古の記憶
三年ほど前に、思いつきで書いた作品です。
短編ですので電車の待ち時間にでも、肩の力を抜いて、お楽しみ下さい。
その日は、朝から何か妙な空気の流れている日だった。
俺はいつも通りに、会社へ向かう途中、駅構内の喫煙所でタバコを吸っていた。
『何か今日は、人の流れがおかしいな…。どっかの線で、ダイヤが乱れたのかな。』そんな感想を抱いた。街へ出ると何となく何時もより人通りが疎らで、そんな朝の風景にも、奇妙な違和感を覚えた。
『何時もより2、3分遅れたのかな?』
そう思って時計を見たが、そんな事もない。『変なの』と思いつつも、その後はこれと言って何事もなく、一日の仕事が終わった。
帰り道、早めに仕事が片付いた事だし、少し遠回りして行こうと言う気紛れが起こったのは、もしかしたら、朝の奇妙な違和感が生じさせた出来事だったのかもしれない。
とにかく俺は、普段なら入ってみようとは思わない様な、細い道に向かって足を進めていた。
気の向くままに裏道へ裏道へと進んで行くと、良く見知っている駅周辺の景色と、随分と違って見える町並みが現れる。何となく下町感を残した雰囲気の中に、一件の古道具屋を見つけた。
その店は古道具屋、と言うよりは、むしろ骨董品の店といった方が正しいかも知れないような店構えで、その店番をしている主人は、それこそ骨董品の様な、口をへの字に結んで、鼻の頭にちょこんと老眼鏡を乗せた、いかにも気難しそうな老爺だった。
何故あの店の中に足を踏み込んだのかは、良く分からない。けれど気付くと俺は店の片隅で、それが使われいていたのは、昭和初期か、大正時代かと言うような、古めかしいラジオに視線を引付けられていた。
「そいつは只の飾りだよ。何をしたって、ウンともスンともいわねぇ。」
嗄れた声がして振り向くと、読んでいた新聞に目を落としたままの老爺が、ちらりと俺を見て呟いた。
「あんたも物好きな…」
「何で壊れたラジオなんて置いてあるんですか?」
と聞いたら、鼻で笑った。
「飾りとしてさ、欲しがる客もいるんだよ。…さてと…、」
新聞をたたんで立ち上がると、レジの奥の部屋に向かおうとする。
「暇だからな。奥で茶でも飲んでかないか。」
言いつつ俺をちらりと振り向いた。俺は一瞬考えて、無言で頷く。気難しそうに結んでいた口を僅かに緩めて、老爺は奥に引っ込んだ。俺も何となく付いていく。
「お邪魔します…。」
言いながら靴を脱いで、座敷に上がる。
「おう。何にも無いがな…。」
老爺は古めかしい魔法瓶形の、保温のみしか用を足さないポットから、ヤカンに湯を開けると、同じく古めかしい形の一口ガスコンロにかけた。ぼっ、と懐かしいような音を上げて火が着く。
「今、湯を暖め直すから、まぁ適当に座って待っといてくれ。」
カチャカチャと音を立てて、茶葉を入れ替える。
四畳半の部屋の真ん中に、丸い折りたたみ式のちゃぶ台と、片隅には店に置いてあってもおかしくないような、古い茶棚と、ワンドアの小さな冷蔵庫、カラーボックス2個分の文庫本や新書刊があるだけの、質素な部屋だ。
「ここで寝起きしてるって事じゃ、ないですよね。」
俺は素直に思ったまま聞いてみた。ヤカンがしゅうしゅう音を立てる。
「まさかなぁ。近くにアパート借りてるんだ。」
茶棚の中から菓子を出しつつ、笑いを含んだ声で老爺がいう。
「…っすよね。」
それ以上言葉も見つからなくて、回りをキョロキョロ見回す。スッと灰皿がちゃぶ台の真ん中に置かれる。無言で老爺が頷いた。
「あ、どうも…。」
俺は上着のポケットからタバコを出すと、火を着け一吸いする。
『俺、何でこんな所にいるんだろう…?』
落ち着いて考えてみると、妙な話だ。何となく気紛れで入り込んだ古道具屋で、奥の部屋にまで上がり込んで、初対面の老爺とちゃぶ台を囲む…。いいのかなぁ、こんなんで。
そんな事を考えていると、ヤカンがカンカン言い出した。老爺が立ち上がって、保温用ポットに湯を移す。そのポットから急須に湯が注がれて、間もなく緑茶が出てきた。この間、無言。
「いただきます。」
「まぁ、そんなに畏まるこたぁない。楽にすればいい。」
そう言って老爺は、自分の茶をひと啜りして、ちゃぶ台の上にあったハイライトを銜えた。マッチを使って火を付ける。俺は正座していた足を崩した。
「兄ちゃん、この近くに勤めてるのか?」
煙を吐きつつ、老爺が尋ねる。俺は頷いた。
「あ、でもこの辺に入ってきたのは、初めてっす。」
「そうだろうなぁ。見たことねぇ顔してるもんな。」
苦く笑って、老爺が言った。
「何にもねぇもんな。この辺りは。ちょっと駅の方へ行けば賑やかだがな。」
「そうっすね…。あ、すいません。」
初めて老爺が声を立てて笑った。
「いい、いい。気にしなくても。本当になんにもねぇからな。素直な人だよ。」
気難しそうに見えていた老爺が、この時、初めて身近に感じて、俺も思わず笑ってしまった。何か一気に気が楽になって、会話が始まった。
「看板、古道具屋ってなってましたけど、何か凄い時代物とか、ありそうっすね、この店。正直言って驚いてますよ。テレビ番組、思い出した。」
「ああ、開運なんとかって奴だな。」
「見てるんですか?あの番組」
「一人で暮らしてるとテレビぐらいしか無いからな。店は7時には閉めるから、帰ると丁度やってるんだ。」
「へぇ。やっぱ見てると、鑑定額とか判っちゃうもんすか?」
老爺は少し考えるような間で、茶を啜る。
『なんだ、結構、話しやすい人なんだな。』
と俺は思った。この爺さん、見た目で損してきたんだろうな。きっと。
「そうだなぁ、判るのもあるな。」
老爺が答える。
「こういう古い道具たちと付き合ってるとな、気持ちが落ち着くんだ…。」
目を細めて、何か遠いものを見るような顔になって、老爺は黙ってしまった。
「あ、すまんすまん。つい昔を思い出しちまった。」
暫らくしてからそう言って、いつの間にか空になった湯飲みに、新しく茶をいれて、菓子に手を伸ばした。煎餅のバリバリと言う音がする。見掛けの年齢の割に、丈夫な歯の持ち主らしかった。どう見ても70歳前後にしか見えていなかったから、少し感心した。
煎餅を噛み砕く音に誘われて、俺も一つ手に取った。パリッと音を立てて個包装の袋を開け、一口噛んでみて驚いた。…堅い。本当にこの老爺の歯は、丈夫だと言う事が判った。
バリバリと言う、煎餅を噛み砕く音だけが響いていた。
「…あのラジオはなぁ、ちょっとした訳有りなんだ。」
老爺が思い出したように言った。
「はぁ、訳有り、すか?」
もともと古道具とか骨董品とか言うものに対して、興味を持っていなかった俺は、そう言われたからと言って殊更、気持ちを引かれた訳でもなかったが、この老爺のことは何となく、気に入ってきていた。だからそのまま話を聞こうと思い始めていた。老爺は時計を確認すると立ち上がった。
「店を閉める時間だな。」
店の方に向かって行きながら、言った。
「兄ちゃん、悪かったな。足留めして。お陰でいい暇潰しになった。」
おいおい、これで終りかよっ!気になるじゃないかっ!と言う気持ちが顔に出たのかもしれない。
「少し待っててくれ。店を閉めて来るから。」
そう言って店先に降りていった。
ガラガラガラッとシャッターが締まる音がする。
「あら、もう閉める時間?内の亭主はまだ戻ってこないわよ。今日は残業もないって言ってたのに。どこで油売ってんのかしら、まったく…!」
外から近所のオバちゃんと思われる、声がする。
「あんまり怒ってると、ご亭主帰り辛くなるよ。」
それに答える老爺の声も聞こえてくる。この店、あそこ以外に出入り口があるんだ。と、俺は違うことに感心していた。
「はいはい、武藤さんは亭主の味方だったわね。」
「いやいや。」
と言うオバちゃんと、老爺の声と、笑い声がする。あの爺さん、武藤さんって言うんだ。その時、初めて自分の名前も言っていなかったことに気が付いた。
「じゃ、また明日。」
「はいはい。おやすみなさい。」
挨拶の声がして、暫く後に店の奥の方から、がちゃっという音がした。武藤さんと言うらしい老爺が戻ってきた。
武藤さんは、よっこらせ、と言うふうに、四畳半に上がる。
「あ、武藤さんって言うんですね。すんません。俺、坂下って言います。」
取り敢えず、遅れ馳せながら自己紹介をしてみた。
「ああ、そういやぁまだ名前、聞いてなかったな。悪かったな。初対面の兄ちゃん足留めしちまって、その上、自己紹介もしてなかったもんなぁ。」
わっ、はっ、はっ!と、さっきよりまた大きな声を上げて笑う老爺と一緒になって、俺まで笑ってしまう。名前が知れたんだから老爺って表現し続けるのも何だな。
武藤さんは、初めの印象と比べて、俺の気持ちの中でどんどんイイ爺さんになってきていた。
「それで、ラジオの話って、聞いても良いことなんすか?」
一応、聞いてみないとならない。こういう古道具屋って、良く知らないけど、他人の人生の裏側とか、立ち入っていそうな気がする。
「ん?ああ。まぁ、もう無くなったお屋敷の事だからな。返っていい供養になるんじゃないかな…。」
座りながら言った武藤さんは、さっきと同じ、遠いものを見るような目になる。 無くなったお屋敷って…。俺は逆に何か不安になった。何か呪いとか怪談とか、余り嬉しくない話だったらやっぱりいやだよな。
「あのラジオはなぁ、あるお屋敷の最後を見てきたラジオなんだ。」
えっ?お屋敷の最後だって?ますます怪談に近そうな始まりだなぁ。
「古い家でなぁ。血縁が無くなって、屋敷を取り壊すことになった時に、何か掘り出し物が無いかと、見に行って見付けて来た内の一つなんだ。」
「へ一。他には、何があったんすか?」
「ああ、棚や、机や、宝石、食器何かが、俺の持ってきた分だがなぁ。大体、売れちまったなぁ。あのラジオだけ売れ残っちまったな。」
武藤さんは新しいハイライトに火を着け、茶をしばく。おっと失礼。啜った。
「そのお屋敷は、昔は貴族の血でな。大正、昭和の初めには、随分と華やかだった。まぁ、実際に見たんじゃ無いが、あそこから持ってきた物を見ればな、こんな商売長くやってるからなぁ、良く分かる。」
言って何度も頷く。
「あそこから持ってきた物は、宝石から食器まで結構、良い値が付いたんだ。それでも3ケ月もすれば大体、引取り手がついてな。」
それから小一時間もかけて、時たま茶を啜りながら話してくれた話はこうだ。
その家は、たった一人の嫡男を戦争に奪われ、後を継ぐものも無く、取り潰されるに至ったとの事。今も売れ残っているラジオは、その兵隊に取られた嫡男の、愛用品だったらしい。
息子が戦地に行った後、残された両親が毎日、そのラジオで戦況報告を聞いていた訳だけど、あれって確か、本当の敗戦宣言までは、耳障りの良い事しか放送されてなかったんだよな。
息子の無事を信じて疑わなかった父親が、敗戦宣言をされた数ヶ月後になって、やっと知らされた訃報に嘆き悲しみ、そのうち沸いてきた苛立ちから、八当たりでぶち壊してしまった、と言う物らしい。
結局その後、修理される事も無く、息子の部屋の片隅で長い間埃を被ったまま、屋敷が取り壊されるまで、放置されていたラジオを、武藤さんが見つけた。
丁度その一週間前に亡くなった、武藤さんの親父さんが、昔、愛用していたラジオがそれとそっくりだったんで、何か因縁めいた物を感じて、引き取ってきた、って言うのが、あのラジオだったって事だ。
俺が最初に想像していたような怪談話とは程遠かったが、まあ、あんまり良い話で無いのは確かだよな。
その屋敷って言うのは、ここから車で一時間程離れた場所にあったらしい。今はもう、かつて貴族の屋敷が存在した面影も無く、大きな幹線道路に姿を変えていると言うことだ。
話が終わり時計を見ると、九時をとっくに回っていた。
「長居しちゃってすみません。俺、そろそろ帰ります。」
立ち上がり、出入り口に向かうと、
「悪かったな。年寄りの長話に付き合わせちまって。」
武藤さんは『よっこらしょ』と、腰を上げる。
「すまないが、表は閉めちまったから、裏から出てくれ。」
と、向かって右側を指差した。俺は靴を履きながら、身を斜めにし、出入り口を確認する。ごちゃごちゃと売り物なのか、そうでないのか分からない物が積まれている脇に、古い片開き式のドアを見つけた。
「分かりました。」
言って立ち上がろうとした時、腹が鳴った。かなりでかい音だ。
「そうか、腹も鳴るなぁ。この時間じゃ。そうだ、そうだ。」
笑いながら言い、武藤さんも帰り支度を始めた。
「兄ちゃん、一人暮しか?」
「そうっすよ。」
振り向いて答える。
「そうか。なら、付き合いついでに、ラーメンでも食ってくか。近くに美味いキョウザを出す店があるんだ。」
家に帰っても、どうせカップラーメンだと思った俺は、直ぐに言った。
「いいっすね、寄ってきましょう。」
「そうか、じゃぁ行くとするか。」
武藤さんは嬉しそうな顔をして、いそいそと靴を履いた。
この辺りまでくると、私鉄線は二番目の駅の方が近いと言う事で、そちらへ進路を取り、五分も歩かない内に、お勧めのラーメン屋に着いた。武藤さんのアパートは、もう目と鼻の先らしく、お馴染みの店らしい。
カウンター席が10席のみの、ごく小さな店だ。今日は直ぐに座れて運が良かったと言いながら、一番奥の二席に腰掛ける。
武藤さんは、最近はめっきり弱くなって、と言ってビールをグラスに一杯だけ、餃子を一皿つまみにして、ゆっくりと飲んだ。俺は大瓶の残りを全て一人で飲み、大盛りラーメンと、話通りになかなか美味い餃子に舌鼓を打つ。店を出る頃には歳の離れた友人が一人増え、ついでに新しいバイト先を一つ得た。
と言っても、武藤さんの古道具屋でのバイトは、どちらかと言うとボランティアに近い。バイト料というよりも、月末の金詰りの時に、美味いラーメンと餃子のタダ飯を目当てに、見掛けよりもずっと気の良い老人の話し相手兼、軽い店番をすると言う感じだ。
何はともあれ、ほんの気まぐれから寄り道をして知り合った老人と、こうして長い付き合いになった。あの朝の奇妙な感じは、全く無意味だった訳では無かったと言う事だ。
一期一会、って云う言葉もあるしね。今では本当に良い付き合いをさせてもらっている。
あの古道具屋で扱ってる物って、最近、流行りのリサイクルショップで扱ってる物とは、何か違う。本当に価値有る骨董品か、それとも単なるゴミなのか、正直判断に苦しむ物も多いんだ。
でも武藤さんは言うんだ。
「古道具ってのはな、かつてのご主人様の気持ちを、受け継いでる物なんだ。大事にされた物、そうでなかった物、いろいろだがなぁ…。確かにそこにあった事を、その家の慶びごとも、悲しい事件も、何もかもみーんな見てきてるんだ。例えばな、手垢の付き方や、塗料の剥げ方、小さな傷や染みなんかの一つ一つに、いろんな事が記憶されてると、俺は思うんだよ。」
だから、俺なんかにはゴミに見えるような物でも、店に置いておくのだそうだ。それで話の最後に、いつも必ず笑うんだ。
「まぁ俺が、もったいなくて物を捨てられない、タダの古い人間なだけかもしれんがなぁ。」
って。俺はそんな武藤さんとあの店を、結構気に入っている。
《終わり》
お付き合い、ありがとうございました。