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それはまさしく鶴の一声だった。
実際には鶴よりももっと凶悪な存在の一声であったのだが、介入してよかったのかとメルルはいずこかに姿をくらませた男に未だ聞けずにいた。あの日、かなりの覚悟を決めて行なった口付けをした日、男は突如として姿を消したのだ。それまでは幾度と、毎日ではないがその姿を兵たちの中に見ていたのに、である。もしかしなくとも関係者であったのだろうなぁと薄々ながら感じてはいたのだ。
メルルは男を探した。ひとこと王都に戻されるのだと伝えたかった。
だが父や兄、弟までもが訝しんだ。そんな男など居なかったと言うのだ。そんなはずはないといくつも生死を共に潜り抜けてきた兵たちにも聞くと、居たような気もするがよく思い出せないと頭を下げられた。
彼を探すのだと、ここに残るのだと喚くメルルは父に引きずられるようにして王都へと戻された。事後を処理するために兄と弟が砦に残ったのにもかかわらずだ。戦が終われば戦場の機微を読み兵を使い切り込む存在など宙に浮く。それに一年近く、貴族だけではなく優秀な成績をおさめれば誰でも通えるという、門戸を開いている学園から出奔しているのである。将軍としては戦場において置いたほうが役に立つ人材と判断するが、父としては出来るだけ早くに連れ戻したかったという親心であった。
発見された当時、母に内緒で来たのだと、舌を出してごまかす娘に頭を抱えた父である。マルクト家当主は妻にあてた手紙にも娘の事は書けなかった。書けばどうなるのか、分かっていたからだ。
しかし将軍の妻は知っていたようである。違和感を覚えていたようなのだ。なぜか家族思いの娘が学園から帰って来ない。会いに行こうかと手紙に書けば、もう少しで卒業になる。この学園から離れれば会えない友人たちとの親交をあたためたいのだと最もな言い訳をして戻ってきてくれない。なにかいい方法はないかと書かれていたこともある。
その実は学園に通っているのは従姉妹であり、娘は絶賛、丘陵を越えた向こう側にある敵陣の兵糧を焼きに行っているなどと妻に向けて書けようか。
そして天下分け目の大衝突が起きようとした瞬間、両軍に待ったが掛かったのである。
抑止をかけたのは両国の王ではない。しかし人間が束になってかかったとしても倒せない至上の存在であった。
メルルはその光景を一生忘れないだろう。おとぎ話にしか出てこない、龍がそこにおわしたのである。
龍は竜とは少々、形態が違う。龍は蛇のように細長く、鬣を持ち、翼をはためかせることなく空に浮かぶが、竜はどちらかというとトカゲに似ており、どてっとした重量物である。空を治めるのは龍であり、大地に棲家を作るのが竜だ。
龍はこの世の竜を従える。目の前に御座あるその龍は双頭であった。互いに互いを預けながら、優美に浮遊している。それは故郷の国に出回るおとぎ話に出てくる、強くて格好いい龍であった。
メルルはひとりで興奮していた。男がもし横に居れば、大興奮冷めやらぬ、怒涛の萌えを語っていたものを。なぜいないのだとおもうがしかし。メルルは龍の姿を目に焼き付けた。いいなぁ、とうっとりとしてしまうのは頭がふたつあるからだ。ひとつよりもずっと、強くあるに違いない。ボードゲームも一人で二役しなくてもすむ。なんと羨ましい。ひとりでぽつんと佇むこともないのだ。メルルはそんなことをおもいながら龍や竜を見上げた。
龍は静かにそこで発する。
手にした矛を下ろさぬならば、すべてを一息で消し炭に変えてくれると。人間を震え上がらせるに十分な、天を埋め尽くす竜の群がそこに羽ばたいていたのだ。
結果的に両軍は引いた。引かざるを得なかった。
丘陵地帯に竜が数匹陣取り寝転がったからである。
戦いが継続できなくなった瞬間であった。なんともあっけない幕切れだった。
だがそれでよかったのだろうと将軍は深く息を吐いた。もう祈らなくても良くなったからだ。
多くの命が散らぬように。そしてこれからはひとつだけで良くなるのだ。将軍の命により使われた者たちの冥福だけで。
将軍は自陣に戻ったその手で手紙を書いた。もうすぐ戻れそうだと。戦が終わるのだと妻に短い手紙を書いた。
その際にほんのかるぅく、娘であるメルルに関しての記述を記した。
その返答はすぐ返ってくる。手紙を配達する伝達人のひとりが数日後、将軍宛に超速達で届けたのだ。本来ならば王都からこの戦地まで15日ほどの距離をたった5日で走りぬけたその人は、将軍に手渡す直前に地に伏した。死にはしなかったが、かなりの疲労により医師より要安静を言いつけられたほどだ。
妻からの手紙は分厚く長かった。
夫や子供たちの無事を祝う言葉がまずあり、いつごろこちらに戻ってくるのか問うていた。
そして娘がそちらに居るのは本当かと。では学園にいるのは誰なのかと。
娘は王太子妃になるのである。ゆえに事実が真実ならば早く戻すように書かれていた。それはもう言葉を変え延々と同じことが続いているその手紙を見て、将軍は嘆息する。
母として娘が大事であるのは知っている。だが娘を装飾品かなにかに置き換えていないかと些か不安になった。王太子妃になるのは名誉なことだ。どんな選定があるのか定かではないが、選ばれたのである。それに殉じるのは娘であり母である妻ではない。
末の息子からも釘をさされていた。兄もそうだ。
メルルは両親にとって、ただの娘であるだけかと。生贄になっていないかと問われた。家のために犠牲になれと強いるのは時代錯誤も良いところである。もし出世や名誉という名の優越なのだったら別に没落しても構わないと次世代の当主が言い切っていた。
家長としては後継者の言として許しがたい暴言だ。しかし娘を持つただひとりの親としてならば、長男が憤っている感情にも理解を示せる。なぜなら長男は学園で一人であり続けていた妹を知っている。次男は学園でひとりぽつんと、輪になって笑っている同年の者たちを眺めていた姿を知っている。
将軍としては誉れだ。だが父としてはかなり複雑な気分であった。
妻とも一度、よくよく話をせねばならぬと将軍は息を吐く。
メルルが皇太子妃となる。そう決定されたことでマルクト家はかなり他家と比べて優遇されていた。その恩恵を最も受けているのはマルクトの名を家名に持つ一族だ。
妻の言い分もわかる。
メルルさえ歯を食いしばれば一族の繁栄が約束されているのである。
出来るだけ早くに連れ戻すよう催促が日数を開けずに届き続けた。娘が戦場に居た事実などない。そうしなければ婚約を破棄されてしまう可能性もある、と考えているのだ。こんなじゃじゃ馬など要らぬと熨斗をつけて返品でもされてみろ。一族が行なっている事業にも障りが出る。
いつから妻は娘を第一に考えなくなったのか。将軍は深い息を吐いた。
昔はそうで無かったのだ。どんなに厳しい経済状況となったとしても、そんなことは露も見せず家のなかを上手く取り仕切っていた。騎士団の団長を拝命していたときもその称号に見合う金銭だったかと言われればそうでもない。小さな領地から生まれる小さな金銭がすべてだった。
そんなやり取りがありつつ、父は娘を馬に相乗りさせ王都へと帰還した。
メルクト家の正妻は帰ってきた娘を冷たい目で迎える。そして夫である将軍を連れ立って、当主の部屋に入った。家令や侍女も続いて入ろうとするがその前に妻であり母である女性が扉を閉め鍵を掛けたのである。そしてカーテンをすべて閉めた。
そののち母は恥を知りなさい、と扉に向けて怒鳴り始めた。
メルルはそっと横に立っていた父を上目に見る。そして父も眉を下げた表情で娘をみていた。
母は父と娘が戦地で居る間になにかと事をかまえていたらしい。
使われる言葉はかなり精神的にくるものばかりだ。面と向かって言われたならばかなり凹むどころか、数日は寝たきりになってしまうだろう羅列であった。
さすがかつての社交界で茨姫と影で囁かれた毒舌もちである。
粗方言い終えたのか、息を吐いた母は夫と娘に向かう。そして唇の前に人差し指を立てた。
「……あれだけ派手に叫べば、入り込んできている者も勘違いするでしょう」
母はこそこそと、それこそ額を合わせなければ聞こえない程度の囁きで実情をふたりに話しはじめる。
実はいま学園で、かなり大きな問題が起こっているのだという。それを教えてくれていたのは従姉妹であった。
メルルがなんだか物騒な騒動に巻き込まれつつあるのではないかと助けを求めるメモが侍女たちによってもたらされたのだ。
「と、いうことは母さま、随分と前からご存知だった?」
「当たり前です。お前のその前向きな暴走を察知できぬ母だと思いますか」
ちなみにメルル自体が国境に居た事実はかなり母にとっては都合の良い状態であった。身代わりで学園に通っていた従姉妹は問題が浮上した時点で領地に帰っている。すでに結婚式も終え、伴侶となった夫と一緒に行商の旅に同行していると聞いた。
「よいですか、ふたりとも。用意されている筋書きはこうです。一度しか申しませんからね、しっかりと覚えるように」
今日この瞬間も学園から実家に戻ってきていたメルルが逃亡し、父によって連れ戻されたという話になっているらしい。
こそこそとしているのは屋敷の中に外部へ情報を流す内通者が居るからだ。本人はわかってはいない。ちょっとした世間話をしている感覚であると言う。それもそのはずだ。彼女は期間限定の雇い入れだからに他ならない。
そもそも貴族の家に従者として入る者たちは、仕える家の中で起きた物事は外に他言してはならぬ、と雇い入れる際に契約を交わす。だがその者は国境沿いにある村から避難してきた集落のものだ。国は避難してきた者の生活を保障している。だがその数があまりにも多い場合、貴族の屋敷に仮働きとして入れそこへ支援金を投入するのだ。
母は夫と娘を抱きしめる。
よくぞ無事に生きて戻ってきてくれたと。
戦場では頑として力強く安心感をもたらす将である父であるが、惚れた弱みか昔から母にはとことん弱い。普段は威風堂々としている父であるが、母にかかれば耳を垂らした熊のように大変身するのだ。母はまるで猛獣使いのようだと内心で拍手を送った。
さてそうして1年ぶりに戻ってきた娘の前で母は卒倒する演技をやりとげた。
実際にメルルは出奔した一年前と今とではまったく姿が違う。ぱっと見ただけでは以前の彼女を知る者ならば余計に分からないだろう。
美しく磨かれていた白磁の肌は健康的な小麦色に焼け、絹にも等しかった光沢を帯びていた髪は無造作に結ばれくすんでいたからだ。しかも体の至るところに切り傷や擦り傷、かなり深い刺し傷の名残があった。薄くはなっているが軍医が真っ青になったくらい血が吹いた箇所もある。
作法は体に染み付くほど繰り返し習得していたため所作は問題など無かったが、髪はともかく肌はどうにもならなかった。
ゆえに学園に戻ることはあたわず、まずは元の体に戻そうという話になった。体裁として、学園に戻ったという形にしたが、実際にはマルクト家の屋敷にて監禁生活の始まりであった。日焼けはかなりしつこいのである。日に再度さらして焼くなどもってのほかだと母がにこりと微笑んだ。
そして母は負けなかった。母は手づから香油にて娘の体を揉み解し、信頼のおける侍女たちにせっせと体を洗われ磨かき続けたのである。食餌も美肌に良いとされるものを中心に皿に並べられた。戦場にて引き締まった筋肉であるが、それだけは褒められた。コルセットをきつく締め付けなくともなだらかな女の線を出せるのは良いことだと言われて。
そうしているうちに月日は流れ、弟が帰ってきた。
兄は警戒のため強固に増築された砦から離れられないが、分厚くなった報告書を王都に届けるという名目で戻って来たのだという。
「姉さん、なんだかその、慣れませんね」
「ええ、淑女としての嗜みは本当に、奥が深くてよ」
母が後方で見張っている手前、無謀な行動や言葉は使えない。要するに察しろと弟に視線をやったのだ。
弟の苦笑にメルルは大きなため息で答えとした。戦場であった方が気楽であったし、こんなややこしい言葉のやりとりも無かったからだ。しかもなかなかに複雑な事情に巻き込まれてもいる。
弟が城にのぼり、国境の砦を統括する責任者としての報告書を父である騎士団将軍に提出した後、自宅療養として屋敷でのんびりと十日ほど過ごしていた弟の下にとある通知がもたらされた。
それは隣国から王太子が停戦の調停にやってくるため、お前も護衛騎士として出席しろという通知である。
姉と弟が母もいないしなんだか体もなまってきたからちょっと手合わせでも、と庭で木剣を振り回している最中であったため、それを帰宅時に玄関で受け取った母が再びその場で倒れたのは不可抗力だと翌日、メルルは稲妻が鳴り響く母の部屋で身を竦ませながらふたりは涙ぐんだ。
姉弟は確信した。
両親はきっと魔法使いなのだと。
おとぎ話の中だけにあるもの、などではない。眉唾物だとされていた龍も存在しているのだ。遺失したか、それとも退化したのかは定かではない。だが姉弟の両親は揃って、雷を操る術を持っている。
戦場で見た迫真の厳しい父もかなり怖かったが、いま現在進行形で静かに立腹している母の後ろに何か巨大な黒々しい存在がいるような気がしてかなり怖かった。もしあれを悪魔と称するものならば、確かに存在するのだと声を大にして宣言しても良かった。
「ようやく屋敷の中の不穏を取り除いたばかりだというのに、貴方はまた呼び込むつもりですか」
母のいう事は間違ってはいない。メルルと弟の行動が軽率過ぎた。はい、申し訳ございません。まったくもってそのとおりでございますと姉と弟は母の雷を大人しく受けるほか術はなかった。
それから数十日が経ったある日、騎士団の通常業務に携わっていた弟が礼装をして登城した。
青く澄み切った空には雲ひとつなく、どこかに遠乗りするにはもってこいであろう。だがメルルの内心は嵐のように荒れていた。それはもう船も転覆あわや、なんてものではない。昨夜、あんなにも会いたいとおもっていた男がひょっこりと窓の外からやってきたのである。