『婚約者の王子が貧乏男爵令嬢に夢中なので乗り込んだら、味噌とんこつラーメンに私まで陥落しましたわ!』
天高く澄み渡る十月の空に、魚の鱗を散らしたような白い雲が無数に浮かんでいた。吹く風はひんやりと冷たく、木々の梢を揺らしながら、地上で繰り広げられるちっぽけな人間の営みなど知らぬ顔で通り過ぎていく。
その高い空を、忌々しげに睨みつける女が一人。
王国始まって以来の俊英、若くして財務と宮廷行政を完璧に回す「仕事のできる女」こと、公爵令嬢セシリアであった。
「……またですの? またあそこへ入り浸っていらっしゃいますのね、殿下は!」
執務室の窓辺で、セシリアは手にした羽根ペンをへし折らんばかりに握りしめていた。
セシリアの婚約者である第四王子――ギルバート。王位継承権こそ低いものの、容姿端麗で人当たりがよく、外交の場ではセシリアの優秀な補佐役として申し分のない立ち振る舞いを見せる美丈夫である。
だが、その完璧な王子には、ここ数ヶ月、致命的な悪癖ができていた。
「セシリア様、落ち着いてくださいませ。ギルバート殿下の護衛騎士からの連絡によりますと……本日も『あの掘っ立て小屋』でお食事中とのことです」
副官の侍女が、眉根を寄せて言いにくそうに告げる。
あの掘っ立て小屋。
王都の場末、下町との境界線にぽつんと建つ、貧乏男爵家の裏庭にある離れのことだ。
そこに暮らしているのは、男爵令嬢コレット。
セシリアはこめかみを押さえ、深いため息をついた。
正直に言って、コレットという令嬢は、貴族社会の基準からすれば「何一ついいところがない」女だった。
家柄は底辺の貧乏男爵。夜会に出席させれば開始時刻を三十分過ぎて息を切らして駆け込んでくる遅刻の常習犯。扇や手袋をどこかに置き忘れるのは日常茶飯事で、挙句の果てには、文字が歪んで見えてしまうとかで書類も本もまともに読めないという。
社交界の淑女たちが身につけるべき教養も、優雅な会話術も、計算高い立ち回りも、何ひとつ持ち合わせていないのだ。
それなのに。
悪事を働いているなら、叩き潰す口実もできる。だが彼女は毒婦でもなければ、殿下を誘惑しようと色目を使いもしない。ただただ、ぼんやりと間の抜けた笑顔を浮かべて生きているだけの、無害極まりない小娘なのだ。
「悪いことをしていれば、まだ救いがありますものを! あんな、知性のかけらも感じられない小娘に……どうして殿下は日参なさるのよ!」
セシリアのプライドはズタズタだった。
朝から晩まで血のにじむような努力を重ね、王宮の予算案を精査し、殿下の執務を完璧に支えている自分を差し置いて、なぜあの愚鈍な娘のもとへ通うのか。
「……こうなったら、この目で確かめて差し上げますわ!」
セシリアは上等なドレスの裾を翻し、護衛も連れずに馬車を走らせた。
秋風が吹き抜ける下町の路地裏。
粗末な木造の離れから、漂ってきたのは――貴族の邸宅では絶対に嗅ぐことのない、暴力的で、脂っこく、鼻腔の奥を容赦なく直撃する匂いだった。
「……な、何ですの、この匂いは!? 焦げたニンニクと、肉の脂と……ツンとくる香辛料……?」
セシリアは絹のハンカチで鼻を押さえながら、軋む板戸の隙間から中を覗き込んだ。
そして、我が目を疑った。
粗末な丸テーブルを挟んで、仕立ての良い平民風の上着を着たギルバート殿下が、腕まくりをして座っていた。
その手には、二本の細い棒――いわゆる「箸」という異国の道具が握られている。
「う、うまい……! なんだこれは、コレット! 麺というのか? この縮れた黄色い紐のようなものに、濃厚な白湯スープが絡みついて……箸が止まらん!」
「えへへ、よかったぁ。それ、袋を破ってお湯で三分煮るだけなんですよ、殿下。お野菜をてんこ盛りに炒めて乗っけると、栄養もバッチリですからぁ」
のほほんと答えたのは、エプロン姿のコレットだった。
髪は適当に後ろで束ねられ、頬にはうっすらと煤がついている。テーブルの上には、山盛りのキャベツとモヤシ、豚バラ肉がドサリと載った、巨大などんぶりが湯気を上げていた。
「この上に乗っている黒い粒々はなんだ? 噛むと舌が痺れるように熱くなる!」
「粗挽きの黒胡椒ですー。あと、これ! 異世界の調味料で『ラー油』っていうんですけど、ちょこっと垂らすと、ピリッとして味変になるんですよぉ」
「味変だと……!? おおっ、香ばしい胡麻の風味と辛味がガツンと脳天を突き抜ける! 宮廷料理の澄ましたコンソメなど足元にも及ばんぞ! このジャンクな中毒性、たまらん!」
ずずずっ、ずぞぞぞっ!
高貴なる第四王子が、人目を憚らずに麺を啜り上げ、器を持ち上げてスープをぐびぐびと飲み干している。
さらにテーブルの上には、茶色いソースがたっぷりかかった謎の揚げ物や、甘辛いタレで炒められた得体の知れない肉料理が所狭しと並んでいた。
コレットは、異世界の商人と秘密の取引ルートを持っているらしく、そうした「あっちの世界のB級グルメ」を安価で手に入れては、適当に調理して食べているらしい。
「殿下、お口の周りにスープがついてますよー」
コレットが、洗濯したての粗末な手ぬぐいで、事もあろうに王子の口元をごしごしと拭った。不敬罪で首が飛んでもおかしくない無作法だ。
だが、ギルバート殿下は怒るどころか、子犬のように目を細めて笑った。
「すまんな、コレット。いやあ、生き返るよ。城にいると、どの書類を見ても数字と陰謀ばかりで頭が爆発しそうになるんだ。セシリアは完璧すぎて、私の小さなミスも許してくれないしな……」
覗き穴の向こうで、セシリアの血管がぶち切れそうになった。
「――そこまでですわ、ギルバート殿下!!」
バターン!と勢いよく扉を押し開けると、安普請の小屋が激しく揺れた。
飛び散る埃。ギルバートが「ぶふっ!」とスープを吹き出しそうになり、コレットがぽかんと口を開けて目を丸くする。
「セ、セシリア!? なぜここに……!?」
「なぜ、ではありませんわ! 執務を放り出してどこへ行かれたかと思えば、このような油臭い掘っ立て小屋で、平民以下の食事にうつつを抜かしていらっしゃるとは!」
セシリアは怒りに肩を震わせ、仁王立ちになった。
秋の斜光が、完璧に結い上げられた金髪を照らし出す。その姿はまさに断罪の女神であった。
「コレット男爵令嬢! 貴女、身の程をわきまえなさい! 殿下にこのような下賤な食べ物を供し、毒でも入っていたらどうするおつもりですの!? だいたい貴女、先日の王室名簿の提出も三日遅れ、提出した書類は誤字だらけで読めない始末。自分の無能を恥じ入ることもなく、殿下をこのような場へ引きずり込むなど――」
まくしたてるセシリアの言葉を、コレットは怒るでも怯えるでもなく、ただ困ったように眉を下げて聞いていた。
そして、ぺこりと頭を下げた。
「ごめんなさい、セシリア様……。文字、どうしても数字や線がぐるぐる回って見えちゃって、何回書き直しても間違えちゃうんです。ご迷惑をおかけして、本当にすみません……」
悪びれる風もなく、けれど心底申し訳なさそうに謝られてしまい、セシリアは毒気を抜かれたように言葉を詰まらせた。
そうなのだ。この娘は、悪気があって失敗しているわけではないのだ。
そこへ、ギルバートがどんぶりを置いて立ち上がった。
「待ってくれ、セシリア。コレットを責めないでやってくれ。私が無理を言って頼み込んだんだ。……君には分からないだろうが、私には息抜きの場所が必要だったんだよ。城の張り詰めた空気から逃げ出したかったんだ!」
「逃げ出したかった、ですって……!?」
セシリアの胸の奥で、カチリと何かが音を立てた。
逃げたかった?
誰のために、私は毎日睡眠時間を削って帳簿と睨めっこしていると思っているのか。
誰のために、感情を殺して「完璧な婚約者」を演じていると思っているのか。
「殿下……私だって、好きで口うるさく申し上げているわけではありません! 貴方が王族として恥をかかないよう、周囲に侮られないよう、私が泥をかぶって――」
ぎゅう、と胃が痛む。
朝から何も食べていなかった。胃の中は空っぽで、極度の緊張と過労で頭がクラクラする。
立ちくらみを起こして倒れそうになったセシリアの身体を、ふわりと香ばしい匂いが支えた。
「セシリア様、お腹すいてますよね?」
気がつくと、コレットが目の前にいた。
その手には、新しく作られたばかりの、湯気をもうもうと上げる大きな丼が握られていた。
「な、何を……私にそんな油の塊を――」
「お野菜、いっぱいくたくたに煮ましたから。セシリア様、いつも眉間にしわが寄ってて、すごく頑張ってて……見てるこっちが心配になっちゃうんです。文字が読めない私には、難しいお仕事のお手伝いはできないですけど……これなら、すぐ作れますから。一口だけでも食べてみてください」
コレットの濁りのない、透き通った茶色の瞳がセシリアを見つめていた。
そこには嫉妬も、打算も、見栄もなかった。
ただ「お腹を空かせた人がいるから、温かいものを食べさせたい」という、あまりにも原始的で無垢な善意だけがあった。
「……毒なんて、入っていませんでしょうね」
セシリアは震える手で、コレットから差し出された割り箸を受け取った。
ギルバートが息を呑んで見守る中、セシリアは意を決して、野菜と縮れ麺を口へと運んだ。
――その瞬間。
頭の中で、何かが音を立てて弾け飛んだ。
「……っ!?」
濃厚な豚骨と鶏ガラの旨味。ガツンと効いたニンニクのパンチ。シャキシャキとしたモヤシの歯ごたえと、少しジャンクな油のコクが、疲れ切った胃壁に猛烈な勢いで染み渡っていく。
宮廷料理のような洗練された美しさは微塵もない。
けれど、この暴力的なまでの塩気と旨味は、張り詰めていたセシリアの神経を、問答無用で弛緩させる破壊力を持っていた。
「……な、何ですの、これ……」
「ふくろラーメンの、味噌とんこつ味ですー」
「みそ……とんこつ……? なんという下品な……なんという、卑しい美味しさですの……!」
セシリアは涙目になりながら、二口目、三口目と麺を啜った。
上品にスプーンでスープをすすることなど忘れ、器に顔を近づけて、夢中で貪り食う。
「セ、セシリア……?」
目を丸くするギルバートを、セシリアは鋭い眼光で一瞥した。
「黙っていらして、殿下! ……コレット、あの茶色い揚げ物も寄越しなさい! あと、その『ラー油』という刺激物もです!」
「は、はいっ! すぐ温め直しますね!」
コレットが嬉しそうにパタパタと台所へ走っていく。
秋の柔らかな夕暮れの光が、粗末な小屋の窓から差し込んでいた。
卓を囲み、腹を空かせた王子と公爵令嬢が、男爵令嬢の手料理を競うようにして胃袋へ収めていく。その光景には、身分も、知性も、権謀術数も存在しなかった。
「……殿下」
麺をすっかり平らげ、額にうっすらと汗をかいたセシリアが、お茶をすすりながら低く呟いた。
「な、なんだ、セシリア。やはり怒っているのか……?」
「いいえ。……週に一度なら、私もここへ来ることを許可いたします」
「えっ!?」
「殿下だけにこのような美味を独占させるなど、不公平極まりありませんもの。それに……」
セシリアは、台所でどんぶりを洗っているコレットの背中を、複雑な眼差しで見つめた。
「あの娘のずさんな書類を、誰かが手取り足取り直してやらねば、男爵家はいずれ取り潰されますわ。……私が、文字の読み書きと書類の整理を教えて差し上げます。その代わり、講義の後は、この味噌とんこつをもう一杯作らせますけれど」
「あはは! セシリア、君って本当に……」
ギルバートがおかしそうに吹き出し、セシリアもまた、釣られたようにふっと口元を緩めた。
張り詰めていた心の鎧が、一杯のジャンクフードによって、綺麗に剥ぎ取られていた。
外へ出ると、冷たい秋風が火照った頬を撫でていった。
見上げれば、茜色に染まり始めた空を、無数のうろこ雲が静かに流れていく。
人間たちの小さな見栄や嫉妬、そして滑稽な和解の様子など、知らぬふりで悠々と見下ろしながら、秋の日は静かに暮れていくのであった。




