第13話 第2章 エピローグ
珀と朱考が間者を捕らえたころ、青は何をしていたかと言うと。
不幸なことに夏風邪をひいてしまい、寝所の布団でぼんやりと天井を見つめていた。
いや、このところ暑さで薄着のままでいたら、ちょっと喉が痛くなっただけだ。それなのに、気づかれた珀に有無を言わさず布団に放り込まれ――深刻な顔をした医師たちが大勢出張って看病にあたり、それにあわせて寝室に宦官たちがひっきりなしに出入りされ、面倒なことこのうえなっかった。
大したことは無い、眠るにも眠れないと誰も彼もを部屋から追い出し、ようやく一人になれたのだ。
「……ちぇっ」
今夜は大捕物が見られると思って愉しみにしていたのに、まったく損をした気分だ。
珀はそしらぬ顔を決め込んでいたが、朱涼の――男女官の格好をした朱考は顔に出る。なにやら動いているのは知っていたから、今日あたり何かあるに違いないと思っていただけに、残念やら、口惜しいやら……いっそいまから、部屋を護る宦官たちの目を盗み、二人が何処に行ったか捜してやろうか。
言うほど具合が悪いわけでもないんだし、ちょっと行って戻ってくれば――
「子供のような天子様は、どちらにおわしますかな」
身体を起こして抜け出そうとしていたのを見透かされたように、そう声がした。
慌てて布団の中に入り直すと、やれやれという声が漏れ、布団の中に細く白い手が伸び、青の額に触れた。
軟らかくて、ひんやりと冷たい手。
まるで女性のような繊細な指で、額を撫でれられていると、不思議と落ち着く。
「……すこし熱が出てきましたね。大人しく寝ておいてくださいと言いましたのに」
「で、どうだった」
青は布団を剥ぎ、身体を起こし、手の主――珀に事の顛末を尋ねると、珀は「やれやれ……」と頭を振ってため息をついた。
「ええ、朱考のおかげで首尾良く捕らえました」
「そうか」青は頷く。「だれの手引きまでかは分からないか」
「そうですね。おそらく呂包どのの手引きと白状するでしょうが、違いますね」
「……困ったことだな」
この状況で呂包は罰せない。
彼はきっと無実を訴えるだろう。そうすれば宮内に動揺が広がる。
黒幕が誰なのか分からない以上、それが狙いなのかもしれない。
あの日、珀から「お願い」されたとき、ここまでは分かっていた。
そして、間諜は捕らえるのみで。放置するしかないと珀は言った。
今は待つほか無い、と。
何かいろいろと裏はある気がするが――それが何かは分からない。
宮中の陰謀、その布石のための間者の存在。
自分の命を――皇帝の座を狙う奴がいる、という実感。
誰が黒幕かは分からない。それがまた疑心暗鬼を招く。
もちろん、自分の命の貴顕など、前から覚悟のうちだと思っていた。
けれど、実際にこう対峙してみると……うっすらとした、形容も名状もしがたい不安が、ぬかるみのように青の意識の足かせになる。
これが――この気持ちの悪さが、権力の頂点にいることなのか。うっすらと分かってきた。
これが、ずっと続く。不快感だけでない、なんという絶望だろう。
なるほど、皇帝とはこういう気持ちを常に持たねばならぬのか。あるいはこれが皇帝の「憂い」というものなのかもしれない……これを撥ね除けるのは大変だ。
「起きるのなら厚着を。身体を冷やすのが一番よくないですぞ」
珀がそっと言葉をかけて、青は我に戻った。
彼は自分の来ている上衣を青の背中に掛ける。
「暑いぞ。夏に厚着は。蒸されてしまう」
「やれやれ。本当に子供に戻られておりますよ」
普段と立場がまるきり替わってしまっているのは青も分かっているけど、今日はこうした他愛もない口答えをしたい気分なのだ。
「お飲みなさい」
すると、珀が湯飲みを差し出してきた。
薬は医者に言われたのをもう飲んだ。
そう言ったが、まあ飲みなさいと勧めてくる。
「苦いのはもう要らぬ」
「では甘くしてあげましょう」
そう言うと、珀は湯飲みを持つ青の手の上に、自分の両の手を覆い被せ、何事かを呟くと、「はい、これで甘くなりました」と答えた。
子供だましだと思いながら口をつける……確かに甘い。
いや、あらかじめ甘いものを渡しただけか。
風邪のせいでこんな手に欺されるとは、ばかばかしい、と言おうとした矢先――
「酸っぱい!」
思わず青は悲鳴を上げてしまった。口の中に唾液があふれていく。
珀がくつくつと笑いだす。
「梅湯ですからね。酸っぱいのは当たり前です」
「……嫌いだと言っただろう、梅湯は」
「梅は薬ですよ。ことに風邪には」
恐る恐る二口目を飲み込むと、最初から酸っぱいのが分かっているのと、甘くできてるのでなんとか飲めなくはない。それにほのかに梅のほかにも――酒精や、すっとする香りがする。
「仙薬か」
「そういうことにしておきましょう」
御利益があるから飲めということか。
青は観念して残りのぶんを啜った。
今日は夕餉をあまり取ってなかったせいだろうか。酸味はあるけれど、甘く暖かい梅湯が腹に落ちていくたび、身体のなにかがほどけていくような気がする。
……あるいは、ほんとうに仙薬なのかもしれない。
「……さて、ではお薬を飲めたご褒美を」
珀はそう言って揶揄いながら懐から封書を取り出した。
「朱涼からの信です」
「……そうか」
青はそう答えたが、両の手は湯飲みを握ったまま、じっとかれの手を見つめる。
「お顔が冴えませんね」
彼からの便りを待っていた。
辛いことがあったのなら励ますと、分かち合うと言ったのだから。
今だって、辛いことがあったなら、何とかしてやろうと思っている。
けれど。もし、彼から、自分を責めることが書かれていたらどうしようか。それも今この瞬間、誰も信じられぬと思えてしまったこの瞬間に……そう思ってしまうと、どうしても手が伸びない。
「大丈夫ですよ」
青のかわりに、珀が青から湯飲みを受け取り、かわりに信を手渡す。
「大丈夫です。開けてご覧なさい」
中身を見ていないのに、えらく自信たっぷりにそう言うものだから、青も意を決して封を切り、灯りに近づける。
……それはとても簡単な文だった。母は老い、弱ってはいるが、無事であること、ふたりを安全な場所へ匿ってもらったことへの謝辞が書き付けられていたが……文の後半からは少し調子が変わっていた。
『……家を移った後、しばらくして、母と大げんかをしました。最初の頃は自分を売ったことを謝り、悔い、土下座もせんばかりだった母でしたが、とうとう大げんかをしました……生まなければよかったとも言われました』
何日かに分けて書いたらしいその書は、揺れ動く彼の思いが綴られている。
言葉に胸が絞められる気がしたけれど、「でも――」とすぐ文は続く。
『私もまた、狼狽え、悲しみ、怒り、逆らいました。……出て行こうと思いましたが、まだここに居ます』
『なぜなのかは分かりません。心の中がからっぽでない事に気づいたからでしょうか。陛下に私のこうした胸の内を聴くとおっしゃって頂いた心強さからなのでしょうか。あるいは、目の前のこの母が、私の覚えていたころの母と違う、老い細り、先行きのない――まるで自分の未来を見ているからでしょうか……わかりません。私にはうまく言葉に出来ません。でも、このままでは帰れない気がします。そうでなければ陛下にもまた、つらいとか、虚しいとか、そういうお話すらできぬ気がしています。だからもう少し、ここに居るつもりでおります。母は今日、私のつくった粥を食べました。考によろしくお伝え下さい。珀様にも。陛下もご健勝でありますように』
宮廷にあっても信など書いたことはなかったのだろう。
つたない筆跡で取り止めの無いことばかりの文章を、青は表情を変えず最後まで読むと、もういちど最初から読み返した。
「……」
そうして読み終わると、青は黙って、その信を珀にも手渡す。
珀もまたその文書を一読する。
「陛下」
「うん」
「これはね、良かったという話ですよ」
「……そうなのだろうか。それでよいのだろうか」
「めでたしめでたし、ではないでしょうけれど。でも、万事無事になっても、黒蓮――いや、いまは朱涼ですね――が、翼宮に戻るのではなく、残ると決めた。これが今回の、一番の良かったお話です」
「……おれから信を書いてはいけないだろうか」
「お言葉は臣から」
「そうだな」
そう答えるだろうことは、青も分かっていた。
皇帝からの親書はつまり、宣と同じものだ。諸侯の領地の安堵を保証し、軍に命令を行うものである。
あるいは父母への手紙なら私信もよいだろう。だがいまは――誰か特定の配下をねぎらったり、臣下の苦しみに寄り添うための言葉は、それがあるというだけで何かの弱みになる。
そして――
「……そうだな、そうだ」
そして、彼が残ると言った以上は信じて待つしかない。
男女官達はいずれ翼宮を出なければならない存在だ。ここから旅立ち、生きていくのであれば、それを応援してやりたい。そう伝えるだけでよいはずだ。
「では伝えてくれ。『臣の幸多からんこと、ご母堂の健かなることを願う』と」
月並みな言葉だ。誰の家臣にもかけてやるような言葉。
だが、それは皇帝である青の本心だ。
もう少しだけ彼に何か特別な言葉を贈ってやりたいと思った青は、それと、と付け加えた。
「また文を書いて欲しいと言ってくれ」
「はい」
珀はそれだけ頷くと、「さあ、もうお眠りなさい。明日までに熱が下がらねば、本当に苦い仙薬を煎じますので」と冗談ぽく言って、寝所の灯をふっと消した。
「……陛下がお眠りになるまではここに居りますよ」
目を閉じたまま、青は頷く。
「……宿直の者以外で誰かに寝守をされるのは、お祖母様以来だな」
「お望みならいつでも」
「弱ってるときだけで良いよ……」
「おや、つれない。少し元気になられましたかな」
さっきの梅湯に入った酒のせいだろうか、あるいは病気のせいか――目を閉じると、すぐに眠気が襲ってくる。
でも眠気に溺れるすんでのところで、ふっと意識が覚醒のほうに戻る。
意識をなくすといけない、そんな意味の無い抵抗が起き、覚醒と睡眠を言ったり来たりする。
「大丈夫ですよ。陛下」
珀の声が、小さく、ゆっくりと、囁くように聞こえる。
青の手に、手が触れる。冷たい、でも柔らかいあの手。
「御身は珀がお守りします。ゆっくりおやすみなさい」
「大それた……言い方だな……」
青はそう言った。
それからのことは覚えていない。
<第二話 了>
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3話もいま書いているので、すぐに公開できるよういっぱいがんばりますのでよろしくお願いします。




