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メルルは手にしていた皿に残っていた最後のクッキーをぱくり、と口の中に放り込む。長々として要領を得ない長口上は聞いていて眠くなってきていたからだ。こういう時に口にする甘味は心をほっこりとさせてくれた。突き刺さる視線のいくつかがさらにきつくなるがどうということはない。鉄錆びの匂いが流れてくる、こげ茶色の大地にて爛々とした生への執着がこびり付いた光と比べようもなく弱いからだ。
ひとつ、ふたつ、みっつ。対になっている目は簡略し、頭数のみを数えれば8となった。しかもそのすべてが見知った顔である。その中にひとつだけ見知らぬものがあった。
この宴は戦に直接関わった貴族だけが招待されている。この広間にその家族が共に入場できているのは、騎士という職に着く者たちの横の繋がりが強いからに他ならない。騎士は王の剣であり盾である。爵位を持たぬ下級騎士たちの姿はないが、かなりの恩賞を得たと聞いていた。
多くがその令嬢に見惚れている。
絶世の美少女であった。メルルも思わずその美しさに息を飲んだ。
しかしながらこの見目麗しく見惚れてしまう男爵令嬢の一族からはひとりも騎士が出ていなかったはずだった。そもそも彼女を擁する男爵家は昔から書庫を預かる文官を輩出する家だと覚えている。
流し読みするのではなかったと軽く目を瞑った。すれば眠気が押し寄せてくる。
色々と考え事をし、睡眠時間を削ってしまったのだ。ぼんやりと霞が掛かった脳を動かし、思い当たる節を呼び覚ます。
それ、はすぐに出てきた。あの母が大声で喚き散らした原因がこじれにこじれた結果であったからだ。ただなぜ今なのか。どんなに考えてもよくわからない。
(まあ、うん、急ぎたい気持ちもわからないではないけれど)
メルルは表情を変えず、ゆっくりと8つの敵意に真正面から向かう。
恐ろしくはない。昨夜訪れた僥倖にまだ、包まれているからだ。
まさか会えるとはおもわなかったのである。
戦場で過ごした日々が長かったせいか、なかなかふわふわしたベットに慣れず、固く簡素な簡易ベットからようやく自室の、本来のベットに寝転がっても眠れるようになったある日のことだ。
会いたくて会いたくて仕方が無かった相手がひょっこりと現れたのである。ゆっくりしていけるのかと聞けば、すぐに戻ると言い、メルルにとっては極上の甘味である口付けをたっぷり贈られ腰を砕かれたのは正直に吐き出せば昨夜である。
実は聞きたかったことがあったのだが、それを聞く前に飲み込まれてしまったのだ。
そんな状態で良くもまあ、重量物であるドレスを装着できたと自分の体ながら褒め称えたメルルであった。
さらに言い訳を重ねることが出来るならばその締結が成されるにあたって、頭の痛い懸案が彼女に突きつけられていた。それらをどう料理すれば双方が上手く納得できるのか、それに付け加え脱兎の如く逃げ出す方法を急いで固めねばならないと考えていた最中にこのような騒動に巻き込まれてしまったのである。
女の身で戦場を駆け回るなどいままで誰もしてこなかった。せっかく女傑という言葉があるのに、女はおしなべてお淑やかであれ、と云われている。唯一の例外は、童話の中にある竜の姫君だ。ふわふわのドレスに身を包みながら細身の剣を振り、数々の困難を切り開いてゆく武勇伝(?)である。
メルルには幼い頃から戦術家としての才能があった。幼い頃から父や兄たちが興ずるボードゲームなどを見ていたからだろうか。裁縫や歌、楽器などの手習いよりも白と黒の石を使った陣取りゲームや、父や兄、弟が生まれてからは三人で行なっていた走り込みを始めとする鍛錬についてくることが多くなった。どんなにこっそりと出かけようとしても、どういうわけか後から追いついてくるのである。
なので見るだけ、と制限をつけて良しとされた。
女だからという理由で参加はさせてもらえなかったが、部屋に戻ってこっそりとする真似事くらいは許されていた。だからひたすら脳内で戦術を考え、品を変えて続けてきた。あれほど面白いものはこの世に無いとまで思っていたくらいだ。戦術に関する本を探しさまよって、学園に3つある図書保管所に居ついていたあの頃は本当に楽しかった。死神の鎌もあった。できれば無い方がいい。だがもし、この知識を役立てられる場所が与えられたなら、もっと楽しいだろう、そうおもっていた。
なぜならメルルは学園において親しくする友人がひとりも出来なかったのである。すでに次期王の婚約者であることは多くに知られており、その権力のおこぼれに預かろうと寄ってくる者たちが多数居たからだ。そのためメルルはあえてひとりを選んだ。友は居なくともおしゃべりするくらいの同級生はいる。机を挟んで語り合うような気心知れた友は出来なくとも、部屋に帰ればメルルを気遣ってくれる侍女たちが居てくれた。
だから寂しいなどおもってはならなかった。
この国は肥沃な大地に恵まれ、海に隣接し、他国から訪れる人々が目を丸くするほど豊かである。
だが豊かで平和だと思われている国にも火種はあった。国土の多くが山脈であり、この国となだらかな丘陵でのみ繋がった隣国と長い間、小競り合いが続いているのである。
王都からは遠い戦場の報はなかなか耳に入りづらかった。だが一進一退を繰り返しながらも両軍共々に死者を出しながら続く均衡状態が長く続き、まだ中等科の学徒である弟までが戦場へと駆り出される状態になったとき、彼女は心を決めた。
メルルは女である。だが女だからという理由で戦役を免除され震えているだけの存在にはなりたくなかった。
体力だけでなく精神力も男と比べればそれはそれは劣るだろう。だがそれを補える知略があればなんとかならないか。
女でも戦える術はある。そう考えた。
折りしも現在は夏の休暇日が連なっている。
しかもである。まるでこのたくらみを歓迎しあつらえたかのように、地方に住む彼女と瓜二つな従姉妹が数日前からこの王都本家に滞在していたのだ。
メルルは説得を始めた。だがしかし、従姉妹は手ごわかったのである。
従姉妹はマルクト家が領地とする地方の運営を助ける傍流の生まれだった。そのため高い勉学の知識よりも、その土地にて人間関係を円滑に取りまとめる交流術などを中心に、良家の家に家事手伝いなどに入って学ぶほうが長かったのである。
一族の中でもかなり頭の回転が良いと誉めそやされているメルルだ。頭の良い人たちが集まる学園にて修めていた成績などは到底取れるわけが無い、と叫ばれてしまった。だがメルルは負けられなかった。このさい、はっきり言って成績などどうでもいい。とりあえず学園の、メルルの個室に留まってくれたらいいと願った。
また、三カ月以上実家から離れるのは嫌だと泣いた。だから身代わりは無理だと涙ながらに叫ぶ従姉妹に三ヵ月に一度は実家に帰れるよう協力者を置くことを条件にいやいやながらもどうにか引き受けてもらうこととなった。
協力者とはメルルが幼少より頼ってきた侍女数名である。学園にも出向してきてくれ、日々の生活を助けてくれていた。
メルルは彼女らに頭を下げ、計画を打ち明けた。最初は反対され、両親にも告げるといわれたが、メルルは自らの身が女であることを、守りたい民の盾にもなれないと嘆いて見せた。自分ひとりがいって状況が180度、すぐ良くなるわけがない。ただ父や兄や弟までが戦場へゆく。それなのに女だからとドレスを身につけ夜会に出て笑み続けるなどそちらの方が拷問だと切々と泣いたのである。
結果だけを示すならば、落とせた。
背格好も良く似ていたため、侍女たちも数ヶ月程度ならば乗り切れるとおもってくれたらしい。侍女たちが立てた予想では、例え戦場に運よくたどり着けたとしても男ばかりが集う砦である。女であることがすぐにばれ、当主にすぐ見つかるだろう。そしてすぐに連れ戻される。そうおもわれていたのだ。
メルルは万が一に備え手紙を残した。従姉妹と侍女たちには非がないことを、血判まで押した決意を従姉妹に託して、メルルは髪を切り男物の服に袖を通し、乗合馬車を延々と乗り継ぎ、まんまと軍へと紛れ込んだのである。
運がよかったのだろう。三カ月ほどはばれなかった。だが戦場には男ばかりが集う。男は飢える。命を刈り取るほどに命を育み産み落とす女を本能的に欲するようになるという。それをメルルは己の身を持って知った。女ひとりに男多数という場面にて寸前に助けられたものの、その助けた男というのがやっかいな相手だったのだ。
男は黒を纏っていた。黒目に黒髪、それ自体はまったくおかしくもなんともない。
だがたまに、その瞳に金や赤が混ざる時があるのだ。
メルルはとある者らにより、純潔を散らされる前に救い出され、難を逃れたのである。
さあ、そこからが大変だ。当然、父や弟にばれた。
兄は休息のために第一線から退いていていなかったが、大きな雷がその日、陣の近くにいくつも落ちたと証言がある。
魔法などおとぎ話の世界にしかないはずのものが、具現化したのかと誰も彼もが戦いた。
だがメルルは戦場に残された。
理由は簡単である。メルルが率いた小隊の帰還率がかなり高かったからだ。砦が落とされていた。丘陵からかなり離れた場所に仮設が作られ本陣が駐屯していたものの兵たちの疲労は頂点に達しており、敗戦の雰囲気が色濃くただよい始めていたのである。
戦場における状況判断はその場の雰囲気に飲まれ誤ってしまうものが多い中、メルルは必ず多くを生かして帰ってきていた。
そんな人材を遊ばせておくほど、王国軍内部は疲弊し余裕がなかった。本人の希望もありメルルの性別は秘匿され、将軍とその参謀としてはいっていた兄弟たちと共に戦場を駆け回ったのである。
ただひとつだけ、問題となっている事柄はこの戦場にて作られた。
メルルが保護されてから1ヶ月ほどが経ったある日、将軍である父に娘は砦の奪還を進言した。
寒気が大地を白く染め上げるまでいくばくもない。このままこの仮設で陣を張っていれば、凍死する兵も出るだろう。相手国は食料を求めて攻め入ってきている。しかも今年は冷夏で実りが例年の8割を切っているという。ならばこそ、春を迎える前に、あちらは出てくる。春から秋にかけて大地を耕している農民も加わり、膨大な数になるだろう。その前に砦を奪い返し、攻勢に出なければ負ける。
だが本陣にはメルルの提議に意を共にする者たちより、異を唱える者の方が多かった。
食べるものがなければ攻めて来たいとおもったところで、なにも出来ないではないかと笑ったのだ。長く続く戦でもある。今年も去年と同じく攻めては来ない、などと安直に考えているのだろう。
飢えは人を凶暴にする。それを知らぬは豊か過ぎるがゆえの慢心であった。
「お共します」
「……命を大切にしなさいな、貴方たち」
「メル隊長、今じゃないとだめ、なんだろ」
雲が多く月が細く弓のように空に掛かる真夜中に、いくつかの影がメルルの歩みを阻害した。その数はメルルが率いる小隊である。
「持とう」
「いい。自分の荷は自分で持つ」
黒づくめの男がメルルが持ち出してきた大量の弓筒に手をかけ、ひょいと奪ってしまう。集った面々は頑固だった。
「成功するとも限らないんだよ」
「じゃあ、成功させましょう。いつものように」
王国の、奪われた砦はそろそろ敵の手で修復が成されるころだ。即興で用意できる罠に相手が引っかかってくれる確率はかなり低い。だが、それでもひとりふたりくらいならばやれる。戦争は人が居なければ始まらない。だからひとりでも頭数を減らす。そのためにメルルは単身、砦に近づこうとした。
確率は単独で三分だ。人数が増えればどうなるか。状況にも左右されるだろう。
女だてらに先陣を切り、大胆な策を戦場全体に施して戦場をかき回す。敵も見方も彼女にとって見れば駒のひとつとなってしまうのだろう。だからこそ戦意を操っている時ほど、メルルと共に立つ小隊の兵たちが抱く危なっかさは尋常ではない。
もし男であれば多くに慕われる将となっただろうが、女の身に生まれた不運か、秀逸な策を立案しても嘲われるだけだった。もしこれがメルルではなく兄や弟であればすんなりと通るというのに。
だから名声や手柄が欲しいわけではないメルルは兄弟に最前線で得た情報を託し続けていた。とはいえ手詰まりもある。思い通りに進まぬ作戦もあった。現実はゲームのようにとんとんと物事は動かない。こちらの思惑通り敵が動いてくれぬ時の方が多いのだ。それがまた楽しく、裏の裏を読みあうのは死の恐怖すら超えて高揚すら覚える。いつまでも興じていたくなった。だがこのままでは遅かれ早かれ、脆い王国の防衛線は崩れる。
父を始めとする猛者たちが居るからこそ形を成しているだけだ。
風穴を開けにいかねばならなかった。誰かがこの状況を無理矢理にでも動かさなければ、両軍とも対消滅しかねなかった。
気付いているのは味方陣営ではごく一部。敵陣営の本陣にまで密偵が潜り込めてはいないため推測の域は出ないが、あちらも同じような停滞を生んでいると考えられる。黙し成り行きのまま見守って奪われるのを待つならば、たったひとつの命を担保に弓を引き、多くを屠るのをメルルは選んだ。
「モノ好きね」
白い息を吐きながらメルルは肩を落とす。どんなに言葉を尽くしたところで、彼らの覚悟は変わらないだろう。
ならば預かるほうがまだ、慎重になれる。手持ちに限りがあるのだ。消耗を限りなく減らさなければ成らない。ゆえに臆病になる。そうすれば生きて帰る確率が上がった。
「最短ルートを突っ切る。黒薬、使うから。そのつもりで」
黒と白が混じり始めた闇の中で、誰かが喉を鳴らす音が聞こえた。
黒の薬、それはメルルだけが使う、火花だった。かつて本の虫であった頃に見つけた記述を程よく改良したのだ。本にあるままではまったく使えなかったのだが、黒の男が助力を申し出てくれたおかげで形にすることが出来たものだ。その作り方は男とメルルしか知らない。
今まで二度、戦で使った事があるが誰がどのようにつくり使ったのか。情報は自陣でも錯綜していた。使い手はばれてはいない。そして作り手もそうだ。
彼女は知らない。
彼女が采配を振るその先で戦う者たちは、その背に勝利の女神の名を担いで戦っていると信じていることを。
神掛かった判断に何度、畏怖による震えを帯びたものがいたことか。
「それじゃあ、いきましょうか」
メルルは命を飲み込む。従う者たちを抱え込み、深淵に路を切り開くべく踏み出した。
かくして爆炎が上がり、逃げ惑う隣国の者どもを紅の血溜まり沈め砦は王国が奪取することなった。
月光も分厚い雲に消え、かがり火だけが闇を照らす中、それは耳をつんざく鳴動をかなりの広範囲にばら撒いたという。ざわめきと怒号、断末魔の叫びと懇願の悲鳴。親族や恋人の名を呼びながら絶命する多くの中に紅の炎が踊る。そのすべてを感情をそぎ落とした目でメルルは見ていた。勝利側に過程などは必要ない。欲するのは結果だ。手先が行なったすべての行為により発生する業は、命じたものが背負うべき因果である。だからお前たちが成したすべては、私が望み行なわせた行為だとメルルは確かに示す。
手痛い反撃もあったが、メルルの腕一本だけで事足りたのが指揮官としての誉れであった。たった十二名で取り返した手腕は誰もが認めなければならず、女と侮られることはなくなったのだ。黒薬に関しても知らぬ存ぜぬを貫き通すことができた。小隊の誰もが口を割らなかったのだろう、としかメルルにはわからない。隣国が王国を震撼させる何かを持っていると将軍ならびに副官たちはは判断し、国王への報告を行なったという。
ただし、親から子への叱咤は別である。
そして男からのそれもそうだった。
黒衣の男はメルルを強姦たちから救ったあと、メルルの隊へと配属された。機動性を重きに置いた小隊である。
男は騎士ではなかった。では傭兵かと問えばそうではないという。ただの一兵卒ではないと、所作でわかるのに本人は頑なに口を閉ざした。
もし過去に戻れるのならば何度でも主張しよう。メルルを助け彼女を気に入ったという男がかなりやっかいな相手だったのだ。知っていれば絶対にかかわらなかったというのに。
やっと好ましく思える異性が見つかったと離してもらえなかった。その態度は上官を慕うようなものではない。
砦を取り戻したその日から、男はメルルの天幕に忍び込んでくるようになった。甘い言葉を耳元でささやくのは決まって夜だ。安眠妨害かと罵ったことも一度や二度ではない。
ただ男は強く美しかった。男に綺麗という言葉を使うのが果たして良いのかどうかはわからなかったが、こんなに綺麗な存在をメルルは見たことが無かったのである。しかもものすっごく強い。剣の扱いはかなりの腕だと誰もが頷きを返す。何度その腕で小隊の危機を脱したかわからない。そして最大の利点としてはメルルの策に穴があれば即座に塞ぎ、修正をしてくれることであった。
側に居てくれるならばいてほしい。置かないなど考えられなかった。
だがしかし、女という生き物はしたたかである。砦が取り戻されたと聞くや否や、慰安に訪れたその筋の女達は目ざとく男を獲物として捉えた。人間も生き物だ。己より強い個に守られたいと願う。その強いものの子が欲しいと。
メルルは男の姿をしていたが、女達には即行ばれた。女として自信が無いのは彼女らを見て当たり前におもうのは仕方がない。だがそしてそんな姿をしてまで男の側に侍りたいのかと、意識されぬまでも側居にいたいなどなんと哀れで甲斐甲斐しいのだとわらった。
メルルはそんな女たちが放つすべてを聞き流し、気にも留めていない素振りを続けたが、それでも降り積もってゆくものがある。
ある日、着飾った女たちが戦の合間に作られた酒の席で兵の膝の上に座し誘う姿を見た。
そもそもからして男女間のそういうあれこれに対し、知識では得ていたものの、実際のそれらを見て呆然としてしまったのである。
メルルは自身でもないのになぜか恥ずかしくなり、即座にその場を離れた。だが離れた場所が悪かったのである。
男が、メルルに好意を向けてくれていたはずの男が、肌をさらけ出した女と共に居たのだ。その様子はまさに事至らんとする直前であった。
メルルは体が段々と冷えていくのを自覚した。
その後、どうやって自分の寝台に戻ってきたのか覚えてはいない。だがその寝台にはなぜか男がいた。
無表情のままメルルは男を改めてみる。
男は綺麗だった。こんな綺麗な顔をしているならば、女など選り取り見取りだろう。女の扱いもかなり上手いし、というかメルルばかりが感情の起伏を呼び起こされかなり辛いところまで追い込まれていた。だから遊んでいるに違いない。さっきもそうだ。
なぜ自分はこんな男に、いいように転がされているのだろう。なぜか無性に腹が立ってきた。
だから言ってやったのだ。こんな泥臭い女など意識するな。さっきも美しく着飾った女とよろしくしていただえはないか。その後にやってくるなど、何を考えているのだ。あざ笑いにでもきたのかと。暴言を吐いた。
それに対し男はなにも申し開きをしなかった。聞きたければいつでも話すといって、メルルを抱きしめた。
なにもしないといいつつも口付けてくるのはいつものことだ。慣れてしまった自分に、メルルは奥歯を噛み締める。
あんな濡れ場を見ているのに、どうしても男を拒否できない己に嫌気がさした。戦場である丘陵付近は、緩やかに空と山の影響を受け空気を冷たくしており、こうして抱きしめられると温かく、そしてなぜか安心できたのだ。
戦いが起こることなく数日が経過し、メルルはある夜、男にあの日のことを尋ねてみた。
それまでに行なった覚悟の数は両手、両足の指では数え切れない。父にはまだメルルの心は見通されていなかったが、弟にはばれてしまっていた。その弟から、最近の姉さんは変だ。悩み事があるなら聞くし、解決方法がすでに判明しているならばさっさと玉砕してこい、とせっつかれたのである。
「いつから!」
と姉が素っ頓狂な声で叫べば、「ずいぶんと前から」と弟が真顔で答える。
「だからいつから!」
「第5小隊待機場の向こう側にある…」
「もういい、わかった!」
メルルは顔を真っ赤にし、随分と見上げる背丈になってしまった弟に顎をあげる。
「そこでさ、真っ赤に熟れたりんごみたいになってたのをね。姉さんは可愛い。僕の自慢の姉なんだから自信持ちなよ」
と弟はそれはそれはにこやかに追撃したのは言うまでもない。
弟にとって姉はとても大切な存在である。
ある時から未来の王妃として育てられ、わがままひとつ言わず、弟が姉が持つその人形が欲しいといえば少しばかりの逡巡ののち、大切にしてねと手渡してきた我慢の塊である姉が、初めて手放したくないとおもったであろうなにか。
それを弟として、姉に自覚してもらいたかっただけだった。
3人居る兄弟の中にあり、ひとりだけぬくぬくと王都で戦いが終わるのを待つのが嫌だと戦場に押しかけてきた姉だ。実はちょっとだけ、否、かなりあの様子では蓄えにたくわえた戦術、戦略の知識を披露したいとうずうずしていたのだろうが。それでも姉は己の足だけで王都から戦場へとやってきた。やってきてしまった。従兄弟に身代わりを頼んでまでも。
それははっきり言って、自分勝手なわがままに他ならない。周りを巻き込んで自分がしたいとおもった、戦略や戦術を披露しにきた、生きるか死ぬかの瀬戸際の場所になにもわかってはいない女がやってきた。そうおもわれても仕方の無いことをしている。
とはいえ彼の姉は優秀な指揮官であった。父だけではない兄も打ち出される策に顎をはずす。
こうしなければならないという頭がない。作戦の途中で予想されていない何かが起きても、ならばこうしよう、ああしようと策を組み立てなおして元もとの欲していた結果に近づけるのである。頼もしい姉だった。そんな姉を慕って小隊に入りたい兵が後を絶たないことを彼女は知らない。知らせてはならないと父が言ったのだ。
弟はただ、ただひとつだけの未来をおもう。
国のために、とか多くの民のためにとその体と心を何の疑いもなく捧げるのではなく、ちゃんと考え納得してそうなるならばまだしも。王の勅命である、ただそれだけで姉のなにもかもを奪い去る王の一族に弟は忠信など誓えなかった。
弟が願うのはただひとつだ。姉が幸せになる、ただひとつの先、ただそれだけである。




