1話 皇帝の憂鬱
『昔者、浪國有女自稱帝者
名頴、頴出微賤、以色得幸。
頴惑帝綜、擅權用事。
綜崩、諡曰景帝。頴立其子宇為帝。
宇崩、諡曰靈帝。頴因自僭號。
頴女、施政苛虐、恣為暴亂。
然頴逆天而無德,故不久而死。
頴將死、乃召景帝弟邯井王武之子青、而以位讓之。
青立、貶頴為僭帝、削其號、稱己承靈帝後。』
かつて浪という国に女がいた。
名を頴といい、賤しき生まれであったがその美しさにより帝に見出された。
頴は帝綜を惑わし、専横するようになった。
綜が亡くなり、景帝の名を諡られた後、頴は我が子、宇を帝とした。
宇が亡くなり、霊帝の名を諡られた後は、頴自ら帝を僭称した。
頴の政治によって国は乱れたが、頴は省みることなく自らの愉しみに淫した。
しかし頴は天意に背き徳無きものであるため、また早くに死した。
頴の死後、景帝の弟であり邯井の王である武の子、青が帝として即位した。
青は頴を僭帝とし、庶人とし帝位を消したのち、自らを霊帝の後帝と宣言した。
*
「……」
青は長い長いため息をつき、目の前の書の山に冷たい視線を向けた。
皇帝に即位して三ヶ月、早くも投げ出したくなるのを堪えた結果のため息なのだが、それで何が変わるわけでもない。せいぜい部屋に控える護衛や近侍たちを狼狽えさせるだけである。
諦めて、目の前に堆く積み上げられた書のひとつを手に取り開く。中身は文官たちがしたためた、各地の守護や太守たちに領地の安堵と鎮護を命じる書だ。
筆を執り、皇帝の許である旨を意味する花押を施す。花押とは皇帝たる自分の名を文様にしたものであり、青のそれは水の渦のような文字だ。
そして続けて次の書を開く。今度は降格と左遷を行うものたちの列表だ。それぞれの罪状を見れば様々な悪行が連なり……連なり……
「……うう」
真面目に読むほど気が滅入ってくる。
暴君を倒したあとの新たな帝の最初の仕事というのは論功行賞、自身に味方していた家臣たちへの報恩であり、僭帝(先帝とは呼ばない。青が彼女の帝位を廃し、なかったことにしたのだから)に味方したものへの報罰だ。
しかし罰を受けるもの、功を戴くものにも言い分がある。
だから皆、書をしたためた。罰は少しでも軽く、功は少しでも重く。この国における文官、武官、その他の貴顕、有象無象たちが、あるいは我に咎無し、あるいは我にもっと報償をと訴える書をつくる。そしてそれは川のように積もり積もり、最後にこの都に集まってくる……のだが、なんとその書を積んだ牛車が禁門(皇城の正門)列をなし、その数、実に十数台に及ぶという。中には青に書面を持ってくる文官達に賄賂を握らせて、読んで貰う順番を争っているらしいが……いや、疑えばきりが無い。
賄賂、横奪、職権乱用……宮中に澱のようにとどまっていた悪弊旧弊を一斉に退治する。そのために当分は宰相をおかず親政とする旨を青は即位の際に宣したが、結果として決済の書類は積み上げられる一方で、それが新たな腐敗の種を撒いているというのだから腹立たしい。
なんとかしなければいけない。だが、何人もの文官達が夜も昼もなく必死に作って積み上がっていく書の山を、ひとつふたつ突き崩したところで終わるわけも無い。
黙々と続けても続けても終わらない仕事を前にすると、ひょっとして自分はこらえ性のない無能なのではないかと思えてくる。そしてそう思いながら大量の仕事をこなすのは、虚しくつらいことだ。
青は投げ出したくなるのを必死で堪える……と言ってるうちにまた書類が来た。
『陛下。即位あそばされた最初が肝心でございます。陛下の真面目な仕事ぶりを見れば、すべての政を宰相に丸投げしていた僭帝と今上とが異なることの、なによりの証拠になりますぞ』
青を皇帝に据えた青の父、蘇武はそう言った。
父は二代前の景帝――帝綜の弟である。浪国の西方の地、邯王としても、将軍としても周囲の信頼も厚い。青の自慢の父であった。
だが、青が皇帝となってからは違う。父は父では無く、皇帝に傅く家臣になった。
だから、家臣としての礼を尽くした言葉しか使わない。
それが青にはひどく寂しい。
青は数え十二の少年である。自分が尊敬している父を、この年で、こんなかたちで追い越すとは微塵も思っていなかった。
それがいっそう、いまのこの地位をひどく現実感のないものに思わせてしまう。
自分は何も変わっていないのに、まわりだけが変わる。
……そうだ。幼い頃にもそんなことがあった。
青がまだ邯の幼い公主だったころ、こっそり城を抜け出し、町の子たちとまじって遊んでいたのを思い出す。
皇族、王族とはいえ三男である。長じたところで、辺境である邯のさらに地方のどこかの小さな領地に安堵されるのが精一杯、とすれば庶民の暮らしを知って知己を得るのも良しとして、父も市井のものと交じわるのを許してくれた時期があった。
庶民の子に混じって私塾に通い、文字を習ったり、かけっこをしたり、釣りをしたり、喧嘩したり、冗談を言いあったり……思えばあの頃がいちばん幸せだった気がする。
だが、状況が一変する。青の長兄が帝に諫言したかどで当時皇后であった頴の逆鱗に触れて刑死し、次兄も命の危険を感じて国を出奔したのだ。
最後に残った青が父の跡を継ぐ公子となったとき、それまで友と思っていた者たちからは驚き、恐れられ、よそよそしくなり……まるで引き波のように消えて誰からも語りかけてもらえなくなった。青がいくら求めたとしても、返ってくる言葉は青のあだ名だった幼々《やおやお》(身分の高いぼっちゃん、お子さまという意味)ではなく、「ご主人様」「公主閣下」という言葉だった。
親しい友が別人になったあのときも随分寂しい思いをしたが、今度は実の肉親が別人になってしまった。
しかたのないことだ。それは青も分かっている。
景帝、霊帝、そして頴という三代にわたる放漫な国家経営のせいで、浪という国は破綻のふちにある。財政だけではない。南方は蛮族との戦が長らく続いているし、地方の豪族たちはいまでも蜂起の目がないかと難癖をつけてくる。それらを父がどうにかまとめあげ、自分がつけば角が立つとして帝位を息子の青に譲ったのだ。
父が帝の家臣になるのは父の望むことなのだ……と心で何度言い聞かせても、去来する寂しさはとどめようがない。
……たまらず青が二度目のため息をついた、そのときだった。
「畏れ多くも、お、畏れ多くも……!」
侍従である宦官のひとりが、青のいる部屋の前にいざり、額ずき、声を上げる。
枯れ木のようなその男の声は、伏しているだけに小さかったが、震え、戦慄いていた。
「畏れ多くも……陛下に言上、お伺い致しまする。我々になにか不手際がございましたでしょうか」
「うん?」
はじめ青はかれが何を言っているのか分からなかった。だが、次の瞬間、その近侍は青がついたため息に、何かよからぬものを感じ取ったのだということに気づいた。
いや、彼だけではない。この部屋――絹の敷物のつまった床榻(長椅子)と書机より向こうにある、浅い簾を隔てた先に侍るものたちの顔はみなこわばり、張り詰めているのがわかる。
「ああ……茶のおかわりをくれるか? 少し疲れた」
青はそういえば喉が渇いたことに気づいてそう応えると、奥に控えたほかの近侍たちが慌ただしく動き始める。それで終わりの会話だと思っていたが、目の前の近侍は動きだすことなく、さらに顔を床に押しつけ、声にならぬ嗚咽を漏らしている。
それは異様な光景だった。
茶のおかわりをくれと訊ねただけで、誰かが死ぬかのような。
「茶のおかわりを出すのを忘れた者は、首を刎ねる習わしでもあるのか?」
ふと口をついて出たそれは、他愛のない冗談のつもりだった。それくらい目の前の近侍の畏れようは度がはずれていると思ったからだ。
だがその問いを受けた近侍は、否定することもなく、ただ即座に顔を上げた。
その顔は青も驚くほど赤黒く変色しており、驚愕と恐怖に満ちていた。
「お許し下さいませ……お許し下さいませ!」
青が何か声をかけようとした次の瞬間にまたその顔を床にこすりつける。
がたがたと震える彼を見て、青はため息を――つくのを寸前で口をむすび、心の中で盛大に吐き出した。
頴女、施政苛虐、恣為暴亂。
即位のさいに、自ら口にした宣詞のひとふしを思い出す。
あったのだ。茶を出す間を間違えただけで首を刎ねる、そうした習わしが。
僭帝が生きていた頃はそうだったのだ。
「……そのような厭わしいことはせぬ!」
あんな偽りの皇帝と同じだと思われるのも腹立たしい。
かっと頭にきて、青は大声でそう叫んだ。だがそれが逆効果だった。額ずく近侍は雷にでも打たれたかのように震え、溢血してしまいそうな顔をしている。
青は三度目のため息をつく。
「……いにしえの国のある帝は朝寝が好きでしたが、夜のうちに明けを告げる鶏を指さし、『帝に目覚めを命じる不快な禽である』と宣されました。ただの冗談のつもりでしたが、その宣のため民は鶏を根絶やしにしたのです。以来、その国では鶏でなく陽の光以外に朝を知ることができず、梁はそれがゆえ滅したと言われます。ひとえに帝とは天子、つまり天意によりこの国の政を執るものであり、その言葉は天の言葉であるがゆえにございまする。御身には軽い一言であろうと臣と民の命に係ることがある旨、ゆめゆめお忘れなきよう」
父にそう言われたのを思い出す。
それは分かっている。
だけど、茶のおかわりを忘れたことを茶化しただけの言葉に、ここまで反応されるのはあんまりではないだろうか。
心の中でそう抗弁したが、これも青にはやはり分かっている。
これから自分は、この世界に生きなければならないのだ。
この国における頂点として、天の代わりに声を宣する、たった独りのものとして。
誰もが畏れ、誰もが羨む皇帝というものの正体は、冗談すら口にも出せない存在であるのだ。
そう分かってはいても。覚悟が定まっていたとしても、それでも行動に移すのは難しい。
……書類の山を見る。
最早やる気は微塵も出ない。
青は部屋の窓を開け放つよう命じ、外に目をやった。禁城のなかでもこの書室は湖の上に張りだしていて、窓からは美しい風景が見え、息抜きにぴったりなのだ。
目を細めて遠くを見やれば、窓の外で水面に光は輝き、柳や桜や扁桃は初夏の陽光に照らされて青々と茂っている。来年の春になればきっとここは色とりどりの花で埋め尽くされることだろう。
その向こうに視線が行く。湖面の向こう、白亜と白木で像られた美しい楼宮……。
青はその宮をきっとにらみつけた。
あれこそが青の叔父、景帝が頴のために作り、頴が帝を僭称したころに完成した巨大な後宮。
鳳凰に喩えられる浪の帝の、その翼の休まるところとして建てられた――翼宮と呼ぶようになった宮。
そして、青のもうひとつの不愉快の種。
頭が痛いのは溜まり続ける公事だけではない。私事もまた、厭わしく難儀な話が続いている。
その最たるものがこの翼宮の問題だ。
皇帝とは、昼は宮城で政務を行うもので、夜は後宮で寝むものである。そう決まっているはずだ。
なのに、即位から三ヶ月も経ってもいまだに青はその宮に足一歩も踏み入れられないのである。
『後宮には前帝――いや、僭帝の不浄が多く残っております。これを清めるための日が必要なのです』
三ヶ月前、景帝の代から続く太鑑(宦官の長)に言われたときは首を捻ったが、頴の血族が諸侯残党と乱を起こしたり、南方にある隣国の内乱に兵を支援したりと青と父はそちらにかかりきりで、しばらくは放っておこうという話になった。
「翼宮は魔窟です。陛下もお近づきにならぬよう」
南方への遠征軍の総大将として慌ただしく出陣する父にそう言われたが、そのときは青に異存は無かった。
後宮のもっとも重要な役割は世継を作ることだ。数え十三の青にはまだ早いし、青もべつに女性に興味が無い。
無用の長物でしかないものを急かすこともない――と思っていたのだが。
即位からはや三月が経ったというのに、まだ浄めが終わらぬという。
これはさすがに、時間がかかりすぎではないか。青はだんだん腹が立ってきた。
時間を区切ったわけではない。用向きがあるわけでもない。だが、皇帝の仕事は刻々と積み上がり遅々として進まず、あるいは自分は無能ではないかと自責すらして、茶のおかわりを忘れるやつにも気を遣っているというのに、掃除に三月もかけて平然としている奴がいる。これはまったく理不尽ではないか。
「……いや待て」
眉間を指先で揉み、苛立たしいのを少しでも落ち着けようとする。
この怒りは、たぶんよこしまな怒りだ。
やつあたりに近い。それは自覚している。
でも、与えられた仕事をせずにほったらかしなら腹が立つ。
脇見をする馬には手綱をゆるめてはいけない(ものごとは早めに矯正しなければ後々大きな事故につながる)とも教えられてきた。
うんそうだ。皇帝は将官を監督する立場でもあるのだから、怒りは正しいのだ。
なにより気になるのは、三月もかかる清め、潔斎とはいったいなんなのか。
常識で考えてもそんなことがあるのだろうか。
考え出すと疑問がさらなる疑問を生んでしまう。
「……太鑑を呼んでくれ」
青が土下座していた近侍のひとりにそう告げると、執務の最中に宦官の大臣を呼ぶことがよほど唐突だったのか、彼らの目に驚きと困惑が広がっていく。腹立たしさがまた強くなる。
「いや、いまから半刻あと後宮に行く。太鑑はそちらに呼ぶように!」




