妖精
はっきり言おう。修仁は人の皮をかぶった鬼だ。魔物だ。化け物だ。
だが、確実に大学に合格させてくれるだろう救いの神にも違いない。
もし鈴乃だけが俺に勉強を教えてくれていたのなら、俺自身、どこかで甘えが出たかもしれねぇ。そうなったら、あとほんの少しのところで合格ラインの光なんて見えなかったかも知れない。
それにしても、あいつの体はどうなってやがるんだ?
俺は生まれつき人の何倍もの体力を持っていて、今も七倍あるため、数日間の徹夜なんてまったく問題ない。
それどころか、せっかく久しぶりにもらった休みの今日でさえ、家でゆっくり休むまでもなく完全に体力が回復しているため、じっとしていられなくて散歩しているくらいだ。
「すみません。仁狼さんですね」
そんな俺とまったく同じペースで、不眠不休で勉強を叩き込んでくれて、しかもほとんどメシを食わねぇ。
母さんが作ってくれたものも、初日は全部たいらげてから「普段はほとんど食べ物を口にしないんです」と言って、間食はおろか、メシの時間になっても何も食わねぇでいる。
だったらいつもはどんなもんを食っているんだと尋ねると、ほぼ白湯だけの玄米粥だそうで、そこに胡麻を二つぶ。それを一日に二食だけ。どんな修行僧だよ!
まったく、修仁自身とその食生活は訳の分らないことだらけだが、勉強の教え方は「神」としか言いようがない。
今まで俺が悩んでいたことは何だったんだ? もちろんこれまで鈴乃に教えてもらっていたことも、俺にとって充分過ぎるくらい充分なことだったが、やはり、鈴乃の遠慮と俺の甘えがジャマをしていたんだろう。
「仁狼さんですよね?」
ともかく俺の成績は、ここ数ヶ月で劇的に向上した。絶対に無理だと言われていた国立大学の偏差値も、余裕でクリアできる状態になっている。母さんに負担をかけさせたくない俺にとって、やはり、国立の授業料はとんでもなく魅力的だ。
「仁狼さんんん……」
誰かの声に振り返ると、いつの間に出て来たのか、普通のやつにも見えるサイズで立っている。
「おう。なんだ、エルティじゃねぇか。どうした?」
「いえ、初めまして。わたしは朝日奈葵と申します」
そう言ってはいるが、いつものように深々とおじぎをする。
「何言ってるんだ、エルティ?」
あれ? なんかいつもと様子が違う。
今どきのごく普通の子どもって格好をしているし、何より髪の色がぜんぜん違うじゃねぇか。
「エルティじゃ……ねぇのか?」
「はい、違います。実は、仁狼さんについて来ていただきたい場所があるんです」
葵と名のった女の子は、それでもエルティそっくりの笑顔でニコニコしながら言った。
「ついて来いって……どこに行くんだ」
「来ていただければ分かります」笑顔のまま繰り返す。
まったく。話がいきなりで、わけの分かんねぇ話し方までそっくりだぜ。
「なんかの宗教じゃねぇだろうな? お断りだぜ。宗教には入るなってのが親父の遺言なんだ」
釘を刺してやると、それを聞いた女の子の笑顔が曇る。なんだやっぱりそうなのか、だったら行く必要なんてねぇな。
しかしなんで俺の名前知ってたんだ? まあいい。それにしても偶然とは言え、こんなにエルティによく似たやつがほんとにいるとは驚きだぜ。
おーい、エルティ。見えてるかぁ。
コンコンと胸を叩きながら、また道を急ぐことにした。どこに行く宛てもねぇし、急ぐ必要もねぇが変なことに関わりたくなんかねぇ。
「『みちひろ』おじちゃんの遺言はそんなのじゃありません!」背中越しにさっきの子が大声で叫んだ。
俺は驚いて振り返る。なんでこの子、親父の『ほんとの名前』を知っているんだ?
俺がもの心つく前からずっと、親父は自分の名前を『義雄』で通していた。
本名は『義鳳』と書き、俺以上に読むことができねぇ名前で、公文書でない限り通名しか使わなかったらしい。
だが、俺の中学入学に必要だった戸籍謄本を見た時に、初めて普段の名前が通名だったと知った。
読めない漢字だと、初対面の相手にいちいち説明しなければならない面倒が分かっていた上で自分が通名を使っていたのなら、俺にも読めない名前なんて付けるなと言ってやったが、『それは意味が違う』と笑いやがった。
まったく、どう意味が違うのか、訳が分からん。
とにかく目の前の女の子は、親戚関係でも見たことはない。
そもそも、親父は葬式の時ですら親戚からもよしおと呼ばれていた。俺も最後まで冗談につき合うつもりだったので、ほんとの名前のことは言わなかった。
これほどエルティに似ているんだ。
もし、どこかで会っていれば見間違うはずはねぇし、知っているとすれば……それは、親父本人から教えられたとしか考えられねぇ。
「おまえ、何モンだ?」
「わたしは……おじちゃんから……」
女の子はポケットから何やら大事そうに紙に包んであるものを取り出す。
それは周囲がかなり焼け焦げた一枚の写真。
かなり破損していたが、そこに写されたものが何なのか、かすかに分かる。
手が震えた。見覚えがある。
親父が事故で死ぬ四か月前、俺の誕生日に鈴乃の家族と順崇の七人で撮った写真だ。
これは親父がいつも持ち歩いていたもので、裏に俺が書いた親父へのメッセージがあるのが何よりの証拠だ。