01-25 『タケヤ対拷問官(8) 学習者』 2月1日
イメージトレーニングに似ているが、これはそれとはまったく別物である。
睡眠中にみる夢、妄想、幻覚、酩酊。これらを変性意識状態と呼ぶ。本来ならこの種のモノからは何も『学習』は出来ない。
意識上、意識下、どこにあるかは関係なく、全ては脳の中にあるのだ。
知識、印象が結びつき、新たなイメージ、発想、アイデアが生まれたとしても、それは埋もれた記憶の再発見、新たな結合の発見であり、『学習』ではない。
知らなかったモノを知る『学習』ではない。
元来これは古典的な拷問法である。
薬煙により対象を酩酊状態におき、言葉による暗示を使い、思うがままの悪夢に落とす。繰り返される死、終わらない恐怖、いかなる悪夢にも誘導できる技術を拷問官は持っている。
拷問官は決して嘘をつかない。
彼がタケヤに戦闘訓練を行うと騙して、拷問にかけているのではない。
これはあくまでも戦闘訓練なのだ。彼が数年前に開発し、放棄した訓練法である。
発想はシンプルなもので、対象を軽めの変性意識状態におき、実際に戦闘の手ほどきを行う。
杖が頭に触れれば、頭蓋を粉砕され、胸に当たれば心臓を刺し貫かれる悪夢を見る。
教官の攻撃は本物であり、攻撃の結果おきる破壊は幻覚である。
学習者には、自分が死んだイメージの後、無意識のまま立ち上がり、剣を構えたところでまた、半覚醒状態になる暗示が与えられる。
実戦と同等の緊張感をもった訓練。
驚異的な学習効果が現れるのは明らかだと拷問官は考えたが、実際には使い物にならなかった。
学習者の精神が耐えられなかったのだ。
ほんの数回の訓練で、学習者の精神は追い詰められた。
この結果は拷問官には意外だった。
終わらない悪夢にはある程度耐えられるのに、この訓練法には耐えられない。
脳内で完結する悪夢と違い、知識の流入が関係しているのかと軽く考察したが、拷問官はその理由に興味を覚えなかった。
この訓練法は失敗だと拷問官は結論をだした。
*
タケヤというこの青年はいったい何なのだ?
拷問官は考えた。
驚き、怯え、おののいているがタケヤは正気のままである。相手がどこまで追い詰められているか観察する技術がないと拷問官は勤まらない。
どこまでいけば、死ぬ、発狂するかを判断できないと拷問稼業は勤まらないのだ。
拷問官がこの訓練法をタケヤに使った理由はただ一つ、やはり三十一桁を引き釣り出す為だった。
狂気の淵にまで追い込めば、ヤツは出てくるはずだ。
左腕を斬り落とす暗示でヤツが出て来なかったのは、私がタケヤを殺すことは有り得ないと察したからか。
ヤツがヒノデ村が何であるかを知らなくても、鬼の襲来以外で無駄な殺戮はないと読んだのだろう。正確な読みだ、と拷問官は考えた。
ところがタケヤは平気ではなかろうが、この訓練についてきている。
十数回に及ぶ、自分の死にキャーキャーワーワー悲鳴を上げながら耐えているのだ。これがどれだけとんでもなく、ふざけた話であることか。どんな精神構造をしているのか。
この青年は何なのだ、惚けている、緩んでいる。尋常ではない。
三十一桁。三十一桁の一致者。
過去の計測では最高で十二桁の一致者、五十キロの位置に居た者が一番近かった。
三十一桁の一致なら『あの時』『あの場所』から数メートルの場所にいたはず、何が起きたかを知っている可能性が高い。異能の中心、魔王の刻、何が起きたかを見た者。最大の謎を知る者。最悪の謎を守る者。
繰り返される訓練の中で拷問官は一つの答えに辿り着く。
違う。彼は最初から三十一桁なのではないか。
謎を守る者、タケヤの人格の中に、別人格の三十一桁がいるのではなく、彼がすでに三十一桁なのではないか。
この訓練に付いてこれる精神力がその証拠なのか。
既に謎は失われ、ここに居るのは空の三十一桁、強靱な精神力は異能の残り香に過ぎないのか。
期待外れの徒労に終わったが、それも仕方あるまい。
タケヤの訓練を始めて、そろそろ三十分が経過しようとしている。あまり長時間の訓練はコートの連中に不審を覚えさせると拷問官は判断した。




