第12話
端午の節句が終わると、ほどなく浪の国は梅雨の季節に入る。
驟雨、豪雨というほどのものでもないが、霧がかった小雨が半月ほども続く憂鬱なもので、この時期から夏にかけては疫病が心配される時期でもある。
黒蓮――朱涼が戻ってきたのはその梅雨がようやく収まりかけ、いよいよ夏になろうとする頃であった。
後宮の一室にて、宦官数名を伴い青は彼に相対した。
彼は言葉少なく、ただ「陛下のお慈悲と戴きました薬にて、おかげさまで母が危篤を脱けることが出来ました」と語り、それから平伏した。
青は何も聞かず、ただ頷き「そなたの孝行が天に届いたのだろう。まずは良かった。長旅で疲れたことだろうから今日は早く休むとよい」と語りかけ、それで終わった。
……のだが。
*
翼宮――後宮は男子禁制ではあるが、入る方法はいくらでもある。
職人がそうだ。大工や佐官、料理人のほか、珍しいものでは芸人なども許可が下りることがある。
しかし、足がつかない方法となると難しい。
出入りが許される者たちひとりひとりに、衛侍――警備の宦官の監視がつく。
だが、衛侍には固有の特性がある。
それは、ぴかぴかと光る《《あるもの》》を見るとすぐに目の前が見えなくなり、前後の記憶を忘れてしまう、というものだ。
こうした賄賂はよくあることだ。そして、皇帝の住まう奥向きの警備ならまだしも、下級の女官たちしかいない、外辺の出入りの監視ならなおのこと。
皇帝との面会順序を決める取次よりかは上がりがすくないが、その気安さもあってか衛侍は宦官のなりたい役目のひとつであった。
いや、衛侍たちからすれば、これは投資に対する正当な対価だと言うだろう。
これになるためには方々に借金をして上役に賄賂を渡さなければならないのだから。
さて、その夜。
翼宮を見回る外回りの衛侍のひとりが、ぴかぴかとするそれをつかまされ「忘れた」記憶とは、浮橋の欄干を直すため呼ばれた細工師の行動についてである。
場所は翼宮のはずれ。逢い引きにはうってつけの植え込み――そこまで道案内をしながら衛侍はうしろの男に語りかける。
「あんた女官に想い人でもいるのかい」
気安いつもりで語ってみたが、返事はない。
「新しい天子様になって女官も戻ってくるかと思ったら、子供なもんで美人はまだ要らないんだと。女っ気の少なさにみんなぼやいてるのに、うまいことやったもんだ……」
宦官とは言え性欲がなくなったわけではない。閑なときには宮内の美人談義に明け暮れているものたちだっている。
なおも返事がない。明らかに邪魔だと思っているらしい。
すっかり興を削がれてしまった衛侍は、ふんと鼻を鳴らし、「さあここだ」と目的地についたらそのまま求めに応じて距離を置く。
「……ちっ」
去り際、夏虫たちのさざめきに漏れて舌打ちが聞こえた。
明らかに苛立ちを隠そうとしないその口調に、何だか腹が立った。
何だその言葉は。この場の生殺与奪の権限は俺が持っているはずだ。
俺がいま声を上げれば、こんな奴、あっという間に牢屋送りだっていうのに。
衛侍はちらと後ろを振り向いた。夜闇に紛れて細工師に近づいてきたのは、やはり女官のようだ。
意外にもそれは位の高い者のようで、遠目夜目にも上等の絹服を着ているのが分かる。
「けっ」
衛侍は毒づき、逢瀬に使われることの腹立たしさを金子の重さで慰めようとして懐の金子をもう一度確かめる。
そこで気がついた。そうだ、もう時間だといって近づいて、女官の顔を覚えておこう。そうすればまた女官の側にいろいろ役得が手に入るかも知れない――と足を一歩踏み出そうとしたその瞬間。
「違う」
声が聞こえた。
「お前――いやお前は!」
大声。細工師の声。それは明らかに驚き、動揺した声だ。
細工師が身体を翻した次の刹那、女官の方が細工師の懐に飛び込む。
最初は愁嘆場かと思った。だがその見立ては一瞬のことで崩壊した。
「ぐうっ!」
そう短く叫ぶと、細工師はその場に頽れ、それきり動かなくなった。
……何が起こった?
衛侍は頭の中で問いかけてはみたが、答えが出るはずもない。
ただ、自分はとんでもないへまをやらかしたのではという動揺が一気に押し寄せてくる。
「……」
女官が近づいてくる。女にはありえないくらいの大股で、まっすぐこちらに。
衛侍は思わず後退り、彼女に背を向けて走ろうとしたが、あっというまに近寄られる――彼女の顔が見えた。
美しい女官だった。夜闇にまぎれても星が照らす黒い瞳に、黒い髪。
まるで大型の猫を思わせるようなしなやかな身体に浅黒い膚。
こんな女なら寝てみたい――と思っていたら。
ぱん、と音がした。
何の音か。
自分の顎から音がしたのだ。
女の拳が、自分の顎を、とんでもない素早さと力で振り叩いたのだ。
視界が飛び、空が見えたかと思うと、目の前がまっ暗になる――
*
「……終わりましてござる」
二人の男をほんの数瞬で仕留めた女官は、暗闇に向かい頭を下げた。
「はい、ご苦労さま」
女官の頭を下げた先の暗闇から現れたのは珀鎔珂である。
白を基調にした服装をしたかれは、ぐったりとのびている細工師――のふりをした間者と衛侍ふたりを見て、それから女官に向き直って、「そなた、恐ろしいほど強いのだね」と漏らした。
「いや、それほどでも」
女官のかっこうをした青年は破顔して一礼し、それから頭を掻いて照れた。
それは黒蓮――朱涼のすがたをしているが、中身は朱考である。
珀は内心舌を巻いている。
身のこなしを一目見た瞬間から強いだろうとは思ったが、並外れている。
流儀や型のない野生の動きだが、相手のどこを叩けば気を失うかを最短で見切って、あやまたずその急所に中てている。
なるほど、この技倆を見れば、取り立ててやりたいというのもよく分かる――と感心していたのだが。
「やはり呂包どの――呂包の手のものですね! 許せん! いまから捕らえにいきましょう!」
「……いやいや、当て推量はいけないよ」
いきなりの結論に珀はあわてて手を振って制した。
日頃から悪意や害意を相手に泰然としている鎔珂であったが、彼と話をしているとあまりの直率さに調子が狂ってしまう。
「しかし、珀どのもおっしゃって居られたではないですか。私が兄上の、女官のかっこうをしていれば、そのうち間者が訪ねてくるだろうと。愚かな私でも分かります。私や兄に近づく間者となれば、南陵に係わるものでしょう」
「そうだね……でも、まっさきに疑われる人がこうしたことをするものか、ちゃんと考えねば」
「ははあ……」
おそらくだが、目の前でのびているこの男に尋問すれば、自分の主は呂包だと白状するだろう。
禁衛への推挙に機を合わせたように、母の容態が悪くなったとの報せ。思い詰めた朱考が皇帝に対して朱涼に会いたいと願い出て、二人を帰郷させる。母に会うと、多少は弱っているが、だが危篤というわけでもない。
おかしいと思ったころに、脅迫がはじまる。『言うことを聞け、さもなくば、そなたらの母はいつでも危篤にできるぞ』と。
そうして、翼宮では朱涼、それ以外の重要な場所は朱考に命じて、皇帝の行動を逐一監視させる。
――そういう筋書きがあったに違いない。
そして、その絵図を描いたのは、呂包か、呂包に連なる南陵の誰か……。
だが。
それを簡単に信じていいのか。
描かれた絵図は、朱考の短慮で露わになった。
なら、まっさきに疑われる呂包なら、諦めるはず。
ものを隠す動きではなく、あえてあらわにする動きが生まれた。
つまり――呂包たちの計画の上前を、あえて撥ねようとした者がいる。
それが誰なのか、何を意味するのか。
「もう少し調べる必要はありそうだね。……やれやれ。面倒極まる話だ」
しかし。目の前で気絶しているこの間者ふくめ、いろいろと練った策があったのかも知れないが、すべて朱考のこの短慮で露見し崩壊してしまったのだから、憐れというか、面白いというべきか、あるいは余計なことをと言うべきか。
ふと朱考の顔を見る。まだ納得しているような様子ではない。
珀は苦笑しながら、彼に語りかける。
「たぶん、今回はただの顔つなぎだよ。これから自分が連絡の手段になる、と伝えたかっただけ。特に何かしたいわけじゃない。だから今回は、ひとまずこの男を捕らえておしまいさ。後ろにいるのが誰であれ、それが逆に脅しにもなる……ただ」
「ただ?」
「……どこのどなたかは分からぬが、陛下と私の寝所を覗こうというのは気に入らないね」
これは独り言、戯れ言だ。
だがその戯れ言に微かに熱が入ってきているのを、珀は自覚している。
「無粋者にはお灸を据えねば……ふむ、われながらちょっと怒っているな」
ちょっとした退屈しのぎと、いくつかの好奇心と、少しの義務感――そんな理由で新しくやってきた若い皇帝のやることを見ていたが、どうやら自分はずいぶん彼の純粋さにほだされているらしい。
顔を上げると、朱考がなぜか先ほどより警戒した表情でこちらを見ている。
笑顔を見せてようやく警戒を解いてくれた。
「怖い顔をしていたかい?」
「……戦場の顔をしておられました」
確かに、ここは戦場と似たような場所だろうね。
そう言う代わりに、珀は「さて、ではこいつらを牢屋に入れて今夜は仕舞いにしよう」とつぶやいた。
朱考はその場で膝をつき、深々と頭を下げる。
「お陰様で、これで家族三人、助け合い生きていけるようになりました。陛下には感謝のしようもございません。このご恩は、いずれ命にかえてもお返ししますとお伝え下さい。では」
「うん?」
珀は首を傾げて朱考を見た。
朱考も虚を突かれたらしく、「えっ」と、きょとんとした顔で見つめてくる。
「まるでいまから出て行くみたいな言い草ではないかね」
「いや、こいつらを牢に入れたら、私は郷里へ帰るつもりですが」
「だから、翼宮がそなたの家だろう? 黒蓮」
「黒蓮? 私は朱考ですが……」
「そなたは黒蓮さ」
珀はにこりと笑って答える。
「陛下から聴いてなかったのかね。全裸騒ぎのほとぼりが冷めるまでは、朱涼どのが朱考として実家に帰っているのだから、そなたは朱涼どの――黒蓮としてここにいればよい、と」
「はあ……」
「そなたの兄と母は南陵から別のところへ移って頂いたよ。安全なところだ。朱涼――兄上の看病でゆっくり養生されておられる。だが、そなたがお二人のもとに向かってしまうとね、今日のような連中を大勢引き連れて行くことに――」
「では、蹴散らしてごらんにいれます!」
朱考は女官服の上から胸を叩いた。
「いや、やはり、今から呂包の屋敷に参りましょう! 脅しなどせずとも、首を刎ねてしまえば――」
「停、停、停」
珀はにこやかに笑いながら朱考を制する。
「話を聞いていたかい?」
「はい、もちろん! 呂包に黒幕を吐かせて、そのあと斬ります!」
自信たっぷりの満面の笑みに対して、珀は表情の筋肉で笑顔を作ったが、心の中では何も笑えなかった。
「そなた、なかなか面白い男だな」
「よく言われます」
「とにかく。ここから出てはいけないよ?」
珀が《《すこしだけ強めに》》言うと、朱考はようやくその命に頷いた。
「……戦場の人の顔をしておられます」
「おや、これはいけない」
ちょっと普段とは違う顔をしすぎたかも知れない。
笑顔を忘れないよう、あとでちゃんと鏡を見ておかねば。
珀は顔に手をやり、それから、あることを思い出し、はたと手を打った。
「そうだ、伝え忘れていた。朱涼から信を預かっているんだ。陛下宛てと、そなた宛てに一通ね。あとで渡そう」




