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ざわめきが消える。良く通る声がこの王国の、頂である人物がこの広間にやってきたことを告げたのである。
そう、王がおいでになったのだ。
多くが利き手を胸に当て臣下の礼をとる。メルルも扇を閉じ、周囲に順じた。
うそ。
メルルの耳に小さな、鈴の音のような可憐な声が届いたのは偶然か。
なぜ、どうして、龍王さまが。ファム・ランクスが起きてしまうの? それとも終わったの?
静かな室内にそんな声が響く。
頭を下げているメルルには王が連れている誰かを見ることは叶わない。多くがそうだ。この広間に集う臣たちは王がひとこと、許しを与えなければ下げた頭を上げることなど出来ないのである。
王の低い、耳に優しい声が響く。
王は護衛を引き連れていなかった。いつも側にいるはずのメルクト家当主の姿が見当たらない。このような宴の席には騎士としての正装をし、絶えず王の御側にて周囲に気を配っているはずであったのだ。
なにか不測の事態でも起こったのだろうか。
そんなことをおもいながらメルルはゆるりと視線をずらして声を失った。少しばかりの間を開け男が王の横に並び立ったのだ。黒の衣はいつものことだが、今日はふたりそろい踏みである。やはり双子であったのか。
令嬢は、言った。
龍王さま、と。
メルルは男を、男たちを見る。聞きたいことは山とあった。
どうしてあの丘陵に龍王という存在である男がうろちょろしていたのかと。
あの戦いのあと記憶を消したのはなぜかと。
双子なら双子と最初からなぜ言わなかった。どちらかを選べと今更いわれても、答えようがないほどメルルの中では大切な存在になってしまっている。
迎えにいくと言っていたが、男たちはいったい、王になんと伝えたのだ。
まさか嫁にもらうと真っ正直に言ったのか。人間に龍が下した命に逆らうあがきができるとでもおもっているのか。
令嬢に対してもそうだ。
メルルも推測しか出来ていなかった、男の正体を正確に知っているのかとか、王に無礼を働いたままなのは皇太子の権威で何とかしてもらおうとしていないかだとか、とりあえず、有象無象にわいてくる疑問を明日に放り投げた。
王が苦虫を噛み潰している。
それはそうだろう。龍に抗っても残るものはない。すべてが消し炭に変わるだけだ。
王は国が定める範囲に住まう多くを庇護する代表者である。
メルルという生贄を捧げるだけで龍がにっこりと笑み引き上げるならば差し上げます、と献上するだろう。
王族だけが昇降できる階段を、王を筆頭に男たちが下ってくる。
広間に集う全員が息を飲んでいた。動くに動けず、ただ見ているだけしかできなかった。
王が階段を下り床へと足をつける。その足元にはビロードが敷かれていた。
多くの貴族が立つ床は頭上の光をも照らし返すほど磨かれた大理石である。
「メルル・マルクト、これへ」
ごくり、とメルルは思わず大量の空気を飲み込んでしまった。痛みに目頭が熱くなる。呼ばれるだろうなぁ、とはおもったのだ。男が王と居る時点で、呼ばれないわけがないのである。
挨拶に出たまま戻ってきていない弟を伏せがちの目で探すが、どこに隠れたのか居やしない。逃げたのかと表面上は飄々としながらも内心で舌打ちした。動きたくない、されど行かねば男のことだ。来ないのならば赴くまでとやって来、抱き上げたあげく首筋を食むくらいは悠然としてくれやがるだろう。
戦場にて培われたかなり汚い言葉遣いをしていると自覚しながらも、メルルはそれを正すことなく悪態をつきながら足を踏み出そうとした。
そのとき。
一瞬だけ雰囲気を変えたかの令嬢が蕩けるような笑みを満たし軽やかに躍り出た。
「龍王さま、お初におめもじ致します! 木蓮の乙女であるわたしを必要としてくださるのですね、嬉しい!」
令嬢の行動にメルルは出遅れる。
しかも口外してはならないだろう言葉を大きな声で発してしまってはいまいか。
結果、広間に集う誰もが身を固くしてしまったと想像するのは容易い。メルルも呆気にとられていた。
令嬢は嬉しそうに王都で流行っているのだろう多くのレースをあしらったドレスの縁をつまみ上げ、メルルの横を小走りで追い越し、王の前に躍り出る。そしてその名を名乗ろうとした。
だが令嬢は突如、その儚げでありながらも可憐で愛くるしい表情を驚きのそれに変えたのだ。
メルルは令嬢が引きつった声を放つ小声を聞いたことで、我に返った。なにごとかと表情を引き締め、誰にとっても失礼にならない程度の速さで近寄る。
令嬢は男を見て恐怖に打ち震えていた。
「どうして、どうしてふたり、いるの」
メルルは確かに聞いた。世界が破滅する、という聞き逃せない不穏な言葉を令嬢が発したのだ。聞き捨てならなかった。無礼を通り越して不敬になってはいまいか。他人事ながら少々心配になってくる。皇太子が選んだ女性はメルルとは間逆の性格をしていると報告書にもあり、そのままを信じていたのだが、どうやら少々おもい違いをしていたようだ。慎ましやかでしとやか、それでいて健気な物言いをし、誰であっても咎めはしない。非があるのは己であると。だから己が身を律すれば相手も矛をそっと収めてくれる。八方美人と言えばそのとおりだが、荒事を起こる前に平らにするならば、やり方はどうであれ結果としては間違ってはいないといえた。
そして前述のとおり状況判断がとても優れているご令嬢であるが、いくつかの難点はあるものの様々な面でメルルより上等かもしれない。そう判断していたのだが、偽装していたのだろうか。
違和感の正体がわからないまま、気持ち悪さだけが残る。これはだめなやつだ。早急になんとかしないと悪い方向に転がりかねない。
しかしながらあの令嬢はなかなかに良い根性の持ち主だといえよう。面白い逸材だ。そうメルルは令嬢を再評価した。王妃という役は繊細な精神の持ち主では担えない時もある。磨き方次第では、メルルよりも輝くだろう。
もしも、の未来を辿ったならば、この令嬢と友人になれていたかもしれない。そんなしょせんない仮定をおもう。
兎も角もメルルは男たちを見上げた。
いつもながらに美しく、そして見事に真っ黒である。黒以外の服も着ればいいのにと勧めたこともあるのだが、用意されているすべてがこの色なのだと何事もなく言っていた。ならば今度、王都にでも戻った時に古着屋めぐりをしようとやくそくしていたことを思い出す。
「迎えにきた」
令嬢に見向きもせず、男がメルルの前にひざまづく。紅を漆黒に帯びる男がメルルの手をとり、そっと手の甲に口付けた。
その横でもうひとりも口元を弧にしている。だが今にも噴出しそう担っているのは共通していた。
微笑が崩れ眉を寄せて訝しむ、あまり淑女としてはよろしくない顔面をしているからだろう。
男が龍であった。それはまあ、いい。あとでじっくりと追求すればいいだけの話である。
そもそも龍王とは天空を往く浮き島を居城に、世界に住まう竜族を束ねる長だと伝えられている。地上のあれこれには手を出すことはない、おとぎ話のなかに出てくる存在としてこの国の人間には伝えられていた。それもそのはずである。竜がこの王国に飛来するのは二、三十年に一度くらいであるし、この国の民は竜と縁を結ぶ東の国とは違いどちらかといえば畏怖の念が強い。
王が男を、そしてメルルを見ていた。その双眸と目が合う。
見開かれた王の瞳にとあるものを見つけた。思い浮かぶのは空を埋め尽くすかのように飛来した、竜たちの目だった。それを王が持っている。
もしかすると、王族には竜の血が流れているのではないか。
ふとメルルはそう思った。
なぜならおとぎ話の中に、あったのだ。
むかしむかしの、原本に近いとされる持ち出しが禁じられていた年月を感じる綴じられた冊子のなかにあったのは。
細身の剣を片手に雄雄しく、王の側に立ち共に戦う竜の乙女の物語である。天空から舞い降り、苦難に満ちた大地の、安寧を願う王の下に愛を囁くために翼を捨てた凛々しい女性の物語。あれは史実であったのだ。名も伝えられぬ誰かがこっそりと書き記した。読まれることを前提にはしていない。ただ著者が感じた、おもった感情をただ書き記しただけのもの。
もしかしなくともその未来が今に続いているのだとメルルは確信した。してしまった。
物語はただの物語ではなかったのである。
史実を基に、人々に親しみやすいよう荒事や血なまぐさい描写を避けて再構成されたもの、であったのだ。
だがどうにもメルルが選ばれた理由がわからないでいた。
ああ、もしかしてあれであろうか。両親共に雷を操るあの能力。
可能性としては、あり、だろう。
ならば令嬢がつぶやいた言葉はいったい、どんな意味を含んでいるのであろうか。これまた有名な絵本にある乙女のように未来視の能力を持っているとでもいうのだろうか。
「いや、いやあああ!」
令嬢が大きな瞳を見開き、ぽろぽろと涙を零しながら絶叫する。
この時になってようやく皇太子を始めとする集団が動いた。口々に令嬢の名を呼び、またもやメルルになにか、嫌な言葉でもかけられたのかとあやしている。だが令嬢は怖いの、そばに居て、とだけ繰り返し泣くばかりだ。
メルルは手を伸ばしかけ、やめた。なにを言ったとしても聞いてもらえる気がしなかったのだ。
何度も繰り返すが王の御前である。皇太子とはいえ、公の場に在る間は臣のひとりとして認識されるのである。取り成そうにも、令嬢を中心に作り上げられた世界にどう切り込んでいいものやら迷うところであった。色恋は盲目になると伝聞されているがまさしくそのとおりである。
そメルルは表情を保ったまま、どうか気付いてほしいと皇太子の横顔を見た。
だが今日のところは引く。己の犯した罪から逃れようとおもうな。そう悪役が放つ台詞を皇太子が残し、そそくさと令嬢を囲みながら八人の取り巻きたちが宴の会場を後にしてしまったのにはおもわず呆気にとられてしまった。
なにがしたかったのか。本当にわからない。
そしてなにより今後を予想するのが怖かった。
丸くはきっと、収まらないだろう。国はきれいごとだけでは統治できないものだ。せっかくの祝いの席だったというのに。忙しくなられる多くが生まれてしまったことだろう。夜も深けてゆく暗がりで、密談がいくつももたれ、舞台にあがった者たちがひとりずつ降りてゆく算段がつけられる。
国の運営には直接係わり合いのない父の胃を、密かに娘は案じた。
将軍の娘もまた、役を剥がれ家名を名乗ることすら封じられ、ただのメルルとなってしまうのは明白だったからである。
メルルはクッキーを置いていた、すでに空になり所在無さげに手にしていた皿をおもわずくるりと一回転させる。
ため息しか出なかった。そしてこの空気をどうやって払拭していいのかもわからず途方にくれていた。
その沈黙を破ったのはこの国の王である。
「龍妃の誕生を心より祝福いたします。龍妃におかれましては御身がいつまでも健やかであられることをお祈りいたします」
男たちと並び立ったメルルに両膝を折り、王は頭を垂れた。
そして立ち上がり静かにメルルに向かい、かつて皇太子と結んでいた婚約を解く旨を言葉にする。
ちらりと男を見れば素知らぬ顔だ。
「この度のこと、感謝いたします。陛下もご健勝であられませ。ただひとつだけ、殿下を更迭することだけはおやめください。冷静におなりになれば、いつもの殿下に戻られるでしょう。あの令嬢に対しても温情を。私にできることがございましたらなんなりと致しますゆえ」
メルルは妃教育の際に覚えた、笑顔を張り付けて王へとにこやかに笑んだ。
一度、すべての事柄を洗い出し、整理する必要があるとメルルは直感する。
ただ情報過多だった。頭を休められる場所に退きたかった。
「よし懸念していた案件も片付いたな。帰るぞ」
「そうだな、参ろうか」
メルルは男たちに力なくこくり、と頷く。誰であってもいい、この会場から連れ出してくれるならば、空想上の怪異に手を引かれたとて今ならばついていけるだろう。少なくとも皇太子殿下とメルルの望みは今夜、叶ったのだ。
あとはゆっくりと脳内に残された懸案事項を片付ければ、メルルが望んだ穏やかな日々がやってくるに違いない。
「姉さん!?」
耳に聞きなれた声が驚きをもって放たれたのをメルルは聞く。
なぜ今頃出てきたのだ弟よ。少しばかり視線が冷たくなっているだろうが仕方の無いと諦めてもらうしかなかった。
決して忘れていたわけではない。居てほしいときにどこかへ姿をくらませていた弟でも、大切な家族である。丁度いい、ならば矢面に立ってもらおう。そうメルルは決めた。
「弟よ、姉はこれからちょっと空向こうまで出かけてきます。父さまと母さま、兄さまにも伝言頼むね」
「は!?」
弟にとってみれば寝耳に水であろう。
だが仕方が無いのだ。せっかちな男たちである。説明している時間はたぶん、もうない。
「久し振りだな。サレクノの森以来だ。元気そうでなにより」
「将軍には世話になった。後日改めて挨拶に伺いたく存ずる」
男たちは弟にひとこと、それだけを告げた。
「姉さん、そのひとたち誰!? いつの間に! ちょっと待って、サレクノって丘陵の手前にある? え、え、どういうことになってんの!?」
遡ること数ヶ月前、一緒に鍋を、雪舞う砦で新年の炊き出しをして、同じ釜のめしをつついたこともあるのだとメルルは弟にそう答えることもできず。瞬きをする一瞬の間に蒼の世界へといざなわれてしまった。
会場はきっと、祝賀の雰囲気ではなくなってしまっただろう。
ぶるり、とメルルは体を震わせた。冷たい風が再度、頬を撫でてゆく。
眼前にはいつも見上げていた空があった。視線をゆっくりと左右に振れば雲海が大地を覆い、その隙間から緑の木々が広がっている。
そう、そこはもう神話に伝えられる蒼穹の、龍が住まう天空の城であろう。
「ようこそ、我らの住処へ」
メルルは男たちの手をとる。
今日はたくさんのことがありすぎた。少しくらいは休んでも罰はあたらないだろう。
かの令嬢の正体やつぶやいた不穏な言葉の謎を追いかけたいのはやまやまだが、整理したい情報が山のようにできてしまった。これを片付けるほうが先だろう。
やっと隣国との和平がなったばかりだというのに、忙しいことこの上ない。
だが戦いは終わった。あの国の民が、隣国に蹂躙されることだけは、どちらかの国が無くならなければ起こりえない。それに自身を悩ませていた問題も一応の解決をみたのである。
とりあえずひとつの、物語の区切りとしてはまあまあの出来なのではなかろうか
頬が安堵でゆるまる。
震えていた体をそれぞれが脱いだ黒の衣に包まれ身動きができなくなったメルルは頬を膨らませた。
その様をふたりの男が小さく笑む。
ひとつの物語が終わり。また新たな物語が生まれる。
次章の予測をいま立てるならばさしあたり題名はマルクト家長女が実家に戻った時の騒動になるに違いない。
そんなことをおもいながらメルルは笑った。