3話 皇帝、珀鎔珂と出会う
翼宮に入ってはじめに感じたのは、あたりにただよう不思議な香りだった。
宮域に建てられた大小の房には高価な香木が使われ、漆喰には香料が練り込まれているし、庭園、楼閣が大小いくつもあり、もっとも大きな湖水のあちこちに水上の楼を建て、そこに優雅な湾曲を描く橋をわたし――そこかしこに花を散らしている。
いや、なんと豪華なことだろう。藤や卯木、芍薬と、晩春の花々があちこちに咲き誇り、香りを振りまいているのだ。
「……こんな贅沢な宮殿だとは」
あらためて見てみると、その枝振りや花の見事なこと――そして同じ時期に咲くよう手入れの行き届いていることにすら青は圧倒され、次第に腹立たしくなってきた。
皇帝になってはや三月。皇帝とはつまり、この世界の、そしてなによりこの宮殿のあるじである。この光景は自分が手に入れたもののはずなのに、入ることを許されていなかったのだ。
足に力を込めて、胡の音する方へ、宮の奥へと歩いて行く。楼に入り、出てさらに廊下を突き進む。女官か宦官が出てきて引き留められるかと思ったが、あたりはしんと静まりかえっている。
――だが、視線は感じる。
居ることは分かっているが、誰も彼も自分を畏れているのだろう。それもまた腹が立つ。
胡の音が大きくなる。どうやら目的地は近いらしい。
音がひときわ清く聞こえた。
見れば人がひとり、房と房をわたす浮橋の欄干に腰掛け、胡を弾き鳴らしている。
「南天に群星は流れ
玉杯の金酒を照らす
飲めば是れ則ち君に甘露を齎す也……」
……歌まで聞こえてきた。
真夜中に星空を見上げて、杯に映った星を酒とともに飲み干そう、という意味だ。
「潮風酒献に薫香漂う
飲めば是れ当に吟謡に価する也……」
どうやらあちこちの名勝を肴にして酒を飲んでやろうという歌らしい。
詩はへただが、声がいい。
平仄のある声、という褒め言葉があるが、上がり下がりに独特のやわらかさがある。
それになにより、胡の音だ。
それは、聴き手として未熟な青であっても不思議な演奏だった。
あちらに行ったりこちらに行ったり、跳んだりはねたり――不思議な抑揚がつくときがあり、と思えばこれまでに聴いたことがないほど美しい音色が空にわたっていく。
好き勝手放題の中にもしっかりと律があるそれに、青はすっかり聞き惚れてしまった。
が――青はもっと肝心なこと――その声が後宮には異質であることに気がつき、声を上げた。
「……男!?」
のびのびと太く広く、張り渡るように優雅な声は、太鑑の部下たち、去勢された宦官の声ではない。男性のものだ。
しかし……おかしい。
青は改めて胡を抱き謡を歌うその者を見る。
おかしいのは、その人の服装だ。
上は白絹の衫にあわい桃の色をした裙(スカート)をはいたそれは、後宮にあっては皇帝から寵愛を受けるような夫人の装いである。
「男……?」
もう一度呟いてしまう。
いや、なんと……女に見まがうほどの、おどろくような美男だった。
切れ長の瞳も通った鼻梁も、薄めの唇も細い顎筋も、すべての造作が繊細で、 青黒く研がれた長い髪は片側に金の簪を施し編み込んでいるけれど、もう片方の側はまとめもせずに無造作に放り出していて、それがやけに艶やかで、謹直が売りの禁城の臣や役人たちとはまったく異なる雰囲気がする。
「おや、これは……」
青の声に気づいたのだろう。深い空色の瞳が青をとらえる。
金を含んだ瑠璃のような瞳――
「お初にお目にかかりまする。陛下」
かれは青に微笑み、胡を置き、それから両腕を差し出し、両膝をついて頭を下げた。
「お前は……誰だ?」
青は思わず拝跪を解くのも忘れて口走った。(拝跪するあいだ、皇帝が許可をしなければ口を開くことは許されない)
それに、お前は誰だとは。
優美で堂に入った拝跪に対して、なんと子供っぽく間抜けな質問だろう。
内心、自己嫌悪に陥りそうな青だったが、目の前の男は何も言わず、ただにこやかに――蕩けるような笑顔で返した。
「姓は珀、名は鎔珂と申します」
「ここで何をしている。おまえは宦官ではないのか」
「ふたつの問いを一度になさる?」
彼は顔を上げ、首を傾げ、それからまた笑った。
無邪気な童子のような笑顔だけど、その言葉には青を非難するような含みを感じる。
「それを一つで答えるのであれば『遊んでおりました』が正しい答えになりますな」
「……どういう意味だ? 遊ぶというのは?」
「遊ぶことが仕事の者であります」
「朕の城に遊ぶ者がいるとしたら、それは怠け者という意味だ!」
珀という男の、余裕のある態度にだんだん腹立たしくなってきた青はそう怒鳴って睨み付けた。
だが――珀は畏れもせずににこりと微笑んだまま礼を解き、ひらりと身をかわすと、欄干に飛び乗り――まるで羽毛が舞うくらい駆る意味のこなしだった!――そのまま座して胡を懐に抱き、ふたたび弓をあてて弾き始める。
「答えろ! おれはおまえに聞いている!」
こいつはいったい何者なのだ。
おれは皇帝のはずだ。天子の言葉と言えば天の声、天からの命令を無視して、平然と胡を鳴らし始めるとか、頭がおかしいのではないか。
「先の陛下……いや廃帝でしたな。とはいえ彼女からこの翼宮にて遊ぶことがお前の仕事であると命ぜられましたので。いまだにお暇を頂けず、働けと言われた以上は仕事をしませぬと」
「胡を弾くことが仕事などありえない――」
いや、ある。言いかけて思い出した。
「そうか、おまえ楽士か」
なるほど楽士なら納得がいく……と思ったら、珀は笑いを堪えるように口元を袖で覆っている。
「違うのか。楽士から浄者になったのではないか。ほかの宦官のように女のような声にならんのはなぜだ」
また二つの質問を同時にしていることに気付いて、青は舌打ちしてしまう。
「そんなに臣の性別が気になりますか?」
「あたりまえだ」
浪の都の城は、ふたつにわかれている。
皇帝と家臣達の仕事の場である外廷と、皇帝以外の男が立ち入りを許されない内廷――後宮。
後宮にあっては、男はみなその陽物を除き、浄身とならねばならない。
そこに男がいるなど前代未聞、あってはならないことだ。
そんなこと、青どころか、この国にいる者なら誰でも知っている。
「まだるっこしいのは嫌いだ、全部白状しろ!」
……そう怒鳴りたくなるのを青は必死になって堪えた。
そんなもの、迷語の答えを無理矢理聞き出すようなものだ。
さっきから目の前の女みたいな男に、自分が子供みたいに思われているのがたまらなく腹立たしいのに、この上さらに子供っぽいことなんかできるはずがない。これは皇帝である青の沽券に関わるのだ。
そう自分に言い聞かせ、必死に怒りをこらえる青を見て、鎔珂は袖で口を抑えたまま、くつくつと笑声を漏らし――そういう姿が嫌ってくらい堂に入ってて、美しいのが余計腹が立つ!――やがて何か思いついたのか、美しい顔に人の悪い喜色を浮かべて答えた。
「では、陛下お手ずから確かめられては?」
「……?」
何を言っているのか分からない。珀は胡の弓をもったまま、自分の下半身を指さした。
「この裙(スカート)をめくれば、お望みのものが見えまするかもと」
「なっ?」
とんでもない発言に、思わず顔がかっと熱くなった。
それを見て珀がふふっと声を漏らす。それがさらに口惜しかった。
「お、お前、おれを馬鹿にしているのか?」
「いいえ滅相もない。では賭事にいたしましょうか。私が男であったら――」
「賭け事なんか嫌いだ。そういうのはふしだらだ」
「……左様ですかな? 賭事はまた占いと同じく、この宮の大事な儀にございます」
「おれは遊んでる暇などない!」
「おや、あなたのお父上も無類の競馬好きであられましょうに」
言われて思い出した。父の競馬好きは浪の国でも有名だ。
何事につけ豪奢で華美を好んだ皇帝とは違って、帝弟だった父は非常に謹直な人間だったけれど、競馬だけはべつだった。
西方に良馬ありと聞けばみずから買いに出向き、砂漠の国の名馬には家臣たちが顔をしかめるほどの大金を出したこともあった。
伯楽に任せず自分で馬を育てることすら始め、お気に入りの馬が勝った負けたで度外れて大声で叫ぶこともよくあった。
いつもは無口で、武張った父のそういう一面に、家臣たちもまた困ったことだと呆れもしたり、口さがない連中は陰口すらも叩いていた。
「だがあれは策略だったんだ! 父上が賭けごとに夢中になっていたのは、謀反をおそれた頴をだますためで……」
賭け事に興じるばかりで謀反の気なしと頴から送られた間者を欺きつつ、その実、国中を渡り歩く馬商人たちに手紙を託し、諸侯と結託していたのだ。
そして頴と一戦まじえるために挙兵した時は自らの馬をすべて売り、得た資金を戦費に投じ、賭け事にだらしないのは詐略だったと多くの人が知るようになった。
「なるほど。遊びは策略でありますか。遊びであるものに重要な意味を押し入れることもあり、あるいは侮る人の本音を覗くことでもあり……おや、どうも遊びは有益であるお話になってまいりましたな」
いつの間にかうまく言いくるめられそうになっている気がした青は、ぐっと唇を噛み、それからやっぱり我慢ができなくなって――「うるさい!」と声を張り上げた。
「どいつもこいつも……おれの問いにちゃんと答えない! おれが聞いているならちゃんと答えろ! いちいち頭を下げて、命乞いをしたり! そんなこともわからんのかと言いたげな顔をしたり! おれは答えが知りたいだけなんだ!」
やっぱり子供みたいな駄々をこねてしまっている。
それでも、青は自分の言葉にだんだん熱が帯びていくのを感じていた。
宮廷というのは真実をさらけ出せないところだ。皇帝がため息をついただけで、誰かの首が飛ぶ。
だから誰しも――皇帝ですら――本心や本音、やりたいことや知りたいことを遊びの中に隠し、野放図に笑ったり快哉を叫ぶことを言葉の裏に隠す。明確に理由を述べて怒ったり謝ったりはせず、答えを相手にもとめてはぐらかす。
それはわかってる。
それでも、青は腹が立っているのだ。そんなのは青が居たい場所じゃない。
「……おれはお茶のお替わりが欲しいだけだし、この後宮の掃除が遅れてる理由を説明して欲しいだけだ! 怒ったら怒ったと言いたい。別に怒ったからなんだというのだ。土下座が欲しいわけじゃないし、まして命なんか欲しくもない」
でも、さっきまで合いの手を入れるように口答えしてきた珀は何も言わない。
それは彼の優しさなのだろうか。青はじっと考え――それから口をまた開いた。
「知りたいのはお前の性別なんかじゃない。おまえが何者で、なぜここにいるかってだけの話だ。それすらもお前は……お前たちは、俺には答えられないのか?」
「左様ですな」
珀はすぱりとそう言い切り、そしてそれから、庭にある木のひとつずつ、花のひとつずつを指さした。
「……この庭にはいくつもの花木がございますが、花になるまでに幾年もかかるものがございます。種をまき芽を育て、水をやり肥料をやり……駄目になった木も一つ二つではございませぬ。ただ花を求めるためにそれが必要なのですが、さて、それを無駄と捉えますかは、求める者次第かと」
「……時間をかけろというのか」
「嵐の後に浮かんだ舟を――」珀はしゃらんと琴を鳴らし、ひとさし歌うように答えた。「闇雲に漕がれますかな?」
「……」
青はじっと黙って――それから、彼を見て、頷いた。
「漕ぐことはやめない。また嵐がくるから」
悔しいとか怒鳴りたい気持ちはいつの間にか消え失せている。
これからどうすれば。それだけを考える――目の前の男すらもう忘れつつあった。
次の瞬間。
青の頬に、手の感触がつたわる。
ほそく、繊細な指。ほんのりと暖かく、ほんのりと冷たい。
「なっ――何をする!?」
触れられた青がようやく気がつき、思わずのけぞると、いつのまにか青のすぐ隣にいた珀がくつくつと笑う。
「……陛下はよき帝になられますな」
そして、そう言った。
その声は媚びるわけでも、冗談を言ってるようでもなく、ただ優しい。
かれの青黒い髪が風に吹かれる。風に混じったのか、白い花びらが舞い上がる。
息をのむほど美しい光景。
青は気圧されぬよう、凝とかれを見つめる。おれより背が高いのは仕方ないが、こいつを見上げるのはなんとなく癪だ。
「お世辞はやめろ」
「いいえ、世辞ではなく。本心でございますよ」
嫌がる青を尻目に、鎔珂は楽しそうにそう語りかける。
「悩む姿がたいへん愛らしい」
「それは……よい皇帝の素質なのか?」
「おっとこれは、思わず本音が」
「おまえ――」
「陛下!」
その時、後ろから声が上がった。




