ゆめ、うつつ
いつも彼氏と来るバー。
カウンターの中にはずっと年上の大人の男、理想の人、マスター。
飲み会の帰り、ふと一人で立ち寄る。
今日、隣に彼はいない。
グラスを傾ける人の中、
酔いを楽しみ、目を瞑れば広がる世界。
ゆめ、うつつ。
最後の客…正確には最後から二人目の客が手を軽くあげて出て行った。
ずいぶん前にその男性客がチェックを済ませてから、マスターの土岐はカウンターの同じ並びに座ってプライベートな酒を楽しんでいた。
隣に座る彼女は残り2㎝ほどのジントニックを煽るとおもむろにバッグに手を伸ばし、中から財布を取り出した。
「じゃ、私も帰ろっかな。」
「おぅ。」
土岐はカタリと音をたて、彼女の隣から立ち上がった。そしていたって業務的に精算をすませたものの、彼女と曖昧に視線を合わせたあと、しばらく考えたような顔をした。
彼女が微笑んで首をかしげる。
「もう一杯だけ飲むか。」
少し大きく目を開けた後、愛らしい顔をした彼女の目尻が下がる。
「うん。」
土岐は軽く彼女の頭を撫で、カウンターの中に戻った。
他愛もない会話を片手に、流れるようにグラスに酒を注ぐ。カラカラと小気味の良い氷の音を響かせながら彼女の元に戻った土岐。
「はい。」
笑みを浮かべてグラスを並べた土岐だったが、座って彼を見上げるミディアムヘアをくしゃくしゃと揉むと、何も言わぬまま、まっすぐ入り口のガラスドアに向かった。
スイッと手を伸ばし、ガラガラとシャッターを降ろす後ろ姿を見つめながら、彼女は少し頬を赤らめる。
しかしそれはほんの束の間。
土岐が照明やBGMを調整する間にその瞳は潤い、口の端に笑みが浮かび、彼の空気が隣に戻るのを待った。
「んーっ、閉店だぁ。」
ゆっくりと目を閉じ伸びをする彼女。
「そ、オレと二人だけ。」
彼女が視線を向けた瞬間、土岐はごく自然に、ごく静かに、彼女の唇に自分のそれを重ねた。
“ぴくっ”
彼女の肩がほんのわずかだけ跳ねる。
「で、こういう事もできてしまうわけ。」
ふいっと顔を背ける彼女。彼に見られない角度で彼女はきゅっと目を閉じた。
「あーぁ、ちゅーしちゃった。」
ため息混じりに、だけど、その声は至って普段と変わりなく。
「確信犯のくせに。」
呟きながらグラスに手を伸ばす土岐。
じろりと彼を睨み少し口を尖らせた顔のまま、彼女もまたグラスを手に取った。
「意地でも最後の客になるつもりバレバレ。」
彼にポンポンとおでこのあたりを弾かれると、彼女はクッと一口含んだあと、悪戯な笑顔を土岐に向けた。
「当たり前じゃん。」
2つのグラスは同時にテーブルに置かれ、引き寄せられた彼女の体は彼に隙間なく寄り添い、まるで今まで何度もそうしてきたかのように、2つの視線と唇は絡み合った。
土岐の長い指をつけた手のひらがゆらゆらと彼女の背を這う。
それに連動して、接吻はゆっくりと進んだ。
その柔らかさを確かめるように何度も重なり、離れる隙間に互いに瞳の潤みを確認する。探るように、相手に映る自分をコントロールするように。
少しずつ唇の間が開いてくると、彼女の指が彼の表情を隠す眼鏡をまどろっこしそうに剥がし取った。
「土岐さん、スキ。」
不敵な笑みを浮かべ彼女が発すると、土岐はふっと鼻で笑ってグラスの酒を喉に流し入れた。
こくりと飲み込み、かたりとグラスを置く。と同時に彼は彼女の手首を掴み、引き寄せ、さっきよりも強く抱き締めた。
再開した接吻は、さっきまでよりも明らかにその濃度を増して…。
遠慮がちに差し出された彼女の舌を、彼は優しく包みあげる。だんだんと互いの中への侵入が深くなる。
彼女の腕が彼の首筋に巻き付けられると、彼の片方の手のひらは背中を泳ぎ、もう片方のそれは彼女の髪を乱すように弄った。
髪を少し引っ張られる感触に、彼女は小さく身震いする。そして求めるものが同じであるかのように、彼女の指もまた、彼の髪を乱した。
けれどもいたって接吻は静かに、ゆっくりと、優しく深みを増すのだった。
「お前の唇、柔らかい。」
「土岐さんとキスするためにできてるから。」
「バカ。んな言葉はいらん。」
「ぷっ。」
どちらともなく体を離し、何気ない仕草でグラスに手を伸ばす。謀らなくても元来、二人の速度が同じであるかのように。
そして、寄り添うときもまた、同じで。
自然に彼女が唇よりも早くその体を土岐に近づけると、彼の手はふわりと小高い山へと降りた。
さわさわと、しばらくそこを行き来すると、彼は小さく顎をあげ、手持ちぶさたにうっすらと開いていた彼女の唇を呼び寄せた。
「……ちゅ…。」
2つの唇がたてた音が消えるタイミングで、土岐は彼女の手首をゆるりと掴み、彼の太ももに小さな手のひらを広げさせると、じわりと彼の硬化してきた部分へと誘導した。
合わさったままの唇からどちらのものとも判らぬ息が漏れ、彼女の目が少し、細くなる。
それぞれの山の上でそれぞれの手のひらが揺れ動き、そこらの空気が熱を帯びた頃、土岐は言った。
「出して。」
視線に操られるように彼女がニットの裾を持ち上げると、土岐はちらりと瞳を合わせた。彼女の瞳がゆらりと動くと、土岐の視線は薄暗い照明の中に浮かぶ白い肌に戻り、長い指でブラジャーの中から膨らみを持ち出すと、手のひらを、まるでその柔らかさを確認するようにゆっくりと滑らせた。
彼女の頂が艶かしい動きで硬化させられると、彼はそこをそっと口に含んだ。
ピクン。
彼女の体が小さく跳ね、
「…ん…。」
小さな声が漏れた。
瞬間、土岐の唇も指先も、あっという間に柔らかなその場所から離れ、わずかに紅潮した彼女の顔を目を細め見た。
「ふぅん。意外とあるな。」
突然放り出された彼女も負けじとばかりに、何事も無かったかのように細く柔らかな視線で、彼の瞳を覗き込みながら言う。
「ぷっ、意外あったでしょ。」
離された指先からスルリとニットの裾は元の位置に還り、彼女がすっと背を伸ばすと、土岐の指が彼女の湿った唇をなぞった。彼女の手が土岐の“山”へと舞戻る。
「舐めて。」
ゆっくりとそこを撫ではじめていた手のひらが数秒動きをとめると、少し戸惑うように土岐の瞳を覗き込んだ。
「自分ではずして。」
彼女の思考など解りきっているように土岐が言葉を落とすと、彼女は含み笑いをして、じっと彼の瞳を見つめたまま頭を静かに下げる。
「めんどくさ。」
「うるさい。」
言葉とは裏腹に、細い指先は器用にジーンズのボタンを外し、じわりとファスナーを下げた。一度視線を上げ、彼がふっと目を細めたのを確認すると、彼女はゆっくりと両方の手のひらで“カレ”を取り出し静かに頭を沈めた。
彼女がうねりを増すごとに、微かに甘い息が漏れるのを頭のはじっこで聞きながら、彼女はしばらくその行為に没頭し、土岐は自分の疼きを愛しげに含む彼女の頭を撫で、髪を指に絡めた。
「ケツ…上げて。」
低く響く土岐の声に彼女はしばし動きをとめ、行為を口から手に移行しながら彼の顔を、すごく曖昧な表情で見つめ、少し挑発するように言った。
「真っ赤になっちゃうよ。」
乗り出していた体を椅子へと戻しながら、彼女がジーンズの背をそっと後ろ手に引っ張りあげた。
「なに?なってんの?」
「そ、なのに誘うなって?」
少し眉をひそめた土岐へ、少し眉を上げ、肩を上げる彼女。
「いいよ、上げて。」
彼女の顔が軽い驚きと羞恥に戸惑うけれど、そんなことは意に介さない様子で彼はジーンズの背から柔らかな深い谷間に指を滑り込ませた。
「あ…やだ、ホントに真っ赤になっちゃうってば…ん…。」
「でも、触りたいんだよ、仕方ない。」
「あっ…」
有無を言わさず中に押し入る彼の指に、彼女は腰を反り、たまらず土岐にしがみついた。
彼の指は入り口から奥深くまで、彼女の中をすべて確かめようというかのように蠢き、彼女は羞恥とたまらない刺激に身悶える。
「どこがいい?」
しがみついた耳もとで、深い声が響く。
「ぜ…んぶ…。」
「全部じゃ解らん。」
「だっ…て、全部だも…ん。」
「はっきり、言え。きちんと、言葉で。」
ぐちゃぐちゃと隠微な水音が、彼の投げつける言葉が熱を上げる道具となり、彼女の息遣いはぐんぐんと速度を上げる。
「や…ぁ…。」
彼女の腰が大きくうねり、しがみつく腕の力が増した。
「ここ、気持ちいいの?」
「気持ち、い…。」
脚の力が抜けはじめ、彼女の息が荒くなる。
「ここか?」
「そ…こ。」
「そこ、って、どこ?」
「やだ。」
指の蠢きはより深く大きく内壁をいたぶる。
「言え。」
土岐の耳たぶをきゅっと噛んだあと、悔しげに、熱い吐息に交えて彼女が言った。
「お…く。」
指の動きは聞くまでもなく滑らかで、土岐がどれほどの夜をどれだけの女と共に送ってきたのか、雄弁に語っていた。それはきっと、彼女の望むところで。彼にされるがまま、余裕が無いかのような喘ぎ声の合間に見え隠れする、普段の彼女とはあまりにも違う妖艶な表情がそれを教える。
「どS…。」
彼女が呟くと、彼の指が秘密の場所を探し当てたことに満足したように、熱い中から抜け出した。
と同時に彼女はもと居た椅子へと倒れ込んだ。
「あー、マジで真っ赤。」
「だからそう言ったじゃん。」
「ここまで赤いの、すげ、久しぶり。」
少し楽しそうにSが手のひらを見つめる。
「早く洗ってきて。」
グラスの酒を喉に流し入れながら、彼女はちらりと土岐の手を見た。
「そうする。」
土岐が部屋の奥へと向かうと、彼女も軽く立ち上がり、乱れた服を整え、座り直してタバコに火を着けた。ふうっと煙を吐き出して、白い影がゆらゆら揺れながら消えていくのをじっと見つめる。そして一度タバコを灰皿に置くと、両手でそっと、頬を覆い、目を瞑った。
「びっくり…しちゃった。こんなこと…。」
聞こえないくらいの小さな声で呟いたけれど、土岐の戻ってくる気配に慌ててタバコを手に取り、動揺などかけらも見せないすました表情に戻した。
「キレイになった?」
タバコをふかしながら土岐を流し見る彼女。
「うん、なった…はず。」
自分の手をまじまじと見る彼の姿に彼女はふわっと目尻を下げる。
「石鹸で洗った?」
「いやー。」
「石鹸で洗った方がいいよ、絶対。血の臭いとかしたら奥さんにバレちゃうよ。」
「そうかぁ?んな臭う?」
土岐はすっと彼女の鼻先に手をかざす。クールな土岐の意外にもかわいい仕草に彼女は笑いながらクンクンと息を吸った。
「あれ、意外と大丈夫かも。」
「だよな、ま、いいや。」
クスクス二人で笑いあい、タバコをふかし、酒を飲んだ。
「どS、好き。私Mだから。」
「お前はSだよ。」
「そんなことないよ、どMって言われるもん。」
おもむろに土岐は彼女の頭に手を伸ばし、くしゃくしゃと優しく撫で揉む。
「お前はS。オレが言うんだから間違いない。お前みたいに支配するのが大好きなヤツはSなの。」
軽く、ついばむようにキスを与えながら、彼女の顔を見つめ、土岐が笑った。
「なんで、私のことわかるの?誰も私のこと、Sだなんて言わないよ。」
「ん?回りはみんなアホなんだよ。」
「アホ?」
「そうアホ。あいつらにはお前の可愛い顔しか見えてないの。でもカウンターのこっちの世界のオレにはお前のことなんか全部バレバレ。お見通しなわけ。」
しれっとした表情でタバコをふかす土岐の横顔は少し、悪戯な少年のようで。
「どS。」
呆れたように言葉を吐きつつも、彼女の中に、愛しさが色づく。
「オレはどSだよ、って言っても昔よりはやわらかくなったけどな。ま、言葉攻めで。」
「めんどくさ。」
彼女がチラッと舌を出す。
「めんどくさ、って。しゃーない、オレ文系だし。」
「なにそれ…ってさ、二人ともどSって、エッチの時困るよね。」
「いや、まぁ、いーんじゃね。SもMも表裏一体ってことで。せめぎあってどっぷりハマったりして。」
土岐が彼女を抱き寄せる。抱き寄せられた彼女はいつの間にか元の位置に戻されていた眼鏡をまた、流れるような仕草で剥がした。
両手で彼の頬を包みながら、唇を掬う。
何度も唇を重ね、舌を絡め静かなBGMの中、二人の時も重なる。
彼女の唇はもう、衝動を抑えられないかのように、彼の首筋へと移動した。彼女の唇と舌先はそれ自体が性感帯であるかのように、滑らかに彼の表面をなぞり、耳たぶまで愛撫し、彼から甘い吐息を吐き出させた。
「もうすぐ…朝だね。」
愛撫の合間に漏らす彼女の言葉に、土岐は上づる事もなく淡々と答える。
「…だな。」
「帰らない…と。」
「あぁ、お前…朝、早いんだろ。」
「ん…きちんと起きゃなんない。…土岐さんは…帰りたい?」
「眠いからな…でも、気持ちいい…から、いっか。」
「気持ち、いいんだ。」
「気持ち…いいよ。」
首筋を行き来していた唇は、彼のそれへと舞い戻る。土岐の手もまた、愛しげに彼女の腰を抱き、髪をくしゃくしゃにする。
「土岐さん…好きよ。土岐さんの…入れたい。」
目をトロリとさせ、土岐の耳元でこれ以上ないほど甘く囁く彼女。
「土岐さんは、私としたい?」
「…言葉で、オレをコントロールしようとするな。」
「んっ…。」
椅子の背にもたれて愛撫を受けていた土岐が、急に体を起こし、と同時に彼女の髪をぐっと掴み、その小さな顎が上を向いてしまうほど強く引っ張った。
彼女の体が瞬時に火照る。
「どS。私の質問、答えてない。したいの?私と。」
髪が解放される。
彼女は土岐の表情が見たくて、ぐっと瞳に力を入れる。その瞳の奥にあるのは、肯定の言葉が吐き出されることへの期待、と、勝利を得ることに似た快感への欲望。
しかし、彼が口にしたのはそれを軽く裏切るもので。
「自分の男にしてもらえばいいだろ。」
彼女の表情が少し、強ばる。ただ、それはほんの一瞬であったけれど。
「男?…へぇ、土岐さんは私としたくないんだ。」
「…だから、オレを支配しようとするな。」
ゆったりとした間で脚を組み、土岐がグラスを手にとってゆらりと傾けた。
「答えになってない。したいの?したくないの?」
彼女の言葉など意に介さない様子で、静かに揺れる液体を見つめる土岐。
「…は。とにムカつくヤツ。」
「ふっ。」
彼女が挑戦的に笑うと、彼は、カラリとグラスの氷に音を立てさせたあと、ゆっくりと酒を煽った。
もったいぶるように時間をかけてグラスを置くと、またすぐに彼女の愛撫が始まる。
「お前がここに来ないと、何も始まらんだろ。」
「来て欲しいの?」
「…欲しいなら来たらいい。」
土岐に絡みつきながら、彼女は満足そうに微笑んだ。
甘い瞬間は意地悪なくらい時間を早く進め、ふっと土岐が見上げた時計が現実を教え、彼が小さく溜息をついた。
「さすがにヤバくない?オレも眠たぁくなってきたし。」
「だよね、ごめん。…でもあと…10分だけ。」
「10分だけ?」
「うん…。」
うつむき加減でしおらしく返事をする彼女を彼が愛しげに目を細めて見つめ、溶けるくらいに優しく笑う。
「いいよ。」
それからしばらくは、二人でいる、二人きりでいる、ということを堪能するように、静かに包み、包まれた。抱き締める腕も、抱き締められる体も心地良くて。
甘くて甘くて甘い、とき。
うっとりと目を瞑って息を吸い込むと、彼女が決意をしたように背筋を伸ばした。
「キリがないから帰ろ。」
「だな。」
土岐の手をゆっくりと剥がすと、目を合わさぬまま立ち上がり、コートを羽織る彼女。
残り一口の酒を煽ると彼もまた立ち上がり、ボタンをとめにかかった彼女の前で動きを止める。
どちらともなく、しばしまた、時を止める。
言葉はなく、ただ静かに抱きしめ合う。
「ふぅ。」
大きく溜め息をついたあと、彼女は土岐の体に添わせた小さな手のひらに力を入れた。
「帰るよ。」
そう言って体を先に離したのはやはり、彼女で。
「ん。」
そう言って気だるそうに髪をかきあげて息を吸ったのは彼で。
「待てよ、ちょっと帰る準備。」
「何?私と一緒に店を出たいの?」
「…聞く?」
悪戯な表情で見つめる彼女に、土岐は流し目を残したまま背を向けた。
指を指しながら店内をチェックしてまわる土岐の姿をタバコの煙の隙間からぼうっと見つめていた彼女が、わずかに微笑んで呟く。
「なんだ、結構酔ってんじゃん。目が覚めたら私との事なんて忘れてたりして。」
彼のいつもよりもふわりとした足元を目で追いながら、彼女は椅子の上で体を丸め、静かに待った。
「OK。」
低く響く土岐の声とともに彼女は軽やかに立ち上がり、彼より先に歩いた。
ゆっくりとドアを開けたのは彼女。シャッターを押し上げたのは彼で。上がりきる前にお別れのフレンチキス。
人気などほとんどなくなってしまっている明け方の街を、少しだけ並んで歩いた。
「そのタクシー乗るわ。」
彼女が手を振って開いたドアの中へと身を屈めた。
「またな。」
声には出さなかったけれど、土岐の口元が確かにそう動いたのを見届けると、彼女は運転手に行き先を告げた。
「目標達成。」
くすっと彼女が笑った。
瞳を閉じると浮かぶ夢
瞳を開けても消えぬ夢
夢? 現実? ゆめ、うつつ