本文
東大陸の北端に、ウェールと呼ばれる小さな炭鉱町があった。
寒型北方気団の影響で絶えず雪が降り、草木も根付かず、草を食う獣も肉を食う獣も居ない。
そんな場所ではあったが、人は力強く根付いた。
炭鉱から成る僅かな収入を糧に、四十五歳になるまでその町で生きる。
四十五になると、男女を問わずこの町から追われ、炭鉱から少し離れた場所に捨てられる。生き延びたい者は出稼ぎへ行き、望まぬ者は何もせず、等しく貧しく朽ち果てて行く。
無慈悲だろうか、理不尽だろうか。
いや、何よりも不自由である。
※
「……また色付きか、最近多いな」
降り注ぐ桃色の雪を掴みながら、ストリギリス=コイリは嘯いた。
彼は医師の母と炭鉱夫の間に産まれ、数年前に母を流行病で、続け様に父を事故で亡くした。コイリの親類と呼べる者は皆捨てられ、彼と血の繋がる存在はウェールには居ない。
そんな彼を憐れむ者も居たが、多くは無かった。
理由の一つとして、ウェールには孤児が少なくない事が上げられる。
経緯や理由に違いはあれど、彼の様に親が何らかの理由で死んだり失踪する事は珍しくない。
そういった者を集め、成人するまで養う事を生業とした施設も有る。
しかしコイリを憐れむ者が少ないのは、別に理由が有った。
彼は、石と風の声を聴く事が出来るのである。
何処を叩けば資源が出るのか、次の吹雪はいつ訪れるのかが手に取るように分かる。彼は十と少しの幼子であったが、大人の様に働き、大人よりも稼いだ。
だが、彼は町の誰より貧しかった。
それは、稼いだ金の半分は孤児の家と、捨てられた者へ渡しているからである。
当初、捨てられた者は金を受け取る事を拒んだ。これは町の掟に反する行為であるし、何より幼子から施しを受け取る理由も通りもない。
しかし。
「僕もいずれそこで暮らします。渡すお金で、僕が住みやすい環境を作っておいてください」
そう言い包め、有耶無耶のままに渡した。
初めこそ止めに入る者も居たが、彼は「自分が稼いだ金をどう使おうと勝手だろう」という調子で撥ね退ける。こんなやり取りを何年も続け、今更に口を挿む者も居ない。
『子供の皮を被った偏屈爺さん』
町に住む者は彼をそう認識し、好き好んで近寄る者も居なくなった。
結果として、彼は歳に似合わず孤独に生きていたが、寂しいという思いに襲われる事も無かった。孤高と言えば聞こえは良いが、感情が発達しておらず乏しいだけとも取れる。
そんな彼に転機が訪れたのは、いつもの朝であった。厚い雲の向こう側に朝日が昇り、捨てられた者達が鉱山へ向かって来る。昨日も、その前も、コイリが何度も見た風景。
その中に彼より幼い子供が居る事を、まだ彼は知らない。
◆
コイリが炭鉱口に着くと、辺りの様子がいつもと違っていた。大人は皆同じ方向に視線を注ぎ、何かを不審がる会話も聞こえる。
事故でも起こったのだろうかと考えたが、それにしては静か過ぎる。
大人達が注目を集める先を目で追うと、捨てられた者達が居た。いつもの様に輪になって暖をとり、死体の様に動かない。
だが。
「……子供?」
見慣れぬ子供一人、捨てられた者達に混じっている。
歳は、コイリと同じか少し下。
肌は僅かに黄みを帯び、深い夜を彷彿させる黒髪。顔を覗き込むと、瞳も髪と同じ色をしていた。この大陸では珍しい色である。人買いの商人から逃げ出したか、捨てられたか。
何にしろ後ろ暗い生き様を送って来たのだろう。コイリも初めはそう考えたが、すぐに勝手が違うと気付いた。
経緯はどうあれ、捨てられた者の村に行き着いても、あの年頃なら町の施設へ入れる。
あんな場所で生きるよりも、町で生活した方が幾分か人間らしく生きれるだろうに。事実そうであるし、周りに居る大人も口々にそんな事を漏らしている。
その答えを、大人は誰も見付けられぬまま鐘の音が鳴った。仕事が始まる合図だ。
線路を新設する者や、炭鉱を掘り進める者、昼食や怪我に備える者達に分かれ、班を組んで作業が始まった。
通常であればコイリも採掘班に加わるのであるが、今日はどの輪にも加わらず、提げていた使い古しの麻袋を肩に担ぎ坑道に入る。
ランタンを灯し、人の気が無い坑道の奥へと向かった。細く、夜よりも暗い道筋。強い閉塞感、不安定な足場と、先の見えない事への恐怖。
ここへ来てあまり時間が経ってないというのに、コイリの五感は不安定になり、時間の感覚さえ曖昧になって行った。
大人や坑道に慣れた者であっても、決して通ろうとしない道。
そこに響く靴音が一つと、もう一つ。
コイリは歩みながら後ろを見ると、小さな人影が有った。顔までは分からなかったが、背丈からして先程の子供だと見当を付ける。
今日の自分に付いて来ても、稼ぎ何て物は無いのだが。
コイリは心の中で毒吐き、今日は何も出来ずに帰るのだろうと類推した。以前大人を連れて来た時は、半分も行かないままに使い物にならなくなったのだ。
ましてや、今回は自分と歳も違わぬ子供だ、すぐに介抱する必要があるだろう。そう考えた矢先、後方で何かが倒れる音がした。
坑道に入って間もない出来事である。
◆
コイリは来た道を引き返し、子供に歩み寄る。子供は既に立ち上がっており、何故かこちらを睨み付けている様であった。
拒絶か恐れか、何れにしても険悪な眼差しである。
一応帰るように勧めたが、動こうともしなければ声を出そうともしない。
試しに何も言わず奥へ進むと、子供も後に続いた。
自分が帰れば、この子供も付いて来るのだろうか。コイリはそう考えたが、この子供が明日来ないという保証も無い。
見た所、異常な呼吸や発汗をしている訳ではない、精神はまだ健全な状態を保っている様だ。コイツは何もしないが、特に邪魔になる事はないだろう。
コイリは決断するとすぐに行動へ移した。
歩く事を止め、麻袋から林檎を取り出して子供に差し出す。視線が合い、少し待ったが林檎を取ろうとする様子は無い。
「まぁ、別に良いけどな」
コイリはその場に座り込み、林檎を齧る。
ややあって、子供の腹のから間の抜けた音が鳴り、腹部を抑えながら俯く。光源が弱い為見え難いが、どうやら赤面をしている様だ。
何故そこまで頑なに拒むのか、コイリには理解出来なかったが、この先に進む為には空腹である事を避けたかった。
無理矢理食わせても良いが、この期に及んで無駄な体力を使うのは避けたい。彼は多少頭が回るものの、会話という物が不得手であった為、簡潔に事実を伝える事にした。
「後ろを見てみろ」
子供は一度コイリを睨め付けてから、言われるがまま、振り向き、目を見開いた。
「驚いたか、ここじゃ体感時間が普通の倍の倍はある。先に進みたいなら無理をしない事だ、ここで遅い朝飯でも食ってゆっくり進もう」
少しの間反応は無かったが、子供はランタンの近くに寄って座り込んだ。コイリは食べかけの林檎を差し出すと、子供はコイリの方を向く。
刺の有る表情は薄れたが、今度は何故か泣きそうな顔をしていた。
「この先で吐いちまっても良いから食え」
子供は首を横に振った。
何故かと問うと、子供は情けない表情を浮かべて。
「お金、無い」
と、か細くあどけない物言いであった。
だが、声質はと言うと威圧と重圧を孕み、歴戦の騎士か、あるいは権威有る司祭を彷彿させる。大人が鬼胎を抱いても不思議では無かったが、コイリは身動ぎを起こす事も無かった。
子供は何か言葉を続けようと口をもごもご動かすが、何も言わぬままに俯いてしまう。
一方コイリはと言うと、そんな挙動を気に留める様子も無く、どうすれば林檎を食わす事が出来るか考えていた。人を思う、彼にとって慣れない経験であり悩みこそしたが、苦悩してはいなかった。
◆
「炭鉱のルールを知っているかい」
コイリは長い事考えてから、口を開いた。
と言っても、上手い言い回しを思い付いた訳ではなく、上手に話す事を諦めたのだ。子供がコイリの方を向いてから、言葉を続ける。
「炭鉱という場所で働く時はね、班という単位で動くんだ。普通は八人から十六人単位で動くのだけど、誰かと行動を共にしているのであれば、それは立派に班として機能している。分かるかな」
子供は首を縦に振ってから、コイリは深く頷いた。
「そして、班には一人まとめ役が居る。リーダーと呼んでいるのだが、班はリーダーの意志に従って動く、炭鉱という場所で生きる為の知恵と言っても良い」
再び言葉を止め、出来るだけ優しく林檎を差し出す。
二人の距離は今までに無く近く、子供がコイリへ向ける視線は、今までに無い感情を含んでいた。
「これは命令だ、僕はお前を殺したくない。食え、食うんだ」
コイリの放った言葉は、決して優しい物では無かった。それは自覚しているのだが、それ以外の言葉が出て来ない。
だから、言い方は出来るだけ優しく、目を見て話した。
そんな思いが伝わったのだろう、子供は手を合わせてから林檎を受け取り、音を立てない様に食んだ。
「林檎は芯の部分も食えるぞ。種と枝以外は全部食える」
子供は頷いて、林檎の中央の部分に齧り付く、他の部分と比べ少し硬く甘みも少ないが、空腹と渇きを癒すには十分だ。
子供は林檎を全て食べ終え、食べ始める前の様に手を合わせ、やや間を置いてコイリにまっすぐな視線を向ける。
「林檎ありがとうございます、ごちそうさまでした」
「……どういたしまして」
コイリがランタンを手に立ち上がると、子供も立ち上がった。奥へ進むと、当然の様に子供も付いて来る。進む道すがら、コイリは子供と意思疎通を図る為に名を聞くべきか悩んだが、止める事にした。
これだけ躾を受けた人間が名乗らないというのは、それ相応の理由が有るに違いない。そもそも、ここに住む人間は、脛に何かしらの傷を負っている、捨てられた者達とて例外ではない。
名前を聞くと言う事は、人生を聞くのと同義。
人の過去を無暗に詮索するな。
それがコイリの現状を作り出した根源であり、父親と最後に交わした約束である。果たしてその教えが是か非かという物は別として、その思想は実に無意味であった。
何故ならばこの子供がこの世に生を受けて一度も、名前で呼ばれた事が無かったのである。
◆
振り返ると、そこに光は無かった。時間の価値が歪み、正確な時間が分からない。
コイリはランタンを高く掲げ、天井に視線を移す。
もうそろそろ良いのだろうか。
コイリは少し悩んでから、子供に視線を向けた。
一見変化は無いと見えるが、顔から表情が消えている。今は平然を装っていても、いつ感情が暴れ出すか分からない。
もうこれ以上進むのは無理だと判断し、コイリは歩く速度を落とす。そのまま歩く事を止め、振り返ってランタンを地面に置いてから。
「着いたぞ」
そう告げると、子供は崩れる様に座り込む。
緊張が解けた為か急に息が荒くなった。幾らか無理をしていたのだろう、早めに帰る必要がある。
「地質を調べる、少しの間休んでいろ」
コイリはそう言うなり、麻袋から紙切れと小さい炭を取り出す。
目を瞑って、幾つかの言葉を呟く。
ややあってから、炭で紙に記号を書き始めた、この記号自体に意味は無く、全て頭で記憶していた。要は、思い出す際に必要な取っ掛かりを作っていたのである。
文字で記録を取らないのは幾つか理由があった。一番大きい理由は、コイリは文字を読み書きする事が出来ない事。
そして、
「ここで人を殺すの?」
背筋に冷たい物を感じ、コイリは動きを止めた。心情とは裏腹に浮かぶ笑みを掌で覆い隠し、子供と目を合わせる。
「さっきの言葉、分かるのか」
子供は首を傾げたが、すぐに横へ振った。怯えと悲しみをぐちゃぐちゃにした、今にも泣き出しそうな面持ちである。
コイリは悩んだ。そもそも、一体何をどう聞けば良いのだろう。
自分がここに来た目的を知っていた、とは考え難い。そして石の言葉を理解している節は無い、となると。
コイツ、心の声でも聞こえるのか。
「……全部じゃないけど、何となく」
「なら話は早いな、僕の考えている事は分かるだろう」
子供は一度頷いて「君は、どうかしてる」と口にした後コイリは薄く笑い、会話は途切れる。
しばらく、二人の間に会話は無かった。
◆
「捨てられた者との暮らしは、楽しいか」
コイリは記録を終え、子供に話しかけた。
気紛れで話した為、特に意味など無かったが子供は異常な驚きを見せた。 表情こそ変わっていないが、顔色が薄くなり口が半開きになっている。
「そんなに驚かなくても良いだろ、誰でも分かる事だ」
コイリは事も無げに、麻袋の中に紙切れと炭を入れた。立ち上がってから、心の中で「そろそろ帰るぞ」と呟いても、少し待っても反応は無い。
「帰るぞ」
「え……あ」
言われて初めて気付いたのか、驚いて今まで反応出来なかったのか、子供はコイリの声に反応して立ち上がり、コイリの後に付いていく。
歩きながら、コイリは子供との距離が近い事に気付いた。少し早めに歩くと、子供もそれに合わせる。違和感を覚えつつも、子供の歩幅に合わせて歩く事にした。
二人分の足音と、僅かな息遣い以外に音は無い。
「なんで、分かったの?」
その静寂を破ったのは、子供の問い掛けであった。
だがコイリは返答をしない。というのも、心の声が聞こえる事についてか、捨てられた者との関わりについてか、どちらを答えるべきか迷っていたのである。
しかし、子供の口から指定が無い事を鑑みるに、両方答えるべきなのだろう。
「父さんも、心の声が聴けたんだ」
その事を知っていたのは、僕と僕の母さん、そして今君が知った。
「君を坑道に入る前に見かけたんだ」
その時の君は……何て言うんだろうな、少し子供っぽかった。心を開いている人が近くに居る、安心してるって証拠だろう。
コイリは心の言葉を併用し、子供と会話を交わす。
彼はこうしたやりとりを八歳まで続けており、普通に会話するよりも数段楽であった。そうした安らぎと、亡き父の影を見たのだろう、コイリは子供に興味を持った。
「何で、人殺しをしようとする人間に付いて来ようと思ったんだ。言っておくが口止めの金なんて払えないぞ」
「……死のうと思ったんだ」
恐ろしく低い声を震わせながら、子供は呟く。
何とも極端で、安直な考えだ。コイリは心の中で悪態をつき、相槌で言葉の続きを促す。
「自分で死ぬのが怖くて、口止めで殺してくれると思った」
……まぁ、間違った選択でもないか。
道理と言えば、道理にもなるだろう。
「一つの答えではあるな、僕と歳は違わないだろうに、その答えに至ったとは大したもんだ」
僕の父さんはその答えに至るまで、四十年強かかったぞ。
それから。
またしばらく、二人の間に会話は無かった。その代りに、コイリは思い出すことにした。父と同じ境遇で、同じ道を歩もうとする子供の為に、悲願とも言える父の死に際を伝える為に。
◆
ストリギリス=コイリの父は坑道の調査中、落盤に巻き込まれて死んだ。
彼と行動を共にした炭鉱夫は全員無事。実に不幸な事故であった。……しかし、父は以前から死のうとしていた、コイリはそう確信している。
というのも、コイリの父が事故に遭遇した数は、コイリが記憶しているだけでも二十数回。
炭鉱夫は危険と隣り合わせの職業ではあるが、それだけ事故に逢った人間というものは他の誰も居なかった。自ら進んで危険な区域に進んでいる姿と、心の声が聞こえる耳をひた隠しにする姿を合わせて、父に自決願望が有ると想像するのは難しくない。
誰にも言えない秘密を持って生きるというのは、とても苦しい。父の場合も、コイリが喋らないかという不安が有ったのだろう。
その心理状況から鑑みるに、死を選ぶのはむしろ必然の巡り合わせだ。
また、自身もその気持ちを理解出来た。
生きると言う事は、即ち様々な価値観がある。否定も出来ないし、押し付ける事も間違っている。本当に死にたいならそれでいい。
もし気が変わらないなら、三日後に来い。
多分、死ねる。
その事を心で伝え終えると、出口が見えて来た。そこから強い光が見え、コイリは疑問を浮かべる。
「おかしいな、日はもう暮れているはずだが……」
長時間ランタンの微弱な光を頼りにしていた為、強い光を直視すると失明する恐れもある、ここからはゆっくり行こう。
心でそう呟くと、子供は頷いて目を細める。
ゆっくり暗い道を抜け、外に出ると。大人達のざわめきと、色付きの雪がコイリを出迎えた。
数日続いた薄い桃色ではなく、鮮血に似た鮮やかな赤。コイリは片手で頭を抑えながら、この雪に纏わる唄を頭で唱えた。
赤い雪、威張った鹿が目を覚まし。
赤い雪、盲目の犬もやって来た。
赤い雪、咎人は刀を持って来て。
赤い雪、居る者みんな、死んじゃった。
この唄は、コイリが今より小さい頃から聞かされた唄である。赤い雪が降った日は、必ず母親が唄っていた。
母親は「赤い雪が降って、怖くて寂しい時は唄いなさい。きっと良い事があるから」と言うのが口癖だった。だがこんな、おどろおどろしい唄を誰が唄う気になるのだろう。
実際、コイリも七つになるまで思い浮かべる事すら無かった。
きっかけは、赤い雪の降ったとある日の事。母親を病で亡くした日を境に、父親が事故で死に赤い雪が降った日も、彼は頭の中で唱え続けている。
だが、母親の言う「良い事」というのは、まだ無い。
コイリが目を開けると、周りの様子が先程と違っていた。騒ぎも収まり、大人達は既に炭鉱で一夜を過ごす準備を初めている。
どうやら長い事呆けていたらしい、一寸前まで居たはずの子供の姿も見当たらない。 コイリは一息吐いてから、大人達の輪に入り、準備を手伝い始めた。
◆
翌日の早朝、コイリは炭鉱内にある物見櫓へ昇っていた。
岩場の隙間から外の様子を眺めている。少し前に雪は止んで再び降る様子は無い、炭鉱内で朝飯を食べたら、町へ帰る事になるだろう。
黄土色のパンを千切り、口に放り込む。 硬く味も無いが、ただ腹を満たすだけなら十分の代物だ。
パンを頬張り、もう一つを櫓の端で蹲っている子供へ差し出す。
「もうすぐ炭鉱から出る、飯くらい食っておけ」
安心しろ、これは労働者への配給だ。炭鉱に居る全員分の配給がある、お前にも食う権利がある。
心の中で呟いたが返事は無く、それどころか身動ぎすらない。眠っているのかと覗き込んだが、目は開いている様だ。
「腹でも痛いのか。下に行けば麦粥の配給もあるぞ、そっちに行ってみるか」
そう話しかけて、やっと目が合った。
昨日とはまるで違う、酷く無気力で生気すら感じない。どうした物かと考えていると、子供がやっと口を動かした。
「もうすぐ死ぬのに、食べる理由があるの?」
……やれ、実に面倒な質問だ。
どう声をかけるべきか、色々と考えて、考えるのが面倒になった。コイリは何も言わず子供の胸元を掴み、手摺に叩きつける。
そのまま、子供の口元にパンを突き付けた。
子供は何が起こったのか理解していなかった。呆けた表情で、目の焦点が合っていない。
コイリは構わずまくし立てた。
「すぐに死にたいなら今殺してやるよ、目を瞑って三つ数える内に死ねる。二日後に死にたいなら食え、今日生きる為に食うんだ」
状況を、段々と理解して来たのだろう。
引きつった笑顔を浮かべて、やがて恐怖の表情を浮かべた。
「……やだ」
子供にとって、やっとの思いで絞り出した精いっぱいの叫び。
実際にはともすれば風にかき消されてしまう、耳を澄まさなければ聞こえぬ声を、コイリは聞き取り、怒りを露わにした。
「何が嫌だふざけるな、お前は生かされてんだ文句言うんじゃない。死にたきゃ今死ね、殺されたいんだろ、望み通り今すぐ殺してやるよ」
コイリは子供の身体を傾ける。
子供の股座に染みが広がり、ツンとした匂いが広がり、目が合った。恐怖で言葉を発する事が出来ないのだろう。
その様子を見て、コイリは子供を櫓の中に投げ捨てた。反応は無いが生きている事を確認してから、顔の近くにパンを置き、梯子を伝って物見櫓を降りた。
コイリが地面に足を付けた時、上の方で泣き声とも、悲鳴とも取れる異常な声が聞こえる。
その声に引き寄せられた大人達をすり抜ける。
「……なんだ、泣けるのかよ」
それだけ呟いて、コイリは町へ向かった。
◆
ウェール炭鉱主、メンドゥム。
彼がコイリと接触をしたのは、ほんの二週間程前であった。
「何か欲しい物は無いかね、ストリギリス=コイリ」
そんな事を聞かれ、コイリが願いを言うとメンドゥムは一頻り笑った後、笑っていない笑顔になった。……何を考えているのか分からない、考えている事を見透かされる、腹に一物を抱えている、どうとも取れる表情だ。
「君の考えはよく分からないな、菓子や玩具にお金……君には少し早いかもしれないが、女、自由、好きな物を言って良いんだよ」
メンドゥムはしつこく問い質すも、コイリの意志は変わらない。
「そういえば、君は孤児だったね。 お父さんやお母さんは欲しくないかい、君を愛する家庭だって用意出来る」
いや、もう少しだけ正確に表現をするのであれば、それ以外必要な物が存在しなかった。
高望みをしない、満ち足りた日々を送っている、謙虚な性格である、そう言えば聞こえは良いのだろうか。
しかし。
「……何も望まないか、ハハハ。お前本当に人間かよ、頭の中何にも入って無いんじゃねぇの?」
メンドゥムが下したコイリへの評価は、ある意味正しい物だった。
コイリは労働能力の低い炭鉱夫を物理的に廃棄する、炭鉱に生き埋めにする計画に二つ返事で承諾する。
「普通に解雇しても良いんだが、ここの炭鉱は伝統だの何だのに煩いだろう。炭鉱に埋めときゃ葬儀の手間も省けるしな」
尚、コイリの成功報酬は以下の二つ。
自分が四十五になるまで、捨てられるまで勤労する権利。もう一つは、以降メンドゥムはストリギリス=コイリに関わらない事。
これまでの人生を、他人を思いやる事を拒んで来た彼にとって、人を殺すという対価はそれで十分であった。
◆
翌日、爆薬が詰まった木箱が炭鉱に運び込まれた。
炭鉱という場所は、ほぼ毎日に爆発物を用いる。硬い地層を砕く為、砕いても価値が下がらない鉱物を運び易い大きさにする為、使い物にならない労働力を廃棄する為。
火薬の扱いに長けた技師はいつもより強い爆発物が多い事に疑問を持ったが、深く気に留める様子は無く、保管場所に安置した。
やがて鐘が鳴り、大人達が働き始めるとコイリは保管場所へ向かった。
メンドゥムから預かっていた鍵を使い、保管所の中から事前に聞いていた爆発物を取り出す。自分が侵入した形跡を消し、扉の鍵を閉め、一息吐く。
「誰も来なかったか」
コイリが問うと、子供は小さく頷いた。
それから、コイリは特にする事も無くなり、今から仕事に加わるのも不自然である。二日に渡って日当を貰えないのは手痛いが仕方ない、買い置きしておいた干し芋を齧ろう。
そのまま炭鉱を出ようとしたが、雪が降り始めた。
赤い、雪である。
コイリは片手で頭を抑え、頭の中で唄を唱える。
赤い雪、威張った鹿が目を覚まし。
赤い雪、盲目の犬もやって来た。
赤い雪、咎人は刀を持って来て。
赤い雪、居る者みんな、死んじゃった。
……コイリは唱え終えるとその場で座り込み、そのまま、赤い空を眺める。しばらく動かない事が分かったのだろう、子供もその場に座った。
しばらく二人で雪を眺めていると、子供は自分の胸に手を当てて息を吸う。
「赤い雪、悪魔の商人気を付けて。赤い雪、苦い薬は死者の戸だ。赤い雪、居る人みんな死んじゃっ、た」
それだけ言うと、子供は膝の上に手を置く。
なんとも、似た様な唄も有るものだ。口伝唄だろうか、最後の説だけは似た様な物にして、前の節だけ変える。
しかし、僕が知る唄もこの唄も意味何て無いな、まるで。……唄に、別の意味が有るみたいじゃないか。
雪が音を吸って辺りは静寂に包まれていたが、コイリの心は俄かに騒がしくなった。 自分の隣にいる子供に対し、何故暴力を振るった自分に付き纏うのか、何故何も言わず何も咎めないのか。
様々な事が頭を巡り、辿り着いた言葉は、
「……その唄、誰に教わった?」
それらとは大きく異なる、しかもコイリが遵守し続けた『他人の過去を探るな』という父との約束を破った物である。
頭は真白で何も考えられなかったが、言葉にならない感情が、彼の胸と腹の辺りがぐちゃぐちゃの渦になった。そんなコイリの心が聞こえているのだろうか、子供は少し苦しそうにしつつ。
「母さんに、赤い雪が降ったら唄えって」
その答えが、コイリの心に一つの可能性が産まれた。 その可能性が確実な物になる前に、彼は立ち上がり顔を上げる。 未だに赤い雪が舞い踊る、その空の下に進んで行った。
一歩、二歩、進む度に自分を止める声が聞こえる。 その声を全て受け止めて、彼は赤い地面へ足を踏み入れた。
赤い雪は彼の外套と肌に触れず、するりするりと降り積もって行き、彼が踏みしめる場所は剥き出しの大地がこしらえてある。
コイリは十数歩進んで振り向き、言葉を投げた。
「君に、わざと心を読ませた時。あの答えを今聞いても良いか」
言葉を受け取った主は、そんな物分からないと答えた。コイリは深く頷き、笑った。
「すまない、明日の約束は無かった事にしてくれ。守れそうにない」
それだけ言うと、制止の言葉を聞かずコイリは進む。子供は彼が見えなくなるまで声を投げ続け、喉が枯れ果てても叫びを止める事は無かった。
……その日、コイリはメンドゥムの私兵により捕縛された。理由は炭鉱主のメンドゥムを刃物で殺害しようとした為とされ、赤い雪が降り止んだ後に彼の塒が調査された。そこで発見されたのは炭鉱夫を生き埋めにする計画書、実に非人道極まりない物である。
メンドゥムは更生の余地無しとしてコイリの処刑を断行。実行は明朝。
炭鉱町ウェールは人口は多いものの、小さな町である。瞬く間に伝播し、日が暮れるまでに町中の話題となった。
長くしめやかな夜が、始まる。
◆
……ストリギリス=コイリの犯行は、実のところ殆ど事実であった。
彼は生き埋めの計画の立案はしていない物の、計画の実行を担っていた。メンドゥムが銃で発砲した為、その場にあった装飾剣で反撃。
結果としてコイリは近付く事すら出来ず、自身の右腕と右足を打ち抜かれただけに終わった。
コイリはメンドゥムの私兵に両手を掴まれ、宙ぶらりんにされる。
「お前さ、ほんっとどうにかしてるよな」
そのまま、メンドゥムはコイリを何度も打った。口が切れ、鼻からも血が出て痛々しい痣も浮かぶ。私兵すら目を背け押し殺した呻き声を上げる中、コイリは悲鳴の一つも漏らさなかった。
メンドゥムは息を上げながら、ギラギラとした薄ら笑みを浮かべてコイリを髪を掴み上げる。
「契約を破棄したいなんてさ、お前どうかしてるよ。たった八十そこらの人生を終わらせるだけの仕事じゃないか」
コイリは虚ろな瞳でメンドゥムを睨み上げた。
満身創痍、息をする事も難儀し、言葉も出ない相手に対して、メンドゥムは背筋に冷たい物を感じた。何も出来ない、こんな何も持っていないガキが何も出来るはずは無い。
メンドゥムはコイリを強く殴り気絶させ、その後コイリの塒から回収した包丁で、わざと自分に傷をこさえた。嘘を吐くなら全力で吐く。
それが、メンドゥムという狡猾な男が世界で生き抜く術であり、自衛の技術であった。
……時は過ぎ、日も暮れ、雪も降っていないというのに静かな夜。
コイリはメンドゥム邸の一角に有る納屋に居た。屋根は有るものの隙間風は強くほぼ野晒しに近い、このままの状態が続けば、朝を迎える前に凍死か出血死だ。
あぁ、死にたくないなぁ。
でも死んじゃうんだろうな、嫌だなぁ。
生への渇望にも似た、コイリの葛藤はすぐに終わった。思考を放棄し、死を甘んじ、残り僅かとなった人生を受け入れよう。
そう決心した矢先、納屋の戸が開いて何かが放り込まれた。地面をゴロゴロ転がり、コイリの近くに来る。
その何かをみつめると蠢き、やがて目が合った。
「……泣いてるの、初めて見た」
半日振りに聞く声は、随分と掠れていた。
子供は起き上がり、背中に負っていた袋から水と刃物と布を取り出し、目をこらしながら手際良く治療を始める。
コイリが状況を理解出来ないまま呆けていると、子供の方から話しかけて来た。
「ここに居るって知って、持てる物だけ持って来た。途中メンドゥムの兵隊に見付かって、ここに投げ込まれた」
何を考えているんだ、そんな事をしたら。
「うん、私も殺されちゃうよね。……はい、終わったよ」
事も無げに、子供はそう言い切った。
何を考えているんだ、お前は馬鹿だ、聖人か何かになったつもりでいるのか。明日死ぬ人間に施しをして何になる。
コイリは考え付くだけ罵倒をし、今からでも逃げろと説得を試みる。しかし、子供は意に介さず、毛布を広げてコイリの身体を包んだ。
「君が何考えてるか、大体でしか分からないけど。 覚えてるかな、物見櫓で私に『何がふざけるなだ、君は生かされているんだ文句を言うんじゃない』って脅したの」
そんな事は関係ないだろう。
という、以前は上手く浮かんだ言葉が出て来ない。胸の辺りでつっかえて、そのまま沈んで行く。何度かそれを繰り返したが、どれも駄目になってしまった。
代わりに浮かんだ言葉は全て謝罪で、しかも上手にできたのか分からない。どうすれば謝った事になるのか、謝って何の意味があるのか、コイリはそれを理解していなかった。
だから、上辺だけ謝っている気がしたのだ。
「あれでね、パンが美味しかったんだ」
そんなコイリを知ってか知らずか、子供は言葉を続けた。自分も毛布を羽織り、コイリに寄り添う。
「身体が冷えてるのに毛布ってあんま意味ないね。って、そうそうパンの話だったっけ。泣いてて本当は味とか全然分からなかったけど、美味しかった。そうそう高い所から降りる時なんて凄く怖かったんだよ、これは君のせいだね」
身震いをしながら嗚咽を上げ、鼻を啜る音が、コイリの胸をしめつける。
「だから、今は生きて。動ける様になったら逃げようよ、どこでも良いけど、ここじゃやだ。捨てられた村に行こう、すぐに追って来るかもしれないけど、でもちょっとは逃げれるよ、優しいお爺さんやお婆さんが沢山居るんだ、君だって受け入れてくれるよ」
年頃の娘が、いや年頃なのか。
そうだね、うんそうだ。行きたい、何処かに行こう。
「死ぬのは怖いよ。一緒じゃなくて良いから生きてよ、怖いんだよばか、せきにんとればかやろお」
子供がコイリの手を握り、コイリも握り返した。
繋がっている方の手が痛かった。納屋に一人分の泣き声が満ち、やがて小さくなって行く。
その泣き声が寝息へと変わってから、コイリは静かに立ち上がり、貰った毛布を子供に掛けた。
天井と壁の隙間から、光が漏れる。
……夜明けだ。
君と会ってから酷い事の連続だ。僕は死ぬ事にもならないだろうし、今日の昼飯だって食べてるだろうし、こんな痛くて寒い思いをせずに済んだだろう。
心残りがあるとすれば、そうだな。
「君の名前が知りたかったな」
コイリはよろよろと歩き始めた。想像がつかない程惨めな死に様を胸に、彼は戸を開けた。
◆
ウェール鉱山の向こう側から、朝日が昇っていた。太陽が見えるなんて、珍しい事もあるものだな。物見櫓から見れば、町がゆっくりと照らされる風景でも見えるのだろう。
太陽に手をかざすと、屋敷の方から人影がこちらへ来ている事に気付いた。
二人、昨日の私兵だろうか。町もまだ目覚めてはいないだろうに、律儀だな。戸に背を預けて待っていたが、とある違和感に気付いた。
先頭を歩いている人間が、女性だった。もう一人も炭鉱でよく見る顔。訳が分からない内に視界が女性で埋まり、柔らかな感触と、調味料の香りに、頭がビリビリ痺れる。
「時間がありません。感謝を伝える時間が無いのです、でも言わせて、ありがとう」
女性は両手を離し、頬に口を添えて離れる。その足で女性は屋敷の裏口へ向かって行った。
入れ替わる様に男が右手に子供を抱えて、眼前に現れた。僕の肩に手を置く。
「話すのは初めてだな、ストリギリス=コイリ。僕は……いや良い、怪我をしているんだな、悪いが本当に時間が無い」
僕は何も言えないまま、男は左手で僕を担いで走り出した。
「遅くなってすまない、もう大丈夫だ安心しろ」
何が大丈夫なんだ、一体どうなっている。
昨日の晩辺りから何度も浮かんだ言葉を声を出そうとしたが、揺れているせいで上手く言葉が出ない、それどころか吐きそうだ。
そんなのお構い無しに男は走る。
「お前は変わってる、けど悪い子じゃないのはウェールの常識だ!」
……この大人は何をトンチンカンな事を言ってるんだ。まったく馬鹿な大人も居たものだ、メンドゥムの故意が含まれていたにせよ、僕は頭のおかしい人殺しをしようとしたんだぞ。
馬鹿じゃないのか。
この人たちを殺そうとしたのか、僕は。
抱えられながら泣いて、うわ言みたいにごめんなさいって繰り返したら、顎でぐりぐりさえた。
すごく痛い。
「後ろの嬢ちゃんが、全部教えてくれた」
多分、僕は叱られているんだろう。
「でもお前は反省したろ、馬鹿な事だって分かったろ」
もしかしたら、慰められているのかもしれない。
わかんない、もうぐちゃぐちゃだ。
「お前は馬鹿な事をした!分かったらはいって言え!」
「……はい!」
「もうしませんって言え!!」
「もう、しません!」
「よし!お前はいい子だ!!」
その後は、あんまりおぼえていない。
なんせ声を上げて泣くなんてすごく久しぶりだったから、頭がばかになったんだ。ちょっとくらい覚えてなくても、いいんだ。だって、それが子供なんだって、この人は教えてくれた。
泣いてる僕を抱えて、この人は町の宿まで走った。
すっごく疲れたんだろう、汗がすごくて、息があがって、周りの大人に肩を借りて椅子に座った。
その時気付いたんだ、町の人と、捨てられた町の人、子供から年寄りまでみんな居て、僕を見てる。
その中から一人、毛が無い男が前に出て、頭を下げた。
「お前の親父さんには、何度も命を助けられた。まぁ俺も助けたが……だが、俺の力が足りないせいで……」
そこまで言って、右に居た怖そうな男の人が近寄って、ツルツルの頭を叩いた。痛そう。
「何言ってる、お前が居なきゃ亡骸を回収する事も出来なんだ。それより伝える事があるんだろ」
「……そうだ」
頭が赤くなった所を擦りながら、男の人は膝をついて、僕と同じ目線にしてくれた。じっと僕の目を見て、
「ウィークスさんの言ってた通りだな」
しみじみと、そんな事を言った。
ウィークスって名前を、ずっと聞いてなかったから、すぐに誰かは思い出せなかった。
ストリギリス=ウィークス。僕の、父さんだ。
「良い目をしている。 ここでもよく働いていたな、ありがとう」
……心が震えるって、多分こんな感じなんだろう。
父さんは、正直あんまり良い記憶がなくて、父さんはきっと僕の事を目の上のタンコブみたいな物だと思ってるって、思ってたから。
「父さんは何て。その、僕の事何て言ってました」
頭の半分が赤くて、半分は太陽みたいに輝いてる人は、にっこり笑った。僕の顔を親指で撫でて、次に頭に手を置く。
「口癖の様に、良い子だと言っていた。少しばかり阿呆だがそこが良い。大きくなればもっと阿呆になって幸せになるだろうってな、だけど外れちまったな、賢くなったせいで、こんなになっちまった」
ぐしぐししてくれて、最後に「でも、おかげで助かった事もある。お前なら何処でも生きて行けるさ」そう言って、怖そうな男の人と一緒に厩舎に入って行った。
怖そうな人は「泣くな」って言って怒ってたけど、その声がぶるぶる震えてたから、あんまり怖くなかった。
そっちの方をぼうっと眺めていたら、後ろから腰の曲がった爺さんが、小さい男の子に支えられて出て来た。
布をこっちに差し出すもんだから受け取ると、ずしりと重かった。中に鉄でも仕込んでるのか。
「暫くは外套として使いなさい。質の良い生地だ、それと外套の内側に金装飾が縫い込んである。お金が足りなくなったら破きなさい、少しずつ使うんだ」
……僕はさっき、自分は馬鹿だと自覚した馬鹿になった。でも、流石にこれは馬鹿でも分かる駄目な事だ。
「これは受け取れません」
「何故だね」
「受け取る理由が無いし、それにこれは貴方達が働いて稼いだ物です、これは貴方達の物だ」
「違うよ」
爺さんは事も無しげに首を振った。
何処かで見た事有る様な薄ら笑いを浮かべて、僕の目をじっとみる。
「君が働き始めてから私達にくれた金と、その子の養育費さね」
爺さんが視線を送った先を見ると、あの子が居た。こんな場合だというのに、まだ寝ている。大物って呼ばれる人みたいだ。
僕はちょっと考えてから、息を整えてから。
「……あの子と僕の関係、知ってるんですか」
「あぁ、多分君よりちょっと正確にね」
「僕の事は、あの子に話しましたか」
「いいや、きっと血だろうね。そう考えた方がロマンチックだ」
爺さんの癖にロマンチックとか、正直似合って無かったけど、言ってる事は分かった。知ってる大人達は、こうなる事を望んでたんだ、きっと。
「鹿車の用意が出来たぞ、出るなら早く」
「良いだろう? この子には外の世界を見せてあげたい、後生だ」
……もうちょっと、悩んでいたかった。
外の世界は危険がいっぱいだ、僕は自分を守るので精一杯だろう。 あの子は見てくれは良いから、きっと色々な大変な目にも合う。
それはきっと良くない事だ、子供が自分だけの力で生きて行く事は、ここで過ごすよりずっと厳しい。
けど。
「追手が来るぞ!早く!!」
「……僕は、今の僕は生を受けた者はその場所で死に、土になる事がウェールの定めだと考えています」
多分、こんな事をゆっくり言っている暇なんて無いんだろう。でも、言って良いのかな。
なんか、みんな聞いてくれてるし。
「彼女が起きたら、鹿車の中で全部話します。帰りたいと望んだら、受け入れてください」
爺さんは深く頷いて、口の端を上にあげた。年寄りになってもこんな風に笑えるんだって知ってから、僕は鹿車の荷台に乗ると、さっきの怖い人が手綱を渡してくれた。
右に居るのがキューピッド、左がコメットって名前も教えてくれて、どうすれば進むのかと聞いたら。
「手綱は掴んでいるだけで良い、こいつ等は言葉が分かる。行きたい方向を言えば良い」
「分かりました、じゃあ何処に行けば良いです?」
怖い人は上の方を指して、笑いながら言った。
「青い方に行け」
「そっちには、何が有るんですか?」
「お前が見て来い」
「……分かりました」
そのまま、鹿に引かれて空の青い方へ進んだ。
さよならが言えなかった。後ろから僕を呼ぶ声がするけど、振り向かなかった。
ずんずん進むと、その声も聞こえなくなった。
赤い雪原を超えて、地面の色が薄くなってから鹿に止まってもらった。荷台に乗ったまま立ち上がる。
遠くから見たウェールの空と大地は、歪んでいて上手く見えなかった。
「いつか、また」
きっと。帰ります。
◆
東大陸の、北端に位置する炭鉱町ウェール。
元々は薄桃色の雪が舞い、幻想的な姿が『サクラ』という植物を彷彿させる為、極寒の地でありながら春を意味する『ウェール』という名が付いた。
この色付きの雪は、炭鉱の山頂から放出する鉱毒が空に舞っている雪に付着する現象であるが、薄桃色であれば口にしなければ問題は無い。
しかし、炭鉱の開発が進むにつれ状況は変化していった。
色の濃度が濃くなり、赤色の雪が降り始める。この雪に触れれば炎症を起こす等、人体に有害な影響を及ぼし、最悪死に至る。
とても生物が暮らせる状況ではないが、人間はしぶとく、根深く生きている。
そんな人間は馬鹿だろうか、阿呆だろうか。
いや、少しだけ自由である。
※
メンドゥムは寝床からのっそりと身体を起こす。濁った意識の中に、ぼんやりと鋭い光が差した。
『あぁ、朝か。朝……朝?』そんな風に始まった連想は、徐々に速度を増す。
答えが出るよりも早く飛び起き、床にしこたま腰を打ったが気に留めない。彼は廊下に飛び出て、階段を駆け降り、玄関ホールまでたどり着いてから、
「チキショウ!何で誰も起こしに来ねぇんだ!!」
叫んだ。
コイリの処刑を以って得るはずの安らぎが転化し、メンドゥムに苛立ちと焦り、或いは不安を与える。
もし彼に敏感な聴覚が有ったならば、この屋敷に誰も居ないという事実に押し潰され、或いは狂っていたのかもしれない。
その精神を狂う一歩手前で、救ったのは、
ぎ、ぎぎぎと鈍く不快な蝶番の摩擦音であった。豪く年季の入った玄関の扉が先ずは光を迎え入れ、次いで入って来たのは老爺、厳めしい顔付きで真直ぐにメンドゥムを見遣っている。
……この男、名はマーテルと言う。
住処は捨てられた村。
マーテルはとある使命をもってこの場に居た。緩慢な動作で左手を肩の高さまで上げ、表情を変えず。
「やっほぅ」
メンドゥムの思考を停止させた。
意図して止めた訳ではないのだが、理解出来ないものは仕方ない。この間に掻い摘んでウェールの炭鉱主について解説をしておこう。
ウェールの炭鉱主は世襲制であり、第一子が家督を継いで炭鉱を守るという仕来りである。そして当然の様に、子宝に恵まれない代というのも存在する。
例えばメンドゥムとマーテル、二人に血縁関係は無い。彼等を親子たらしめる時間も証もこの世には存在していない。
だが。
「とう……とうちゃん?」
「うぬ。パパだよ、十年ぶりかな」
「……」
メンドゥムはマーテルを、尊敬すべき強靭な父として片時も忘れる事は無かった。
屈強な男数人を拳一つで制し、指先のみで岩盤を穿ち、肘で鉄板を砕く。冗談の様にやってのけたマーテルの異業とも呼べる出来事を、走馬灯の様に思い出していた。
憧れは恐怖へと生まれ変わり、脂汗が、瞳孔が揺れ、胃に冷たい何かが落ちる。
「やっちまったな馬鹿息子」
言葉が重い。
メンドゥムは心臓がずり落としてしまったかの様に、体温と顔色が希薄になって行く。
「本当ならワシ自ら鉄拳撲殺の刑に処したいんだがな。ほれ」
マーテルは懐から紙の束を取り出し、投げた。メンドゥムは上手く受け取れずに、紙が撒き散らかる形になってしまった。
宙を舞う一枚を掴み、上手く合わない焦点を無理矢理合わせる。一枚の紙に人名が所狭しと羅列し、隅っこにぽつんと『辞表』という文字が書いてあった。
「……じひょう?」
「一夜だけでウェール全員分だってさ。ま、大半は代筆だけどな、文字の読み書き出来る奴少ねぇし」
メンドゥムは散らばった紙を集め目を通す。その光景を見下ろしながら、マーテルは明後日の方向を向いてポツリポツリと呟き始めた。
「そうだ、一つ教えといてやるよ。コイリは文字の読み書きが出来ねぇ。どぉ言う事かってぇとな、手前コイリの塒から『炭鉱夫を生き埋めにする計画書を発見した』って言ったの覚えてっか、後ぁ手前の足りねぇ頭でも分かるだろ、ん?」
……マーテルの呟きは、メンドゥムに届かなかった。メンドゥムの頭は名も知らぬ者の名前が氾濫し、新しい情報を得る事を拒んだ。
記号の羅列に似た炭鉱夫の名前を読み上げ、疑似的に思考を止める。
しかし。
「……ニクス?」
偶然か否か、メンドゥムの記憶と符合する名が記述されていた。一人ではない、九人分あった。
「あぁ、兵士の兄ちゃんな。もう一人と一緒に『付いてけねー』って辞めたそうだぞ」
九人。メンドゥムがこの屋敷に住む様になってから雇った、兵士、世話係、執事、会計士、調理人、全ての名前が書いてあった。目の前の出来事を飲み込めず、だが沸々とした感情が彼の中に湧き始めた。
「メルさんが屋敷に入った時にゃあ、もう全員荷作り終わった後だったそうだぞ。手前とことん人望無ぇな」
この言葉を境に、
「……わけ分かんねぇ」
「あ?」
メンドゥムの感情が爆発する。
「訳が分からん!ここに居る奴等全員馬鹿だ大馬鹿だ!!炭鉱で働かずにどうやって生きてけるんだよぉ!?」
一気に捲し立て、叫び終わると肩で息をし始めた。
それを、マーテルは沈黙で返した。圧倒された訳ではない、何と声をかけるか悩んでいるでもない。
ただ憐れみ、悲しんでいた。
「お前、状況分かってないだろ……クビになったなぁ手前の方だ」
そう告げた所で、遠くから鐘の音が鳴り響く。
反射的に、マーテルは踵を返した。
「お前許さなきゃな、あの兄妹を許すのが嘘になっちまう。そう言って手前の首の皮繋いでやったんだぜ、感謝してほしーくらいだ。生きたきゃ炭鉱に来い、手前の働き口は用意してっからよ」
放心するメンドゥムをそのままに、マーテルは鉱山に向かって進む。
歩きながら、太陽の方へ手をかざし仰ぐ。
ウェールにとって、快晴はとても珍しい天候だ。そして、山がいつもと違う天候になるのは良くない事の前触れともされている。マーテルは鉱山へ向かう足を速めた。
恐らくは来ないであろう、メンドゥムの食い扶持を稼ぐ為である。
休めば食って行けぬ、決して豊かではない土地。割り切らねば生きて行けず、残った物も慎ましく生きる定め。
餓死する者も少なくは無い、明日生きる事が保障されている訳ではない。
彼らはその世界で、生きている。
※
二人が旅立って三ケ月。
暫く音沙汰も無いと思われていたが、二人から絵葉書が届いた。一枚はウェール、一枚は捨てられた町へ。
内容は差して変わらない。
鮮やかな赤が、濃い青から、淡い青へ。段階的に変化して行く様が描かれている。そして絵の端に、走り書きが一つ。
「青い先に行ったら、また青がありました。 何処まで行けるかわかりませんが、行ってみます」
少年と少女の世界と旅は、続く。
赤が、青から、青へ。
おわり
この作品を読んでくださった皆様へ。
ありがとうございます。
あと、作品のキーワードって何を入力すれば良いのでしょう。
よく分からんので、とりあえず『誰得』と『失敗作の例』と『特に感動とかしない』って入れときました。




