10話 皇帝と梅湯(めいたん)
「笑い話じゃないんだからな」
お腹をかかえ、声を上げて笑う珀に青が釘を刺した。
「いや、いや、失敬」
珀は申し訳ないという顔などみじんも浮かべず、女服で長椅子にしなだれかかり、なおもくつくつと笑うのをこらえながら、扇子で口元を覆う。
宮城で武官が半裸になって女の服をひっぺがそうとしたなど、前代未聞の醜聞だ。
一応は口止めをしてみたが、これはもう笑い話のたぐいだから口に箝など履かせられるものではない。
「しかし、女性の服を捜すにしても先に脱がなくても良いのでは」
「……途中まで応じた女官がいたらしい」
ほお、と目を丸くする珀に、青は盛大にため息をつき、なぜ応じる、と天を仰ぐ。
「規律を緩めるとすぐ勝手するものが現れる」
「おや、そんなに見つめられると照れますな」
「おぼえておけ、これは責めている視線だ」
「しかし、入りたいというのなら、入れてやってもよいのではありませぬか」
「入れてやってもよかったんだ――先に入りたいと言えば!」
そうだ。翼宮――後宮は表だっては男子禁制だが、青にはいま妃がいないし、夫人を囲ってもいない。
だから入る方法はいくらでもある。
大工や左官などの営繕人足は宦官の手が足りぬ時は市井から監視つきで出入りが許可されているし、商売人だって鑑札を持っていれば入れる区画がある。
「ほんの数日待てば、そんな話もできたんだ」
いまの朱考は取り押さえられた上で謹慎を申しつけられ、かれの上官である呂包の預かりとなっている。
騒ぎの責任を問うて処分するのが筋だが、かれを禁衛に推挙した蘇武の面子もあるから、簡単な話ではない。
「まったく、あの馬鹿!」
あれこれと手配して心を尽くした戦勝祝いも台無しになった。
腹立たしいが、深呼吸をなんども繰り返して怒りをこらえる。
「とにかく……ほとぼりが冷めるまで待つほかない。翼宮で会わせるなどもってのほかだ」
「会わせる?」
「……朱涼と言うのだそうだ」
そう青は呟いた。
「あいつがなんとしてもこの翼宮に入りたかった理由だ。兄がこの翼宮にいるらしい。南陵出身の男女官に憶えがあるか」
珀はふむと顎に手をあて、やがて思い出したのか手を打った。
「……ああ、黒蓮」
「黒蓮というのか」
後宮の妃や貴婦人達には、本来の名とはべつに、雅名をつけるのがならわしだ。
頴女はそれを男達に与えていたのだろう。
「しかし……弟がいるとか、彼から何かを聞いたことはありませんが」
青は頷き、だが、それでも確かめてみたいと呟いた。
皇帝じきじきに朱考を取り調べる――という名目で人を限って尋ね、ようやく事情が分かったのだ。
叶うのなら叶えてやりたいという理由が。
「……朱考の母親が病なのだそうだ」
「……ふむ」
朱考は貧しい兵卒の次男に生まれた。
父はかれがまだ乳飲み子だったころに戦死しており、母が女手一人で兄弟を育てていたが、ある年にとうとう蓄えが底をつき、一家三人餓死するわけにもいかず、泣く泣く兄を人買いに売ったのだそうだ。
そうして年が経ち、成長した朱考は父と同じく兵として立身し、首尾良くこの戦で大きな軍功をたてた。
これでようやく母に孝行ができると思っていたら数日前に郷里の親族の遣いというものが訪ねてきて、母が病に倒れたという。
動揺する朱考に親族がさらに続ける。実はおまえの兄は人買いに売られたのではなく、前の天子様に献上されたのだ、そして今もまだ、新しい天子様の庇護のもと、宮内にいるのだと。
なんとか母のため、兄を探しだし、母に会わせてやることができぬか。
悩んだ朱考は父の上官でもあった将軍、呂包に相談してみた。すると彼は十数年前、南陵の侯爵が前帝である頴に男女官となるための少年を献上したが、その中に彼の兄がいたかも知れぬという。
――もともと直情径行の男である。こうなると彼は矢も楯もたまらず、呂包のとめるのもきかず、一刻もはやく確かめたいと宴の場で頼み込もうとしたのだが、結果はさきの通りで不首尾に終わってしまった。
出仕の日まで待つほかないが、しかしそうしているうちにも母が危篤とならぬかと気を揉み……
「……で、翼宮に入る方法がないかと方々に聞いたら、女の格好をすればあるいは、と冗談を言われて、それを真に受けたと」
青はため息をつく。
「つくづく馬鹿なやつだ。とりあえず沙汰がつくまで謹慎を申しつけたが……ひとまずその黒蓮という女官が果たして朱涼であるのか、確認をしておきたい。もしその通りであったら暇を出して看病もさせてやりたい。これは朱考とはまったくの無関係ということでなんとかやり通せないか」
青がちらと珀を見ると、彼は何か含みがあるようで、顎に手を当て、ふむ、と呟いた。
「……ずいぶんとこだわるのですな」
珀の言葉に青は何の衒いもなく頷く。
「むちゃくちゃな奴だが、親を思う心は大事にしてやりたい。孝悌は仁の本なりというじゃないか」
思いやりの心というのは親子の情から始まる、父母を愛するように隣人や民衆を愛すべし――そうした言葉を青は素直に信じていた。
珀はそんな青を見つめ、微笑を浮かべる。
「なるほど、承知仕りました。では黒蓮を呼んで参りましょう」
ほどなくして珀に連れられて来た黒蓮は、二十歳をいくつか過ぎたころの男であった。
南陵の人らしい黒い膚、黒い髪、まるで黒瑪瑙のような艶のある瞳。すべて弟の朱考とよく似ている……というより、うりふたつだと思えるほどだったが、目の前のかれは女の服を着ている。
「いかがなさいましたか」
「……いや、朱考と顔が似ていると思って」
珀と青とのやりとりを聞いた朱涼ははにかむように笑ったが、そこに実感がこもった風はない。
むしろ困惑している様子だ。
そして朱涼も自分の感情に気がついたのだろう。もう弟の顔を覚えていないのです、と呟いた。
「……記憶にあるのはごく小さな頃です。五つか六つかのころ、梅湯を飲むのに……ひとつの椀で、私と弟と、ひとくちずつ、かわるがわる飲んだ……」
青は頷く。彼の語る言葉の意味を知っているからだ。
梅湯は梅を煮出した湯に水飴を入れて飲むもので、子供の小遣い銭でも楽しめる、端午ならではの甘味だ。
けれど、朱考の家はそれすら一つを分けて飲むような暮らしぶりだったのだ。
「珀から話は聞いているか。もしそなたが母と会いたいというのなら、外出を許す」
青からの提案に対し、朱涼は向き直り、深々と拝跪をして、だがきっぱりと拒絶した。
「……陛下、弟と母のことをお教え頂き、そしていま、宿下がりを許すお慈悲まで頂くとは感謝の念に堪えません。有難うございます。……しかし、わたくしの願いがかないますのであれば……私は母にも、考にも会うつもりはございません」
青は驚かない。
分かっていたことだ。
ここの男女官たちの半分ちかくは子供の頃、親に売られた者たちである。そんな親によい思いなどないのだろう。
朱涼の後ろに控えている珀をちらりと見る。彼は何も言わない。
彼もまた、こうなることを分かっていたのだろうか。
青はその上でさらに尋ねる。
「そなたの母は危篤であると聞く。いろいろとわだかまるものはあろうが、最後の望みを叶え、会ってやることはできまいか」
朱涼はなおも首を左右に振る。
「母への恨みなどはないのです。ただ……」
「ただ?」
「……弟や母に会ったところで何を言えばよいのでしょう。時が経ち、もはや母の面影すらおぼろにしか思い出せませぬ。そんな他人に近い私が、子のふりを続けられるのでしょうか」
朱涼は笑った。
だがその笑顔には感情がなく――虚ろで、寂しげで、まるで途方に暮れているようだった。
「……売られた事への恨みはなくとも、戸惑いや悲しみは常にありました。それが、ふとしたときに言葉に出ないか、あるいは今この時は恨みを抱いていなくても、母に見えた時に怒りが吹き出しはしないか……そしてその言葉が母を傷つけないか……。母も私も、最期の最期で『こんなことなら会わぬままの方がよかった』と、そうお互いに思うてしまうのではないか、それが怖いのです」
違うと言いたかった――でも、何故か言うことがためらわれた。
「……弟もそうです。聞けばたいへんな武功を上げたのだとか。そんな彼に、私如きが会うて兄弟風をふかそうものなら、いつかどこかで破綻が来てしまうのではないでしょうか」
それが何かは分からない。いや、分かっている。
俺が言えた話じゃないからだ。俺だっていつもそう思っている。
失敗するのではないかと思っているから。
だが、それでも。
青は懸命に言葉を捜す。
「……俺は梅湯が嫌いだ。酸っぱいのは苦手なんだ」
ふと呟いた、それまでとは何も関係の無いことばに、朱涼と珀が
何を言い出すのだろうと思ったのだろう。それは青もまったく同じだった。
なぜこんな言葉が出てきたのだろう。自分の気持ちがよく分からなかった。
だが、梅湯のことを思い出したとき、ふと自分の昔のできごとを思い出したのだ。
そしてそれを、今ここで喋った方がいいと思った。
「子供のころ、俺は身分を隠して市井の子たちにまじってよく遊んでいた。この時期はみんな梅湯を飲んでて……だが金がない。金というものを持たせて貰ったことがなかったんだ。だからみんながうらやましくて……いったい梅湯とはどんな味がするのだろうと思っていた。銭をねだってみようか、だがそんなことをして付き合いそのものを禁じられたらどうしようと困ってたら、友だちが誘ってくれたんだ。弁当持ちをやって金を稼ごうって……」
訥訥と、皇帝の口調ではない言葉で語る。
頭に思い浮かぶ言葉を、そのまま口に出すだけなのに、もどかしい。
「好宴来了! 好宴来了! ……か。そうだ。そんな甚句を飯屋の店先で謡って。買ってもらった飯を俺が運ぶんだ。大きな桶をかかえて、一日いっぱい汗を掻いて……そうして貰った銭で梅湯を買ったら、やっぱり酸っぱくて、酸っぱくて……そりゃそうさ。水飴なんてちょっぴりだったからな。宮中で食べる菓子のほうがずっと甘かった……こんな酸っぱいなら苦労して買うんじゃなかったとひどく後悔したんだ」
言っていることがちゃんと伝わっているだろうか。
幸いにも眉を顰める人は誰もいない。珀も茶化そうとせずに、じっと聴き入ってる。
「思えばあの時市井の人たちに混じって働いてみたことがひどく懐かしい。いま玉座について政務を執り行う時も、あの時の市井の人たちの顔が浮かぶ。あのときの梅湯の味を知ったから、朱考とお前と、お前の母がどれほど苦しい生き方をしていたかも分かる気がする……ああ、何が言いたいのかと言うと……やっぱり梅湯は飲むのが正解だったんだ」
うまく諭すつもりだったけれど、どうしても言葉がつながらない。
こんなこともできない。自分はばかだ。でもなんとか、朱涼にそれは違うと言いたい。かれを傷つける言葉でなく――だが傷つける言葉になったとしても――
「おれは、誰かに臆病な生き方をしてほしくない。からっぽの生き方をしてほしくない」
臆病、という青の言葉に、朱涼は身体をぴくりと揺らした。
いつの間にか珀が朱涼の隣に近づき、彼の手を握っていた。
青は朱涼に向き直り、できる限り厳かな声で彼に語りかけた。
「……朕はそなたたちに翼宮にいてよいと許可を出した。でも永遠に流されたままの生き方を許すと言ったわけではない。生きることをからっぽにしてほしくない。男であろうと女で有ろうと、浄身だろうと、そうでなかろうと、自分で考え、生き、それで笑ったり怒ったり、失敗したりしてほしいのだ。苦しみや悩みはあるだろう。それを朕や珀に語ってほしい。それを聞き、慰め、力づけてやることこそ、頴という女性の残したそなたたちを癒やす、朕の後宮のつとめであると朕は考える」
みたび繰り返し、朕は思う。と青は朱涼に述べた。
「朱涼、そなたの母を看取ってやってほしい。そしてまた帰って、聞かせてくれないか。そなたが苦しんだことを。私が間違っていたときはそう言ってほしい。そのときにそなたの傷を癒やせるかは分からないが、私もまたそなたの後悔に付き合いたい」
朱涼は何も応えなかった。ただ、黙ったまま、顔を伏せ――小さく頷いた。
*
……朱涼を下がらせたのちも、珀は青の私室に残ったままだった。
珍しく自分からお茶のおかわりを作り始める彼を見ていると、自分は朱涼に厳しいことを言っただろうか、あるいは言い過ぎたりしていないだろうかと尋ねてみたくなるが、同時にそれは誰かに答えを求める事ではない気がしていた。
何も言わずじっと黙ってほおづえを衝きながら彼が出す茶を待つ。
珀は青に向き直って茶を献じ、それからぽつりと呟いた。
「無憂宮と言ったのですよ」
「?」
「後宮のことを。むかしそう言ったのです。あなたの三代前の、景帝陛下の頃までは」
いまの翼宮は景帝のころに、頴のために建てられたものだ。荘厳で華麗な後宮ではあるが、その一つ前のものもたいそう立派なものであったのだという。
「皇帝というのはつらいものでございます。この世で一番の存在であろうはずなのに、もっとも不自由でとらわれた御方であらせられる。だからこそ、歴代の皇帝陛下は後宮を美食と美酒で満たし、花と美女で飾り、歌であふれさせ、ここに居るときだけは憂い無き宮とされました」
そこまで言って、珀は青に向かって優しく笑いかけた。
「……しかし、陛下は苦労をせよ、苦労を聞きたい、分かち合おうとは」
言葉に責めている節はない。むしろ面白がっているようだが、青は何か背中を押されたような気がして、茶を一口のむとため息をつき、「俺は嫌な奴だな」と漏らしてしまった。
「いつもこれでよいかと思い、行動しては失敗を繰り返して、くよくよ思い悩んでばかりだからだろうか。誰かが悩みたくない、失敗したくないということに、腹を立てているんだ」
その問いに珀は答えず、ただ青に近寄り、手を伸ばしてきた。
「……聡いのに、ご自身のことを何も知らぬのですな」
まるで女性のような長くて細い珀の指が、青の頬を撫ぜる。
青はいきなりのことに目を丸くするが、黙ってそれを受け入れる。
「時には誰かに甘えることも大事でございますよ」
「……甘えるのは好きじゃない」
「では私が手ほどきして差し上げましょうに」
「おまえはいつも俺に甘えてばかりだろう。反面教師というやつだ」
「これはしたり」
笑う珀に青は救われる気がした。
さて、それで話はおしまい。かと思っていたが、珀は青の頬に伸ばした手を引っ込めない。
撫ですぎじゃあないか、と言おうとしたとき、珀がいきなり青に顔を近づけた。
手ほどきというのはどういう話しだ。まさか、いやそんな事を言われても。
思っていても顔は近づいてくる。うわっと叫ぼうとしたが――
「ひとつお願いが」
青が恐れていた事態は何も起こらず、珀はうすく紅を引いた唇を青の耳に寄せ、そう呟いた。




