霧雨の日
九月に僕は死んだ。
その日は朝から雨が降っていた。
夏の日差しが九月になって和らいだと思ったのは一瞬のことで、毎晩が寝苦しく、少しでも涼を得ようと寝る際に窓を開けたのは当然の帰結だった。そのため目が覚めたとき、部屋の中にはまだ雨の匂いが燻っていたのだ。
枕を腰に当てて暫くはそのまま夢と現実の狭間をたゆたう。低血圧の僕は目覚めが悪い。
起きてまずすることは日捲りのカレンダーを破ることだ。破いた紙は裏にして棚に重ねる。ちょっとしたメモに便利で、意外に重宝している。
九月十四日。日曜日。今日は三連休の二日目だった。カレンダーは大きく丸印がつけられているが、何の目印でつけられたものか僕にはわからなかった。
○ ○
家族はこの連休を使って実家に帰るのだと言っていた。あの田舎な感じが苦手だった僕は留守番を選んだ。階段を下りると森閑としたリビングが迎えてくれる。何気なく居間を覗き込んで誰もいないことを確認すると、僕はテレビの前を陣取った。
テレビではいつもと変わらないタレントたちが、いつもと同じようなトークで笑いを取っている。面白くもない番組を僕は膝を抱えて暫く見ていた。
ふいに、何かが鳴った気がして僕はテレビをボリュームを下げると耳を澄ませた。まるで狙ったようなタイミングで再び音がした。
コンコンコン。
戸を叩く音だ。玄関のほうから聞こえてくる。お客さんだろうか? インターホンがあるはずなのに、おかしな客だ。
「はあい、今いきますう」
こんなときにお客さんだなんて。僕はテレビの電源を切ると玄関に向かった。曇りガラスの玄関戸越しに赤色と黒色とピンクが薄ら滲む。時計を見忘れた。今何時だろう。
「どちらさまですか?」
再び耳を澄ませるが、誰何に返答はない。怪しい。本当に客だろうか。凶器を持った男が立っていて、まんまと扉を開けたらブスリ。なんて。笑えない。
コンコンコン。
「こんにちわあ」
女の声だ。聞き覚えがある。それも遠くない過去。
「今開けます」
戸惑いながらも僕が戸を開くと、それが夏季であることがわかった。灰桜の着物に臙脂の帯を締めて、両手で珊瑚色の籠巾着をぶら下げている。何処かに出かけていたんだろうか。綺麗だ。もちろん口には出さない。代わりに違うことを口にした。
「どうしたの?」
「ううん、特に用事はないんだけど、挨拶していこうかと思って」
「何処か行くの?」
夏季は首を縦に振るような横に振るような曖昧な仕草で笑うと、家の奥に視線を移した。
「今日は誰もいないの?」
「あぁ、うん。みんな実家に帰っちゃって。家は僕一人なんだ」
「そうなの。ねぇ、ちょっとお邪魔してもいいかしら」
断る理由もなかった僕は夏季を居間に通した。
「夏季はお茶でよかった?」
「気を使わなくていいんに」
前に夏季が家へ遊びに来たのはいつの事だったか。いまいち思い出せないが随分昔のことのように思う。夏季は懐かしそうに部屋の中を眺めていた。
「綾斗んち、変わんないね」
僕は冷やしたお茶を注いだコップを二つ、お盆に載せて運びながら苦笑いをした。夏季は部屋の隅に飾られた張子の虎を見ている。工芸屋で手作りした物だ。小学校の体験学習だったか。手作りと言っても既に出来上がった白い型に色を塗っただけの代物である。それでも自分で何かを作ったという事実が嬉しかった。両親は僕以上に喜んで、嬉々として居間に飾ったのだ。張子の虎の髭はボロボロになっているが、全体は色褪せたりはしていない。確か色をつけた後に上から漆を塗ったのだ。懐かしい。飼っていた猫はまるで草を食べるようにして虎の髭を毟った。その猫はあるとき、台風が来る日の前の晩に家を出てそれきり帰ってこなかった。夏季は暫くそのまま張子の虎を見ていたが、やがてぽつりと言った。
「実は私、帰らなくちゃいけなくなったの」
僕は驚嘆して、夏季を見た。夏季の憂いに満ちた横顔には深い陰影が出来ている。烟るような睫が控えめに伏せられる。すっと伸びた鼻梁。笄を挿した黒髪に白いうなじが映える。僕は息を呑むと、慌てて視線を逸らした。視線を落としたまま、言い淀んだ質問をした。
「帰るって、地元にか?」
「もっと楽だと思ってた。楽なほうに逃げて、それで、気がついたん」
「何に?」
夏季はそれらに応えなかった。代わりにすっと立ち上がり、テーブルを挟んで向かいに座ると「お茶頂くね」と言って、一口二口飲み、息をついた。自分が軽く身を乗り出してたことに気がついて、居住まいを正すと僕もお茶を飲み干した。夏季は中身が半分ほども残ったコップを繊手で包みながら、まるでそれが親を仇であるかのように見ている。それは何を言うべきか考えるための間でもあったのだろう。やがてぽつりと言った。
「綾斗は……この街好きなん?」
「うぅん、よくわかんね。街の人はみんな優しいし、嫌いなわけじゃないよ」
「そっか」
先ほどから曖昧なことばかりで、どうも落ち着かない。夏季が何を考えているのかわからなくて、僕は浮き足立つような錯覚に陥った。
「夏季は」
小首を傾げた。夏季がそのような仕草をすると少女のように見える。昔は学校でも人気者だった。表裏がなく開けっぴろげで、誰にも優しかった。人の痛いところを平気で突いてくるくせに何処か憎めなくて、みんなに好かれてた。こちらに越してきたときにもその変貌振りに驚いたが、今日は着物姿で余計に大人びて見える。すっかり大人の女性としての落ち着きを身につけて、子供の頃の快活なイメージはない。でもその面影が懐かしい。
「夏季はこの街、嫌いか?」
俯きながら夏季はそれに力なく首を振った。
「そんなんじゃあないのよ。私もこの街は好きだし、このまま住んでたいよ。でもそれじゃだめなんよ」
何がだめだと言うのか。気になったが、それを口に出すことは躊躇われた。踏み込んではいけない領域のように感じたのだ。僕が「おかわりいるか?」と聞くと「いいよ」と言うので、僕は自分のコップにお茶を注ぎなおして、再び座り込んだ。
「帰って何するん?」
高校は別々になったから、知っているのは中学生のときの夏季だけだ。卒業文集には看護婦になりたいと書いてあったのを覚えている。僕は将来何になりたいと書いたのか、思い出せなかった。探せば文集は出てくるだろう。将来の夢もなんて書いたか載っているはずだ。でも、あの頃考えていた将来の夢への気持ちは取り戻せない気がした。
「それがね。まだちゃんと決めてるわけじゃないんよ。帰ったら資格取るために勉強もしないといけないし」
「そっか、そか。夏季ならきっと出来るよ」
「お世辞でも嬉しいわ」
夏季は曖昧に笑った。疼痛が胸の奥に入り込む。お世辞ではない。そう言いたかったが、無責任な励ましは無意味なことだ。言葉は上滑りして夏季の気持ちを傷つけるだけな気がした。
「そろそろ行かないと」
落ちつかなそうに夏季は立ち上がった。喋り方が標準語に戻っている。僕は急に距離を感じて慌てた。
「船の時間もあるから、急にごめんね」
「そこまで送るよ」
「そんな、いいのに」
そう言いながらも夏季は嬉しそうだった。玄関をくぐって、敷地を出たところで「ここでいいよ」と夏季が言った。
「あのね、これ、綾斗に持っててほしいの」
夏季は籠巾着から何かを取り出した。ぬいぐるみだ。白いウサギのぬいぐるみ。そういえば、夏季の小学生の頃のあだ名はウサギだった。いつも元気で、あちこち駆け回っていたからだ。
「私のこと忘れないでね」
「忘れないよ」
またあの曖昧な笑みを浮かべて「それじゃ、またね」と言った。僕はもう何がなんだかわからない。夏季はコツ、コツと下駄を鳴らしながら去っていく。何か、何か言わなければ。焦燥感ばかりが募って、肝心の言葉が出てこない。胸が詰まる。今にも飛び出してしまいそうなくらい胸がいっぱいになる。このままお別れなのか。そんなのは嫌だ。
「夏季!」
視界の先で夏季が止まる。上半身から振り向いて、小首を傾げる仕草。
「あのさ、同窓会しような! 和也と裕子も呼んでさ、四人で!」
口元に手を当てて、固まった。夏季が目を瞠ったのがわかった。
「みんな待ってるからな。こっち帰ってきたら連絡くれよ。約束だぞ!」
じわりと滲んだ涙を拭いながら、夏季が何度も頷く。
「ちゃんと帰ってくるよ! 約束だよ。楽しみにしてるから!」
夏季はそう言って大きく手を振った。僕もそれに振り返す。彼女はなおも涙を拭い、手を振ると、踵を返した。その後姿が見えなくなるまで、僕はそこに立っていた。
○ ○
僕は夏季を見送ってから、何をしようかなと考えた。家に戻っても誰もいないし、テレビを見ていてもつまんないばかりだ。せっかく家に家族がいないのにこれを満喫しないのも損な気持ちになるが、やることがなければ暇なだけだ。僕は散歩することにした。行く当てはない。
路地を進み、曲がり角を適当に曲がっていく。ここらへんもすっかり住んでいる人が変わってしまった。近所に越してくる人は多いが、出て行く人も多い。一時期は住める場所がなくなってしまい、単身赴任などに便利なワンルームマンションやアパートがずいぶんと増えたのだ。最近はそういうこともなく、ただ人の入れ替わりだけが慌しい。
暫くそうして進むと、土手に通じるなだらかな坂道に出た。土手の向こう側は勾配がきついので上級者向けだ。僕も小学生の頃はこちら側だった。初めて向こう側をダンボールで滑り降りたのは中学に入ってからのことだ。気をつけなければ途中でダンボールから落ちて怪我をしてしまうこともあった。やがて子供たちにはダンボール禁止令が出た。
僕は左右を見た。土手を走る車の姿はない。走る。渡る。さすがに走り降りる勇気はなくて、僕は土手沿いを下り坂目指して歩いた。大きく迂回して土手下まで来ると、広めに取られたスペースにぽつり、ぽつりと置かれた遊具で遊ぶ子供たちの視線を浴びた。知らない子供たち。
やがて一人の男の子が寄ってきた。
「おにいちゃん、どこからきたの? ちゅーがくせい?」
「すぐそこだよ」
僕は来た方向を指差しながら言った。中学生だなんて、そんなに子供っぽく見えるのか。こう見えても背伸びしたい年頃である。高校デビューは果たせなかったが、挽回のチャンスはたっぷりある。一人が話しかけて警戒心が解けたのか、もう一人の女の子が駆け寄ってくる。
「すぐそこってどっち?」
「ねえ、おにいちゃん中学生なの? あたし小学二年生だよ!」
「おにいちゃん名前なんていうの?」
「あたしコハルー!」
「僕ショウター」
「僕は綾斗だよ。すぐそこの住宅街に住んでるんだ」
「あたしたち」
「あっちから来たのー」
二人は振り返って、河の向こう側を指差した。記憶を掘り返すが、あっちの方向には土手沿いを暫く進んだ後、河を越える橋を渡って五百メートルほどは歩かなければ住宅がない。小学二年の子供たちの足では随分遠いだろう。橋を隔ててしまうと通う学校も変わってしまうから、見覚えなかったのは当たり前かもしれない。
「お父さんかお母さんは? 一緒に来てないの?」
こんな遠い場所まで来るのに、保護者が見当たらないのだ。二人は顔を見合わせ、手を繋いだ。心細そうに。
「来てないの。お母さんは行ってらっしゃいって言ってくれたの」
女の子も同意するように頷いて見せた。なんて親だ。車の通りが少ないわけでもなく、むしろここは開けているので速度を出す人も多い。僕なら一緒についていく。
「そうなんだ。ねえ、お兄ちゃんも一緒に遊んでいい?」
子供たちは弾けるような笑顔になって、僕の両手を引っ張った。
○ ○
帰り道。僕が駄菓子屋のトトさんを見かけたのは偶然だった。腰の曲がったおばあちゃんが杖を突いて歩いているのを見かけ、気になって傍を通ったときに横目で見てみれば、それがトトさんだった。おじいさんに先立たれ、トトさんは一人で駄菓子屋を切り盛りしていた。近所にはトトさんのお店しか駄菓子屋がなかったから、毎日たくさんの子供たちが詰め掛けていたものだ。生きている限りは駄菓子屋をやめないと豪語していたのだが、ここ数日、散歩の途中で見かけることがあって、不思議に思っていたのだ。
「トトさん」
僕が話しかけると、トトさんはゆっくりをこちらを向いた。杖に寄りかかるようにして足を止める。丸縁眼鏡をかけた梅干みたいなトトさんが、僕の顔を見てにっこりと微笑んだ。
「田淵さんとこのボクじゃないかい。ええと、確か……」
「綾斗です」
「そうじゃった、そうじゃった。最近は物忘れがひどくてねえ」
老人特有の悩みを打ち明けられても、記憶力が悪いほうではない僕は共感してあげられなかった。僕は適当に笑ってごまかす。
「トトさん、駄菓子屋どうされたんですか?」
「はぁ、駄菓子……ワタシもまだ続けたかったんじゃあけどがなあ。歳を取ったっちゅうことじゃなあ」
「お店、閉めちゃったんですか」
僕は驚いた。トトさんが駄菓子屋をやめてしまうなんて、思ってもみなかった。小さい頃は、帰り道に毎日寄っていた思い出がある。休みの日も駄菓子屋に通った。みんなが駄菓子屋に集まるもんだから、遊びに行くときの集合場所が駄菓子屋なのはいつの間にか暗黙の了解になっていた。そこでお小遣いを使ってお菓子を買って遊びに出かけるのだ。懐かしい思い出がふと蘇る。無性に悲しくなった。あの並べられた駄菓子越しにトトさんを見ることもないのだ。こうして杖を突くトトさんを見れば元気そうだった頃の面影が薄れているように思う。いつまでも元気なのだと確証もなく信じていたのだった。
「最近はねえあちこちで何でも揃うようになって……」
寂しそうに道の先を見たトトさんは、ここではない何処か遠くを見ているようだった。今にもトトさんが何処か手の届かない場所へ行ってしまうような不安を覚えた僕は、口火を切った。
「でも僕はトトさんの駄菓子屋好きでしたよ。行けばいつも誰かがいて、トトさんがいて、お店の前で鬼ごっことかしたりして」
「懐かしいねぇ。おじいさんも子供たちの喜ぶ顔が好きでねえ。自分が死んでも子供たちの喜ぶ顔が見たいから、駄菓子屋続けてほしいって……遺言だったのに」
そこでトトさんが大きく溜息をついた。
「フネさんがねえ、誘うんだよ。一人じゃあ寂しいだろうって。嬉しいんだけどねえ」
僕は名前を思い出してみる。フネさんといえばトトさんと同じくらい梅干のおばあちゃんだった。ただ、トトさんはほっぺたがぷにぷにでふっくらしているけど、フネさんは少しシャープなのだ。昔は街で一位二位を争うほどの美人だったのだという噂を聞いたことがあった。
「最近、物騒な事件とかもありますし、心配ですよね」
「そうさねえ。子供たちと会えなくなるのは寂しいけど、せっかくフネさんが誘ってくれてるし、私も厄介になってみようかねえ。ありがとねえ、田淵さんとこのボク」
僕は苦笑いを浮かべる。
「綾斗ですよ。それじゃ、トトさんもお元気で」
トトさんはゆっくりとした動きで二度頷いて、杖を突きながら歩いていった。
○ ○
空を見上げれば、夕闇が降り始めている。このところ、日があっという間に沈んでしまう気がする。一日が短くなるわけではないのに、不思議とそう感じるのだ。僕は家路を急いだ。帰りを待つ人がいるわけではないが、いつ家族が帰ってくるかわからないのだ。帰ってきたときには家にいて、迎えてあげたいと思う。そのときに家に誰もいないんじゃ、きっと寂しいと思うんだ。
家に帰って明かりをつける。テレビをつけ、また膝を抱えてそれを見る。見飽きればチャンネルを変える。家族がいれば、一番に父親の見たい番組を優先しなければならないし、父親に見たい番組がなくても母親や妹とチャンネル争いがある。こうして自分の好きなときにチャンネルを変えられるというのは、貴重な体験である。同時に騒がしい我が家の静まり返った様が恐ろしくも思う。
しばらく流れる番組を見続けていたが、いつの間にか転寝していたようだ。頬っぺたにテーブルの木目がくっきりついている。僕は背伸びをして頬のでこぼこを撫でながら二階に上がる。窓から見える景色は色とりどりの街明かりに満ちていて、綺麗だ。丸い満月が、ゆっくりと降りてくる。
扇風機をつけて、タイマーをセットする。暑さをしのぐため、まだタオルケットを羽織って眠っている。今の気温だと、このくらいがちょうどいい。
横になると、途端に眠気が襲ってくる。電気を落とす。あくびを一つ。夜更かししてもいいが、どうせ明日も休みなのだ。早く起きて、やりたいことをすればいい。
僕は眠りに落ちる。気の早い鈴虫が、リー、リーと啼いていた。
○ ○
その日は朝から雨が降っていた。
夏の日差しが九月になって和らいだと思ったのは一瞬のことで、毎晩が寝苦しく、少しでも涼を得ようと寝る際に窓を開けたのは当然の帰結だった。そのため目が覚めたとき、部屋の中にはまだ雨の匂いが燻っていたのだ。
枕を腰に当てて暫くはそのまま夢と現実の狭間をたゆたう。低血圧の僕は目覚めが悪い。
起きてまずすることは日捲りのカレンダーを破ることだ。破いた紙は裏にして棚に重ねる。ちょっとしたメモに便利で、意外に重宝している。
九月十四日。日曜日。今日は三連休の二日目だった。カレンダーは大きく丸印がつけられているが、何の目印でつけられたものか僕にはわからなかった。