6話 第1章 結語(エピローグ)
青はいつもの執務室から窓を見る。
永遠に終わらないかと思っていた新帝の処理も、ようやくめどが立ち始めた。
陽光に照らされ、きらきらと水面に映る柳は青く繁り、美しい。
春はゆるやかに、遠くに過ぎ去ろうとしている。
軽く伸びをして、胸に溜めた息をゆっくりと吐き、そして吸い込む……そうすると遠くにあるあの柳や桜の若葉からしみ出してくる、清く気高い香りが届くような気がした。
「おかわりは如何でしょうか」
前を見ると、宦官がひとり恭しく青の前に立ち聞いてきた。
器を出すと、大きな茶壺(急須)を恭しく献じ、傾ける。
「ありがとう」
そう答えると、宦官は黙したまま頭を下げた。
帝が礼など。はじめの頃はひどく驚かれもしたが、今はもう誰も何も言わない。
茶を差し出した宦官こそ、先日、死を覚悟したあの宦官だ。
今ではごく普通におかわりを尋ねてくるようになった。
これは自分というものを少しは理解して――慣れてもらえたのかもしれない。
何が答えかは分からない。今でも畏れられる時がある。
だが、青は先に感じたような焦りを抱かなくなっていた。
茶のおかわりをうまそうに飲んでいると、遠くからよく通る声が聞こえた。
「邯井王、都督元帥、蘇武殿、拝謁!」
青は居住まいを糺す。
普通、誰かがやって来たとしても、皇帝である青が許可を与えてから拝謁となるのがならわしだが、ひとりだけは青がいかなる時でも拝謁を許した人がいる。
それこそが浪の国の軍事を司る都督元帥の地位であり、そして西の辺境領を支配する王の号をもつ青の父――蘇武である。
「父上」
蘇武は甲冑に袍を着た略装であらわれた。五十を過ぎて髪にも髭にも白いものが勝っているが、眼光は鋭く、その体躯といい容貌といい、長らく風雨に磨かれた樫の巨木のようである。
帝王の風格というものがあるのなら、まさに父のためにあると思っているし、まわりもそう思っているはずだ。西方より挙兵し、帝位を奪還したあとはだれもが彼こそ皇帝へと登極するものと思われたが、それでは簒奪になるとして息子である青を新帝に推し、みずからはいち武人としてつねに率先して戦の場に身を投じるようにしている。
「陛下、お久しうござる」
かれは父上と呼ばれても何も答えず、叩頭拝跪してそう語りかけた。
「……そうだった。元帥、久しい」
あわてて青が訂正すると、蘇武は顔を上げて言上を続ける。
「稽国に出兵しました兵二万余、すべて帰還しました。新たな稽王には慮士文どのが即位されます。王から陛下に感謝するとの言葉を戴きました」
青が浪の帝として即位するすこし前、浪国の南にある稽の国でも乱が起こった。
稽国は浪にまつろわぬ国(冊封を受けぬ独立した国)であり、長らく国境付近でいざこざを起こすこともしばしばあったが、王の病没から跡目争いが起こった。
浪からすれば対岸の火事、自分たちの内政に集中したい時期ではあったが、野心家の王に即位されても困る。そこで新たな王に力添えをするという名目で軍を派遣したのだ。
「大儀であった。今後とも浪は稽国の安寧を願うと使節を送るように」
派兵には意図がある。浪の国もまた代替わりしたばかり、内情は乱れているのではないかという侮りを隣国や異境のものどもにされぬよう、過剰ともおもえるほどの大軍を統制して攻め込み、而して国は奪わず相手に借りをきっちり作り、これぞ新たな浪の帝の器なりと内外へ知らしめる――というものだが、どうやら成功したようだ。
ひととおりの儀礼的なやりとりを済ますと、青は蘇武をともない、私室に場を移した。
宦官に人払いをするよう申しつける。ここからは父と子の会話である。
「南は暑うございましたか」
「いや、さほどには。しかし住んでいる者は西方や都と違って、膚を出す格好をしていましたな。また食べるものも異なり、辛い味をよしとするものが多くありました」
「詳しく聞きたいです」
「では宴の時にでも……そうだ。南人でまれな働きをしたものがおりました。剣技の才よく軍にも長けておりますゆえ、取り立てたく思います。陛下の直衛としてつかうがよろしいでしょう」
青が父を思って言葉をかけても、蘇武は口調をあまり崩さない。
しかし青は以前ほどの寂しさはなかった。
よく聞き、見れば、事務的な言葉の中には自分を思ってくれるものが入っていることがわかる。
「……そうだ、父上の恩賞はどうなさいますか?」
「不要にござる」
父は青からの提案ににべもなく首を振った。
「都督は恩典を求めずと言います。軍を司る最高の地位にある者が、思いのままに貪れば――」
説教が始まりそうになるのを青は制し、あわてて口を挟む。
「ではこうしましょう。稽国に南方の良馬を求めます。雄牝良きものを一頭ほしいと」
「む……?」
馬と聞いて、父が口ごもる。
「稽国もわれらに援けてもらって何も求められぬでは気味が悪いと却って警戒するでしょう」
どうやら何かに訴えるものがあったらしい。幾ばくか逡巡ののち、蘇武は、それであればと呟き頷いた。
青もまた頷いてそれに応じると、蘇武は「ふむ……」と、もの言いたげに、青の顔をじっとのぞき込む。
どうかしましたかと尋ねると、かれは苦笑交じりに、嬉しそうに……小さな声で呟いた。
「いや、三日会わざれば刮目して見よ、と言うたものだと思ったのだよ。まったく、男子はすぐに成長するな」
蘇武はまるで眩しいものでも見るかのように目を細める。
青はそうした父の態度に少し気恥ずかしいものをおぼえて「いや、まだ小青(ちびの青)のままです」と、まだ自分が小さかったころの渾名を口にした。
「……翼宮のことですが、いいつけを破ってしまいました」
翼宮の男女官たちのこと、後宮に男を入れた春襄を不問としたこと、男のいる後宮に自分が住むと宣言したこと――それらを蘇武が戻る前に青ひとりですべてを処理してしまったことについて、説教を受けるかと思ったが、蘇武は「そうか」と頷くだけだった。
「その……あの男たちのこと、知っておられたのですか」
青の問いに蘇武は頷く。
「後宮と宦官は旧弊の象徴だ。いっそ全て入れ替えたいと思っていたが、それはそれで障るものも出るかと思い倦ねていた。そなたが使うと言うのなら、それでもよいかと思う」
さらりと出てくる言葉に、青は表情を固くする。
入れ替えというのはつまり、死を与えるということだろう。それくらいは青も分かる。
蘇武はそんな青のことをわざと無視するように、窓から見える外の景色を見つめながら語り続ける。
「……いまの浪は張り子の虎だ。帝国と言っても官僚は人が足らず、民は重税にあえぎ、国庫は火の車。我らに従う諸侯も離反の口実を捜しているし、稽国はじめ隣国も動きが怪しい。舵取りの難しい時機だ、硬軟はあってもよい」
蘇武はそう言うと、すこし瞑目して「しかし、仙人か」と笑った。
「驚かないのですね」
「景帝陛下と儂の父――おまえの祖父は迷信深くてな。あの頃の城には道士だのまじない師だの、得体の知れん道化連中が数多くいたものだ。まあ大半は偽物であったが、道化のようなものだろう」
しかし、仙人とは大きく出たなと蘇武はふたたび笑う。
現実主義の蘇武にとって、珀のような胡散臭い者はまったく眼中にない、というところなのだろう。
「そのうち会えると思いますよ」
青はため息をついて、それからくつくつと笑って応えた。
そう、あいつはそういうやつだ。
いきなり現れ、嫌えば好きになり、怒れば笑い、笑えば足を掬われる。
道化と言えばそうかも知れぬ。だが、自分はあの道化に少し肩の力を抜くことを教えられた。
あるいは彼が父に見えれば、父をもまた手玉に取るのだろうか。まさかそんな事はあるまい。きっと冗談の通じぬ父に、あの美男子が父にへこへこと頭を下げる姿を想像し、青はふたたび笑うのだった。
<第一章 了>
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