていい?」


 俺の方を向くエリンの吐息が耳に当たる。

 くすぐったくて心地の良い感触に肩をすくませる。


「何?」


「本当に中ボスと戦うつもりなのね」


「戦うんじゃなくて、逃げるつもりなんだよ」


「でも、ほとんど戦うのと同じようなことするじゃない」


 繫いでいた手がぎゅっと握られる。


「私ね、このままの生活も悪くないって思っているの」


「このままの生活って?」


「こういう、ノートとたわいもない会話をして育む生活のことよ」


「そう?」


 言いたいことは理解できたが、あえて反論してみる。


「ここは陽の光もないし、食料だってろくなものがない。モンスターにいつ襲われるかわからないし、お風呂だって入れない。はっきり言って最悪の環境じゃない?」


「でも、こうして二人でずっと話せるし、案外モンスターにも襲われない平和な生活じゃない」


「それだったら、外の世界でも一緒じゃん」


「そうね。でも、外の世界とは違うものもあるわよ」


「というと?」


「ここは外の世界と違って二人だけの世界よ」


 ――二人だけの世界。


 そのフレーズは不思議なことに俺の胸のうちにすんなりと染み込んだ。


 確かにここは二人だけの世界。俺とエリンだけで完結した完璧な世界だ。

 この世界にいれば、俺達はお互いがお互いのことを想う限り、誰にも邪魔されず平穏な生活をおくれる。


 その世界はきっと理想的だ。

 世界にいる二人は心に傷を負うことなく、死ぬまで幸せでいられる。


「中ボスに挑まないで、限られた残りの時間で、とびっきりの幸せを味わうっていうのはどう? ここは危険な場所だけど、あなたと二人なら、それなりに長い時間はやっていけると思うの」


 エリンも俺と同じようなことを考えていたようだ。


「二人で抱き合って寝てもいい。一日中キスだってしましょう。それ以上の段階のことだって、いっぱい、飽きるほどたくさんしましょう。そうやって死ぬまで幸せな毎日を過ごしていく選択肢もあるのよ」


 繫いだ手に誘われて、俺の手のひらはエリンの胸に寄せられる。

 彼女の退廃的な提案は喉から手が出るほど魅力的だ。

 お互いがお互いを求め合って紡ぎ出される日常は、二人が幸せを得る最短の道のように思えた。


 手のひらから感じる鼓動は俺に扇情的な衝動を駆り立てさせる。


「――エリン」


 言葉を継ごうとする前に、エリンの口が開かれた。


「でも、あなたはその選択肢を選ばないんでしょう? 顔を見てわかったわ。中ボスに挑むのをやめないって」


「うん……」


 エリンの言う通りだった。

 俺だけはその理想に飛びつくわけにはいかない。


 だって、エリンと一緒にピュリフの街へ帰ると決めたのだから。

 その場しのぎの救いなんかではなく、彼女には本当の意味の救いを与えたいと願ったのだから。


「だと思ったわ。だから、これは確認よ。もしノートが中ボスと戦わないって決めても、決して私は責めないというね」


「ありがとう」


 エリンなりの気遣いに感謝の言葉を告げる。

 以前の彼女からは考えられないくらいの俺を思いやった言動だ。


「それに、そういうことはダンジョンから出てもできるからね」


「それじゃあ、死ねないな。ちゃんと生きて帰らないと」


 エリンの微笑みに、俺は堪らなくなって彼女を抱きしめた。

 生きて帰る理由がまた増えてしまった。

 これでは自分を犠牲にしてエリンだけ助けるって選択は取れなそうだ。


「なんか安心したら眠くなってきた」


「何よそれ? そうね、でも明日に備えてもう寝ましょうか」


「うん、おやすみ」


「おやすみなさい」


 そう言うと、エリンは俺の胸へ頭を預けてきた。

 繫がっていない方の手で、寄ってきたエリンの髪をすく。

 細くて、脆くて、でも少しざらざらしていて、何故かずっと触っていたくなるような触り心地だ。


 目を閉じれば、必ず明日はやってくる。

 こんなに明日が来て欲しくないと思う日は初めてであった。


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