4話 皇帝、大いに笑う
振り向けば太鑑の春襄が肥った身体を揺らし、他の宦官たちに身体を押されて、ひいひいと喘ぎながら小走りでこちらに駆けてくる。
「そやつに出ていくよう言うてくだされ!」
彼がふたこと目に叫んだのがそれだった。
「こいつが、この男こそが、邪気でございます! 怨気でございます! この男はこの男こそは頴の――」
目は血走り、唇はわななき喘ぎながらも言葉を垂れ流す春襄を見る。
その姿には先刻青に見せていた余裕など見る影もない。
青はふたたび振り返り、その目に鎔珂をとらえようとしたが、彼は忽然と消え去り、あるのは花片一枚のみである。
「消えた……?」
「翼宮の害虫、諸悪の根源でございます!」
春襄が怒鳴る。ろくに息をしないせいで顔が真っ赤だ。
これでは怒りの対象が目の前から消えたことすら気づいていないのではないだろうか。
「……えらく怒るのだな」
「あたりまえでございます! あの男には何度も煮え湯を飲まされ、愚弄され、翻弄され……! 芙蓉が呼んだ仙人であるという触れ込みで、翼宮を我が物顔! 遊び呆け! 芙蓉が翼宮を男だらけにしたことにも我慢ならんが! あいつは! 頴が死んだ後もどうしても出ていかん! それが一番腹立たしい!」
芙蓉というのは頴が女帝を僭称するより前の、伯父である景帝の妃であったころの名前だ。
いや、だがそれよりも気になるのは――
「仙人? あれは仙人なのか」
仙人というのは、おとぎ話に出てくる存在だ。
巷間を嫌い、山林に暮らし、霞や気を食べ、雲に乗ったり怪しげな術を使う――不老不死の存在。
そんなやつが実際にこの皇帝の住まう宮に居るなんて。
にわかには信じがたいが、あの美貌、あの立ち居振る舞いを見ると、なるほどと変に頷いてしまいそうになる。
「偽物でございます! 真っ赤な!」
春襄は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「あれに私が、どれほど虚仮にされていたか! 分からんでしょう! 陛下――あっ」
陛下、という言葉を使って、ようやく自分が誰を相手に怒鳴っていたかを思い出したらしい。
彼ははっとして慌てて恐懼し、笑顔を取り繕う。
青と見えるときにはいつも見せかけの笑みを顔にへばりつかせ、しかしその目の奥には、しょせんは田舎貴族の幼々《やおやお》――とでもいいたげな視線で見ていた彼が、我を失い取り乱し、皇帝への敬語すら忘れて怒鳴っている。
そんな事態に、青は嫌悪や幻滅より、むしろこんな一面もあったのかと見直すような気分になってしまった。
いや、見直すのとはまた違う。軽蔑でもなく恐怖でもない、これはなんといえばいいのか――
「まあ、たしかに。腹立たしいことこの上ないやつだった」
同情。ふと浮かんだ言葉に納得がいく。なるほどこれは同情だ。
「左様でございましょう!」
がばりと顔を上げた春襄はきんきんと甲高い声で叫び続けた。
「仙籍を得た証拠だと、泰山府君の寿籍とかいう巻物を見せて! それも真っ白のただの巻紙だったのですが! 私が明日死ぬ予定だと嘘を言って! 餓鬼の悪戯のような事を何度も! 何度も!」
泰山府君の寿籍というのは人の命数、寿命が記された命簿のことで、仙籍、仙人の籍はこの寿籍になきことをもってなす――つまり仙人は不老不死である――というのがこの国では長らく信じられているのだが、真っ白の巻紙でもってどうやってそこまでだませたのか。純粋に興味すらわいてしまう。
「私は! あいつに狗の真似をさせられたのですぞ!」
「狗の真似……?」
「それも! 三度も!」
三度。
寿籍の話を一度として、のこり二度は何だったのか。
三度も犬のまねをするというのは、もうそれは好き好んでやってるようなものではないのか。
いやそれより――お前は狗の真似ではなく――
思わず口に出しそうになったのをとどめるが、それより青の頭の中にふと疑問が思い立ってしまった。
黙るつもりだったのに、だが思い浮かべると面白くなって、面白くなると言いたくなって、口に出さずには居られない。
「猪の真似ではなかったのか」
とうとう青は自分で言って、思わず吹き出してしまった。
「ぷっくっ……くくく……あっはっはっは!」
たまらず呵々と口を開き、けらけらと笑いだすと、もう止まらない。息もするのも苦しい。
青は腹を抱えて、その場に膝をつく。
「へっ! 陛下っ……!」
甲高い声で、春襄が非難めいた悲鳴を上げる。
悪いと思って口を一文字に結んでこらえたのだが、どうしても出てしまった。
目の前の肥え太った太鑑は怒るやら哀願するやら、紅くなるやら青くなるやらで百面相をしてくる。
それがまた可笑しくて、笑いがまた止まらない。腹の筋肉が引き攣りそうだ。
息も絶え絶えになって笑い、やがてどうにか落ち着いて、青はそのまま橋に腰掛け、晩春の蒼い空を眺めてみた。
こんな大笑いしたのはいつ振りだろうか。子供の頃、それこそ、自分がまだ何者かも分かってなかった頃以来な気がする。
「ああ、笑い疲れた。誰か、水を呉れるか」
青はそう言って頼んでみたが、気づけば春襄の姿はそこにはなく(まあ、虚仮にされっぱなしだったのだから仕方ない)、ほかの宦官もかれに付き従ったのか、あとには青ひとりそこに居るのみである。
そんなものか。
皇帝である自分より、太鑑の方にこそ従いていく価値があると彼らは思っている。
その状況に、青は不思議と腹立たしいとも、口惜しいとも感じなくなっていた。
むしろ納得してしまった。自分は前帝から力で玉座を奪った一門の、ぽっと出の若僧だ。
ここからが出発点なのだ。
やっていくしかない。焦らずいこう。
立ち上がってあたりを見る。人の気配はしない。
城に戻ってから水を求めるか――そう思っていると、衣擦れと足音が聞こえる。
ほどなく一人の女官が、すっと水の入った湯飲みを献上してきた。
有難う――そう言おうとしたとき、青は水を呉れた女官の姿を見て驚いた。
「そなたも男か」
その顔は美人ではあるけれど、よく目を凝らせばやや角張った顎や身体は男性のそれだ。
男の女官。そうとしか言い様がない人は――ゆっくり頷き、それから慌てて頭を地にこすり平伏した。
「……なんとまあ」
青はおもわず嘆息してしまう。退廃の園と春襄が口を極めて罵っていたが、どうやら嘘ではなかったらしい。
珀鎔珂と名乗ったあの妙な男もまた女ともつかぬような服を着ていたが、彼女――いや彼の服装は完全に女性のそれだ。それもふざけてとか、そういうのではない。宦官の履く袴ではなく、女官用の裙(スカート)を履いていても少しも違和感がないのは、長らくその姿での振る舞いを仕付けられたからだろう。
誰がこんな、と思った瞬間、青はすべてを察した。
頴。先の女帝が宦官に命じて、男を女官にさせたのだ。
何故――と思ったが、そこに昏い愉しみを見いだせないほど青は愚かではない。
女官は青の視線に耐えきれず、平伏すると――「畏れながら、あなた様が新しい天子様でございますでしょうか」と尋ねた。
青がそうだと答えると、女官は一瞬顔を上げ、そしてまた伏して――お願いがございますと小さな声でつぶやいた。
「どうか何卒、珀様をお赦し下さい。翼宮を明け渡さぬのは、すべて我らのためになさっておることにございます。何卒、何卒、あの方は、あの方の命だけはご寛恕を……」
この女官もまた、自分を畏れるのか。
青にその気が無くとも、まったく理解されず、恐れだけが先に立っているのはやっぱり腹立たしい。
が、頭の中に珀というあの――腹立たしいやつの笑顔が浮かぶ。
「そのようなことはせぬ」
前のように怒らぬよう、つとめて優しく、ゆっくり言い含めるように言葉をかける。
「頴――前の帝は廃した。だから命の危険もないし、ここにとどまる必要もない。どこか行く当てはあるか。家族は居るか」
女官は面を上げ、首を横に振った。
「……八つの頃に太鑑様に買われて入内しまして、以来ずっと天子様にお仕えしました。多くの女官は男のふるまいを思い出せませぬ。家族はどうしているのか知りませぬが……引き取りたいと思うてくれる人はおりませぬ」
「……そうか」
青は頷き、それから、あれこれと水を向けて会話をはかってみる。目の前にあるのは女の格好をした男という奇妙な存在だが、問いたいことを問えばちゃんと答えが返ってくるのだから、この翼宮においてはいちばんましな存在に思えてしまう。
「そうだ、寺に行くことはできるのではないか」
青の問いに、かれは悲しげに首を横に振った。ふつう、皇帝の妃嬪――女であるなら、帝の代替わりのときには尼寺に行くものだが、彼らの場合は尼寺に行くわけにもいかず、さりとて坊主のいる寺に送るにも、当の坊主たちが《《男の尼僧》》など聞いたことがないとそれを拒んだらしい。
「市井に戻るにもすでに外界を忘れたものばかりで、恐ろしく……珀様は私たちのような男女官を哀れみ、いますぐ出て行くか死ねと迫る太鑑様に逆らい、あれやこれやと計らってくださいましたが……新たな天子様がこちらに来られたと聞き、とうとう覚悟する時がきたのかと……」
かれの語る言葉に、ふと気がついた。
柱の裏、建物の奥、障子のむこう――気配を消し、青を見ているものがいる。
多くはない。だが、見られている。おそらく、目の前のかれと同じものたちだろう。
……春襄がここに青を入れたがらなかった理由がようやくわかってきた。
太鑑は後宮の管理人だ。そしていまの太鑑、春襄は頴の頃も太鑑だった。
たわむれや愉しみのため男に女の格好をさせていたのは頴だったが、太鑑もそれに従っていた。いや、あいつのことだから、内心どうあれ喜んでそれに加担すらしていただろう。彼からしてみれば、なんとしてでも追い出したかったに違いない。
ところがあの自称仙人――珀鎔珂に邪魔されて、犬の真似までしてもなおそれが遂げられなかった、ということか。
「……わかった」
青はそう答えた。そう答えるだけだったが、やけに晴れ晴れとした気持ちだった。




