第113話 レイファ・サザンドール
一体いつからだろう。人の善意を信じられなくなったのは。
それは生まれた時からかもしれないし、物心がついた時からなのかもしれない。
信じられなくなったというのは誤った表現で、赤子がこの世に生まれてきた時に産声をあげるように、自分にも本来備わっていた摂理だったのかもしれない。
あるいはもっと後。
母の浅ましさを知った時、もしくはレイファ・サザンドールが自分の母を殺す選択をした時かもしれなかった。
私の母は没落した貴族一家の息女であったらしい。
母伝えに聞いたことだから、真偽はわからない。
調べようと思えば、調べることも可能だが、別に今さら真実を知ったところで特段何かが変わるわけでもない。依然、情報は疑惑の範疇を超えないままだった。
そのような眉唾物の情報はどうでもよくて、確実な情報といえば彼女が宮廷に勤め始めたのが、私が生まれる三年前だったということだ。
当時母は宮仕えとして、王宮での職務に採用されることになった。
元々生まれがよかったからかもしれない。ある程度の階級があったということで一通りは教養を身につけていたからかもしれない。
本人の見た目も美女と周囲に評価されるくらいのものではあったので、華やかさなどを重視されて採用されたのかもしれない。
とにもかくにも、彼女は王宮に仕えることになって、そこで出会った国王と肉体関係を持ち、レイファという娘を産んだ。重要なのはそれだけだ。
もちろん、母は正妻などではないし、側室でもなかった。
父上には妻がいたし、娘が二人もいた。彼にとって、母はただの浮気相手だった。一夜の遊び相手であった。
対する母の方にも愛なんてものはなくて、ただの手段として父上と交わった。
自分の地位を取り戻すために。見下げてきた人間を見返すために。
権力への欲望と復讐心のみで身ごもり、私を産んだ。
父上にとって不幸であったのは、浮気相手が我欲の化身だったことだけではない。
我欲の化身から生まれてきた子が、一目見てわかるほどの王族の特徴を持っていたことだろう。
浅い金色の髪と、深淵を秘めたような紫色の瞳。
それは王家に代々伝わる遺伝子の系譜であり、父の姿や先代の王の肖像画を見たことがある者なら、私が王家の血筋を持って生まれたことは一目瞭然だった。
父上は当初、金銭で解決できる問題だと高を括っていた。
一介の使用人如き、人生で手に入れられる数倍の金を渡せば、王宮から離れ、密かに暮らしてくれると。
だけど、母は父上の考えているより、ずっと強欲だった。金だけじゃ飽き足りなかった。
彼女の目的は復讐だ。特定の誰かにではない。自分を虐げてきた、この世すべてのものに復讐するつもりだった。
常に彼女は私に言い聞かせた。
貴女は王になるべき人間だと。なんとしても王になるのだと。どんな手を使っても。他の何を犠牲にしても。そして、私を幸せにするのだと。
それは母が私にかけた呪いだった。普通の親が子供を抱きしめるように、母は私に呪いをかけ続けた。
そのような時間が十年近く続いた。
私が大きくなっていくにつれ、国王達は私の存在を無視できなくなっていった。
既に言い逃れはできないほど、私は父上に似ていた。それは姉上達を越えるほど。
父を慕う宰相は次の手を打つことにした。金銭でなびかせることができないなら、武力行使をも検討するとちらつかせた。
要は脅しだった。金で駄目なら力で母を抑え込もうとした。
だけど、そこにまたしても誤算があった。
母は脅しに負けるようなか弱い女ではなかった。脅しに真っ向から立ち向かうしたたかさを持ち合わせていた。
王家に反感を持つ貴族達を集めて、王家の血を引く娘という神輿を担いで、対抗勢力を作り出そうとした。
無謀な試みだ。王家相手に真っ向から勝負を挑むなんて。
だが、意外にも藁でできた神輿を称える人間は多かった。
ただの利害の一致だった。娘が王になるべきと信じてやまない愚かな母と、少しでも権力をかすめ取りたい貴族達。
いつの間にか、誰にも制御できないほど、藁の神輿は大きくなっていった。
関わる人が多ければ多いほど、物事というのは当初あった形から離れてしまうものだ。
最初はただの自衛手段だった勢力が、いつの間にか王家に対抗するための勢力に、いつしか王家を打倒するための勢力へと変わってしまった。
母は何かを成し遂げられるような器量を持った人間ではなかった。本来は自分の欲をも制御できないほどの矮小な女なのだ。
彼女を慕う人が増えるにつれ、勘違いの度合いは増していった。
自分は本当に王家を打倒できると、娘を王に仕立て上げられると。まるで自分自身が王になれるかのように振る舞い始めた。
間違っている。幼いながら、私にもそんなことはわかっていた。
貴女はただの一般人だ。
何かの間違いで、一瞬だけ王家と関わりを持っただけで、本来は人の下にいる人間だ。人に使われるのが身分相応な人間だ。
その程度の簡単な物事が彼女にはわからなかった。
母は遂に王家を打倒するための行動に着手し始めてしまった。
それが大義だと信じて。自分の娘を王にすることがまるで使命だと言わんばかりに。
でも、それは傍から見たらただのクーデターだ。
成功するわけがない。それは歴史から見ても明らかだったし、何より当主に信念がなく、欲に目が眩んだ配下しかいないクーデターが成功する方がおかしかった。
だけど、その程度のことすらわからない。
失敗すれば殺されることは明らかなのに。娘を王にする願いは叶わなくなってしまうのに。
何度だって説得しようとした。馬鹿なことはやめた方がいいと。
その度に母は言った。
──貴女は王になるべき人間よ。なんとしても王になるの。どんな手を使っても。他の何を犠牲にしても。そして、私を幸せにするの。それが今この時よ。
母は盲目のまま、突き進む選択をした。
私には今がその時だとは思えなかった。
──貴女は王になるべき人間よ。なんとしても王になるの。どんな手を使っても。他の何を犠牲にしても。そして、私を幸せにするの。
それは呪いだった。母が私にかけた、生まれた意義とも言える呪い。
──貴女は王になるべき人間よ。なんとしても王になるの。
そうだ。私は王にならなくてはいけない。このようなところで死ぬわけにはいかない。私こそが王になるべき人間なのだから。
──どんな手を使っても。他の何を犠牲にしても。
そのためだったら、どんな非道な手を使ってもいい。何を切り捨ててもいい。最後に私が王になってさえいれば。
──そして、私を幸せにするの。
だから、私は母の幸せを犠牲にすることにした。切り捨てることにした。
簡潔にいえば、私は母を売った。宰相、そして父上の手に。
そして、母は処刑されることになった。王家に仇なすクーデターを煽動したとして。
クーデターの要とされる人物に裏切られたとあっては、証拠は揃いすぎていた。真っ黒な彼女は既に殺される以外の道が残されていなかった。
代わりに王家への忠誠を選んだ私は、父上に引き取られることになった。
宰相は反対したみたいだけれども、父上はレイファという娘の存在を公に認知することにした。
それはただの感慨からではないのだろう。
ただ王家の血筋を持つ人間を野放しにして、再度同じようなクーデターを起こされるよりかは、自分の娘として扱った方が御しやすいという判断をしたに過ぎない。
それは愚かな選択だ。私は王への道を諦めていないのだから。呪いは解けていないのだから。
王の娘だと認めることはすなわち、私が王になる権利を正式に得たということだ。私は王の座に近づいた。自分の選択は間違っていなかった。
母が処刑される日、私は母と最後に顔を合わせる機会を得た。
首に刃をかけられたまま、彼女は私に言った。
「あんたなんて生まなければよかった。あんたなんて生まれなければ、こんなことにならなかった。私が死ぬことも。逆賊として扱われることも。全部あんたのせいでおかしくなった」
違う。間違っていたのは貴女の方。
「私が希望を持つこともなかった。やつらを見返せると。すべてを手に入れられると。あんたさえいなければ!」
違う。私は何も間違っていない。
だって、私は貴女の言いつけを守ったのだから。
──貴女は王になるべき人間よ。なんとしても王になるの。どんな手を使っても。他の何を犠牲にしても。そして、私を幸せにするの。
私は貴女の幸せを犠牲にしてでも、王になると決めたのだから。実の親から憎まれようとも、恨まれようとも。私は王にならなくてはいけない。
それこそが貴女が私に望んだことだから。それこそが私の生まれた意味だから。
王の子として生まれたからには、人の頂点に立たなければならない。そういう生き方しか貴女に教わっていないのだから。
だから、私の選択は何も間違っていない。正しい行いなのだ。
実の母を殺す選択さえも、私が王になりさえすればすべて正しいものとなる。悲願のための正道となり得るのだ。
だから、私はなんとしても王にならなければいけない。道半ばで死ぬわけにはいかない。他の何を犠牲にしても王の座につく。
それこそが母を殺す選択を正当化する唯一の方法だから。自身の非道な行いを肯定するたった一つの手段だから。
そうして、母は私の目の前で首を落とされた。
血飛沫が跳ねる中で、怨念のこもった目で睨みつけられたまま、その瞳から光が失われていく様を見て、すべてを悟った。
私は、この愚かな母親を、母親としては最低の女を。
呪いをかけられてもいいと思うくらいには好いていたのだと。
その日、レイファ・サザンドールという人間の形は決定づけられた。
残虐非道な行いを好み、片方だけ血の繫がった実姉をも暗殺しかけ、王の座を邪魔するすべてを薙ぎ倒す。
歴史に名を残すような暴虐王女が。
皮肉にも、すべてに復讐を為そうとした女の死をもって、呪いは完成したのだ。




