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目の前で繰り広げられている弾劾はようやく、佳境に入り始めた。
彼らの主張がもし本当であるならば、メルル本人ではなく従姉妹が行なったことになる。だが従姉妹が殿下に横恋慕などするはずもない。なぜなら彼女には彼女の婚約者がいるからだ。一年前、メルルの身代わりを渋った最大の原因はそれである。三カ月以上会えないと寂しくて死んじゃう、と従姉妹が泣きじゃくったのだ。彼女の婚約者は地方を巡り物の売買をする商隊を率いている。ちょうど三ヶ月に一度、彼は彼女の住む町を訪れ、逢瀬を重ねていた。しかもふたりは双方共に両親が承諾済みであり、従姉妹が成人の十六を迎えたら結婚する確約まで教会に提出しているという。そんな従姉妹が不貞を働くわけもなく、彼らの主義主張そのものが砂礫だとメルルには見えてしまった。
メルルは聞いているだけで羞恥に顔色を変え俯かねばならぬ歪な話を聞きつつ、未来のためだと巻き込んでしまった従姉妹に心の中で謝罪し続けていた。
戦いに敗れたら隣国がこの国を踏み荒らすだろう。結婚する前に、この国が蹂躙されるのである。だから身代わりになってほしい。
最初こそは冗談だと、平和ボケしていた従姉妹も、メルルの弟までが招集されたと聞き顔を真っ青に変えた彼女をメルルは覚えている。本家の男が費えたならば、分家から人員を出さねばならないと彼女も知っていたのだ。
正論ではあった。もしかして、という仮定ではなく、本気でこの国の国境は破られかけていた。戦いの最前線で踏ん張っていた騎士と自らの意思で志願してきた兵たちがぎりぎりの一線で持ちこたえたからこそ終戦が訪れたのである。
とはいえかなり乱暴な説得を従姉妹にしてしまった自覚のあるメルルは、彼女が学園でなにをしたとしても責められはしない。
だが従姉妹が彼らがいう事件を起し、嫌がらせをしたと断言したとしてもメルルは否、と受け入れることはできないし、受け入れるつもりもなかった。なぜならばメルルは従姉妹を信じていたからだ。
となると、両者共に主張が異なることから、どちらかがうそをついていることになる。
しかしメルル側も決定的な確証を持ってはいない。果たしてどちらの言い分をどれだけ多くが信じるか、に掛かってくるだろう。だが年頃の青年と少女が集う学園である。閉ざされた園と言っても過言ではない。
結論から言うなれば間違っているのは殿下やその近習たちが揃えた証拠である。
それをどうやって崩すのか。話を聞きながらメルルは嘆息していた。考えるまでもなかったからだ。
本来ならばこの宴には出なくとも良いと通達を受けていた。が、次期王、皇太子であり現在、メルルを謂われ無き罪で糾弾する8名を背負っている彼から父の名をちらつかせ、何事があっても来るようにという強い要望が書かれた手紙が届いていたからこそ、出席したというのに。弟がやんわりととめてきた理由とはこれか、とそのときになって理解したメルルである。
長く続けられた話をすべて簡潔に要約すれば、皇太子の婚約者であるメルルが嫉妬にトチ狂い皇太子が想いを寄せる令嬢に悲惨とまで誰もが息を飲む嫌がらせを超えた行為をし続けた、と主張しているのだ。
その最たるは手の甲に付けられたという真新しい傷だ。白く滑らかな肌に走った傷は浅くなかったという。巻かれた包帯の手をそっと隠す令嬢が切なげに視線を落とした。
「……申し開きはあるか」
「はい」
メルルが即、そう頷き返せば目を見張る幾人かがいた。
「ですがこの場でなさっても良いのでしょうか。このように多くの目と耳がある、隣国との停戦協定が成り、多くの騎士が集うこの席で」
メルルはにこやかに笑む。
辛い時こそ笑っていろ。唇を引き結び弧を成せ。そして剣を振ってきた。
怖くなどない。恐ろしいわけがなかった。真っ赤に染まった自分自身の体を川で泣きながら洗い、取れぬ死の匂いに嘔吐した日々に比べれば屁でもない。
だからメルルは順番に事柄を処理してゆく。憤りはなかった。ただそこまでして追い落としたいかという落胆はあった。
この宴の席の前に、頭の上に出来た悩みがさらに増えていたが、それに比べれば婚約破棄くらい軽いものだ。その問題もとっとと地面に投げつけたほうが良いかもしれない、とすらおもう。
逃げ出せるなら逃げ出したかった。
それでも顎を引き、前を見据え皇太子に対向するのは彼に良き王となってほしいからである。
現王と彼を比べるのは、きっと殿下にとって不満だろう。なにせ王は政権という名の手綱を握り束ねそろそろ15年ほどになる。王冠を継ぐだろう皇太子はまだゼロだ。その手腕とやり方を現在進行形で学んでいる最中であるし、人は死ぬまで学び続けられるほどこの世界にはさまざまが満ち溢れている。帝王学を修めていても得た知識を実際使えるようになるまで、さらにたゆまぬ努力を必要とするのが慣例だ。
王家に生まれてしまったのが運の尽き、とまでは言わないが、生まれついた身分に負けぬ精神を磨き、与えられた責務を全うするのが役目と成る。
なので皇太子が発した言葉の中にあった文言、『自由がなくて息苦しかった。愛らしく考え方の違う、彼女が救ってくれた』とかどうとかはまったくもっていま、必要の無い論議である。
メルルが良い例だ。
王に今からお前が皇太子妃である、となんの脈絡もなく役目を手渡されたのである。まさに青天の霹靂だ。皇太子として生まれついたことと、そう大して変わらない身の上であろう。王の目に留まらなければ両親のような恋もできたかもしれない。
続けられますか、の問いに当たり前だ、という皇太子の返答を受け、承諾したとメルルはこの舞台を続けることにする。
「皆様方の主張はわかりました。では次に私の番ですね。必要ない、とはおっしゃりませぬよう。さて、まず第一に、私は殿下の後方に縋る令嬢の名を知りません」
なぜか野次と罵声が飛ぶ。そんなことはありえないと。ひどいと涙ぐむ令嬢を8人の、これからこの国を背負ってゆく者たちが代わる代わる慰めるその様は、はっきりいってなんの喜劇かと問いたいほどであった。
「私がしたとされる行為に関してはこちらの手の者にも精査をさせます。また両者に関係の無い第三者も立てましょう」
関わった多くの者たちの私生活が暴かれるが仕方が無い。言った、言わぬは証拠になりえぬからだ。そして皇太子側が提示した物証についても、学園でどのような経緯でそうなったのかを調べなくてはならないだろう。
なぜなら。
メルル・マルクトはその行為が成されたという近況、一年の間、国境の丘陵に居り学園には通っていなかったのだから。証言してくれるだろう騎士ならば、この場にいる。好々爺としての佇まいを崩さぬ、それでいてこの幕をどう上げるのかを興味津々と見ている目がある。メルルが望めが口添えをしてくれるだろう貴族の顔も確認済みだ。従姉妹に関しては時間が掛かるのは致し方ない。遠方の領地に戻ってしまっているし行商中なのだ。やりとりに時間がかかるだろう。
「長らく学園を離れていたのは事実でございます。ただ体調を崩し療養のため領地に戻っていた、というのは表の理由でございまして。陛下もご存知でございますよ。私は最前線に居りましたの」
と、発言すればメルルの後方から盛大なため息が放たれたのが分かった。そのほとんどが家督を譲られ、騎士となりあの戦いに身を投じたことのある者たちだ。
ですから半年以上前から起きたと主張される事件の数々ですが、犯人は別のところに居られるようですよ。あの地で学園の、名も知らぬご令嬢を陥れるために手段を講じるなど、はっきり言って時間の無駄でございます。
「そして最も殿下が心痛めた令嬢の、その手の傷、冬の休暇に入る前日、とおっしゃいましたが。嘘偽りはございませんね?」
「あたりまえだ!」
という誰かの声にメルルは頷く。令嬢に話しかけたというのに、答えたのはどこの令息か。
ではその傷、この場にて見せていただけますか、とメルルが満面の笑みで続ければ、思い出させる気か、とかあまりの侮辱と言われるが生身に受けた傷が最も証拠として多くに見てもらいやすいのである。
「ならばメルル・マルクト、お前が戦場に居たというならばそれらの証拠を見せてみよ! できるわけがなかろう!」
「よろしいですよ」
声に詰まったのはできるわけがないと高を括っていた確か、宰相様の子息である。
髪は案外と早く、肌の色も王都に戻ってきてからせっせと磨かれ続けなんとか元に近くなってきてはいる。だが残るものもあるのだ。
いちばん豪華であるのは背から臀部にかけてのやけどだが、多くの紳士淑女が集うこの場所でお披露目するなどもってのほかである。
ならばとメルルはするりと右手の、二の腕まで隠していた手袋を取る。普段であれば女性から男性へ好意を伝えるために使われる小道具であるが、あえてメルルはそれを床に落とした。それはなにを意味するのか。淑女達には丸分かりになるだろう。
その腕を目にできたものたちが息を飲む。
メルルにとっては名誉の負傷だ。作戦を共にしていた部下の、命をひとつ救えたのだ。
こっぴどく父や兄、そしてなぜか男にも叱られたが、そもそもあの戦いに負けていたら明日がなくなっていたのである。それに比べたら傷のひとつやふたつ、どうというものではない。
「私にとっては名誉の勲章でございます。多くのお目に触れたとて恥ずかしがる傷ではございませんの。そちらも見せてくださいますか。休暇前でしたら10日ほど、ですわね。ならば傷もほぼ塞がっておりますでしょう。貫通していなければ」
令嬢は臆する。
ならば良い、とメルルはにこやかに笑んだ。
「話を元に戻しましょう。10日前といえば、私、母と共に王妃さまとお会いしておりまして。そもそも出奔してから一度も、学園に戻っていないのですけれどどういうことでしょうね」
扇を広げ、口元を隠し目を細ませる。
いつでも通えるように侍女を送りしつらえはしたが、本人が学園に戻った形跡は皆無だと、寮母にでも確認すればすぐにわかるだろう。
不備、というより見落としが多い。
誰かを陥れるに際し、口先だけでなんとか乗り切ろうとする浅はかさに声も出なかった。
当然従姉妹も居ない。
なぜならば半年も前に領地に戻って結婚式を挙げていたからである。
本当にどういうこと、なのだろうか。口もとを弧にしたメルルはその形を崩さない。
ちらりと見やるは名も知らぬ令嬢だ。否、知ってはいる。報告書にあったからだ。
しかし面と向かって名を名乗りあったり、その音を耳で聞いたわけではない。ならば知らないと同義であろう。
とても可愛らしい容姿をしていた。メルルとは違いふわりと波打つ髪は淡い色彩で、触れればきっと羽のように舞い上がるのだろう。大きな目はぱっちりとした二重で、メルルにはどんなに頑張ったとしてもあれほど見開くことはできない。
小さく、小さくメルルは誰に向けるでもなく、息をつく。
この世には数多の生命が息づいておりその中に人間も含まれているわけだが、どの生き物にも共通して雄と雌しか存在していない。暴論であろうが世界にはふたつしか区別がないと言い換えることもできるだろう。
そのひとつ、女性としてみるかの令嬢は庇護欲をそそる仕草をし、見た目にも美しく可憐な容姿を持っている。
その様はまさしく極上の華であろう。
大地に満ちる動けぬ植物は、その幹に虫をおびき寄せる密の香りを放ち雄しべから雌しべへと花粉を運ばせる。
人の女にも同じような匂いがあるのだ、と聞いていた。あの令嬢からもきっと、出ているに違いない。
戦場でメルルを手篭めにしようとしていた不届き者たちが口々にした言葉が起因である。そして男もメルルの首元に鼻を寄せ、良い匂いだと嗅ぎ舐めるほどだ。自分で腕を舐めても汗の味しかしないのに、おかしな話だといつもおもう。
どの種も女は男を虜にするため、美しく咲き誇るものだ。そしてその種の中の最も優秀な存在から次世代を作る鍵を得ようとする。
第三者的に見れば、可愛いのだろう。白磁のような肌は透けているし、潤ませた瞳の色は鮮やかな青だ。惚れ惚れと見惚れる。
多くの男たちに守られ震えて泣いている女の真似などメルルにはどう足掻いてもできないだろうし、するつもりもなかった。
守られてばかりであるのは性分ではないと戦場で思い知ったからだ。
国母になるための教育を受けさせてもらっておきながら辞退するのは、メルルに関わってくれた多くに対し断腸のおもいであるがしかし、王と並び立ち国のために民を死地へと向かわせる決断をせねばならぬ妃が、最前線で戦うなどあってはならない。だがメルルはしてしまうだろう。戦いを己が身をもって知ってしまったがゆえに。
「婚約に関しましては臣下である父や私から取り下げる権限がございませんので、どうぞ殿下が陛下をご説得くださいませ。互いに好ましいとおもう誰かを見つけたとき、婚約につきましてはそのときにご相談、というお約束でした。このように私を弾劾をなされるまで嫌われているとはおもいませんでしたから、本当に残念でございます」
ぱくぱくと声が出せないらしい皇太子が何かをいわんやとする。
だがこれ以上、この場に居ることがメルルにとって苦痛になってきていた。
殿下の事は決して嫌いではなかった。互いに恋をしたときのような激情は無いかもしれないが、穏やかな、家族としての情を育んでいけるとおもっていたからだ。恋愛の末に結ばれる貴族は少ない。家を保ち、領地を富ませ、国を守るために婚姻を結ぶ。結び契って次の代へと継ぐのが最低限の役目なのだ。
だから男に最後の砦は落とさせなかった。既成事実さえ作ってしまえは後はどうにでもなるとほくそ笑んだ男がかなりきわどい行為に及びはじめていたし、実際、危なかったのだ。ただひとこと、欲しい、と口にすればいいと耳元で囁かれ続けていたのだから。
メルルは耐えた。婚約者がいる身であるうちは致しかねると。
王命での婚約であったし、互いの気持ちもうやむやのまま、婚約者だからと無理強いするのはやめようとおもい、メルル側からは最小限度の接点しか持たなかった。それが罪だというならば、甘んじて受けよう。ただ、こんなにも憎まれているとはおもわなかった。
男に弄ばれながらも操を立てていた、など死というものが日常的に側にある戦場にいたから仕方が無かった、という理由も多くの淑女たちにとっては顰蹙ものだろう。わかっている。清く正しく婚姻の宣言をするまでなにも知らぬ体でいたほうが貴族としての観念に合うものなのだ。
言い訳に聞こえるだろう。
だがメルルは喜んで多くの非難や批判を受けるつもりであった。
血と汗と、土が傷口から入りこみ膿んで表現できぬ臭気が満ちたあの場所で、狂わないでいるために温もりを求めたことを後悔はしていない。
ただ、すこしだけ胸が痛んだ。覚悟はしていたが情を傾けようとしていた相手に否定されるほど心が痛むものはない。結婚に理想や幻影は夢見ていなかったが、おだやかな未来は切実に願っていた。
社交界の、隣国の者も居るこんな公の場で糾弾されてしまっては、噂好きの淑女たちの絶好の的になるだろう。それに、正規の手段で次の嫁ぎ先を探すならば、悶着もひとつやふたつならばまだ軽い。きっと両親が苦労するだろう。本来ならば隠し通すつもりであった、隣国が探していた女が自分であると白状してしまったようなものだ。
この宴の前に国王陛下から問われていた。
あの龍を、天空にいと近き神話の園の王が望む娘はおぬしであるのかと。
双頭の龍は戦場を鎮めたあと、この国と隣国の中央であるこの城に飛来して告げたのだという。
戦乙女に感謝するが良い。その者がこの戦を収めたのだから、と。
メルルは否、と答えた。龍に知り合いはいない。
だが内心で龍に近しいかもしれない男の知り合いは、居る。けれど龍は知らない。とつぶやいたのは確かだ。
だがやっかいなお告げをしてくれたものだとメルルは密かに龍をなじり舌打ちする。
隣国には続きがあったのだ。調停の際に王と王太子が話し合う席でぽろりとあちらが零したのだという。
乙女に触れればすべてを焦土と化す。ゆめゆめ二度と手を出そうとは考えるな。そう最終通告がなされたのだという。
この国は、この国とその周囲一帯はかつて、むかしむかしと伝えられる過去、竜と縁を結んだと伝えられている。竜の娘がかつてこの国やその周辺に広がっていた亡国の王と恋仲になり嫁いだと。
この国が豊かなのはその竜の姫がもたらした様々な知識であったと童話にもなっている。
「……お前を、正妃に娶ることだけはない! 私は、彼女だけを愛している! 婚約は、破棄だ!」
メルルの主張をことごとく無視するかたちで皇太子は婚約破棄を再度、宣言した。