08:小さな公爵令嬢の生活(1)
ブルーローゼス家の娘になってから、シャルロッテの生活は一変した。
柔らかな布団に包まれてゆっくりと眠り、綺麗な服を着て、美味しいご飯を食べる。世界中の何もかもが輝いている。
常に薄暗い馬車の荷台が全てで、きっと未来も薄暗いのだと思っていたあの日々とはまさに真逆だ。
なにより、今のシャルロッテには家族がいる。
「おはよう。顔を見れてよかった。よく眠れたか?」
「シャルロッテ、おはよう。ちゃんと起きれて偉いわね」
朝食の場に行けば、フレデリカとテオドールが待っていてくれた。
テオドールはどうやら今から家を出るらしく、既に騎士隊の制服を纏って準備を終えている。出発前に時間が出来たのでフレデリカと過ごしていたのだという。
「お父様、お母様、おはようございます」
迎え入れられた最初の朝こそ二人を父母と呼ぶことに躊躇ったシャルロッテだったが、十日経った今はもう躊躇いはない。
だがいまだ嬉しさはあり、『お父様』『お母様』と呼ぶたびに胸が温かくなる。彼等が返事をしてくれれば更に嬉しくなり、名前を呼びかえして貰えると嬉しくて堪らない。ふわふわと心地良くなってくる。
『シャルロッテ』愛称は『ロッティ』。
十日前に付けてもらった名前だが、まるで生まれた時から呼ばれていた名前のようだ。もうシャルロッテ以外の名前で呼ばれても返事は出来ないだろう。
そうしてテオドールを見送り、食事を摂ってシャルロッテの一日が始まる。
フレデリカ曰く、今シャルロッテのための家庭教師を探しているのだという。それが決まれば少しずつだが勉強を始める。読み書き、マナー、歴史、……学ぶことは多い。
「いっぱいお勉強したら、お母様やお父様みたいなすてきになれますか?」
「えぇ、もちろん。でも無理はしなくて良いのよ。時間はいっぱいあるから、ゆっくりと素敵な女の子になりましょうね」
「はい」
シャルロッテが返事をすれば、フレデリカが両腕をそっと広げた。
誘われるように彼女の膝の上に移動し、ぎゅうと抱き着く。細い腕に抱きしめ返されて暖かさが伝わってくる。ふわりと漂う柔らかな花の香りに「お母様の匂い」と心ごと包まれるのを感じ、シャルロッテは湧き上がる安堵感にゆっくりと目を瞑った。
「あら、眠っちゃったわ」
とは、しばらくシャルロッテを抱きしめ、ふと顔を覗き込んだフレデリカの言葉。
今日はいつにもまして抱擁が長いと思ったが、いつの間にかシャルロッテは眠りについていた。自分の腕の中でくったりと身を預けている。
目は閉じられ長い睫毛が頬に影を落とし、小さな唇からはスゥスゥと寝息が漏れている。軽く頬を擽っても起きる様子は無い。
これにはフレデリカも、そして紅茶の用意をしていたメイドも、思わず顔を見合わせてしまった。
「まだ眠かったんですね」
「もう少し寝かせてあげましょう。膝掛を持ってきてちょうだい」
「はい、今すぐに」
小声で話し、メイドが音を立てないよう静かに部屋を出ていく。
フレデリカはそれを見届け、自分の腕の中で身を預けて眠るシャルロッテの背をそっと撫でた。
「ずっと抱きしめていてあげるから、ゆっくり眠りなさい。愛しいロッティ」
囁いて額にキスを落とせば、熟睡していたシャルロッテが小さく笑った。
◆◆◆
「それでね、お母様があたたかくてね、寝ちゃった」
えへへ、とシャルロッテが気恥ずかしそうに話したのは、二度目の「おはようございます」から一時間後。メイドの一人と手を繋いで屋敷を歩いている最中。
広い屋敷を歩いて回り、その後は庭に出る。これが最近のシャルロッテのお散歩コースだ。
朝の話をするとメイドは表情を綻ばせて聞いてくれた。可愛い、愛おしい、愛らしい、そんな歓喜の言葉が声には出さずとも顔に表れている。
「よく寝て、よく食べ、よく学び、よく遊ぶ。これが子供の仕事だと母からよく言われていました」
「お仕事?」
「子供の大事なお仕事です。だからぐっすり眠るのは良い事ですよ」
優し気な声で話すメイドに、シャルロッテも笑って「はい」と返した。
「……ロッテ、………シャルロッテ」
小さな声が聞こえてきたのは、ちょうどその会話が終わったタイミングだ。
シャルロッテとメイドがほぼ同時に足を止める。メイドが「何か聞こえますね……?」と不思議そうに周囲を見回した。
だがシャルロッテはこの声の主が分かっており、メイドの手を放して一室の扉にちょこちょこと近付いていった。
「あ、シャルロッテ様、お待ちください」
メイドが慌てて後を追う。だがその途中で「え……」と足を止めた。
等間隔に設けられた扉の内の一つ、シャルロッテが近付いていった扉だけほんの少し開いている。といっても大人の腕がギリギリ通れる狭さだ。
だがきちんと閉められた扉が並ぶ中、一つだけ開いているのは妙に目につく。
それも室内は妙に暗く、外からでは何も見えない。まだ日中だというのに、あの部屋だけ暗闇が広がっているかのよう……。
そんな隙間からヌルリと細く白い腕が出てきて、メイドが「ひっ」と声をあげた。
「シャルロッテ様!」
メイドがシャルロッテを引き寄せようと手を伸ばす。
だが彼女の手より先に、隙間から伸びた白い手がシャルロッテへと近付き……、
キャンディをシャルロッテの手にポトンポトンと落とした。
紙に包まれた小さなキャンディ。色違いで三つ。
両手で受け取ったシャルロッテが「わぁ」と声をあげ、さっそくと一つ包みを開けて口に入れた。
「おいしい」と告げれば、白く細い手がそっとシャルロッテの頭に置かれる。
その手が幼い少女の頭を鷲掴みにし、暗闇へと引きずり込む。
……こともなく、さわさわと遠慮がちに撫でるだけだ。
「ありがとうございます、ハンクお兄様」
「シャ……シャルロッテ様……、え、ハンク様?」
様子を窺いつつ近付いてきたメイドが驚きの声をあげて扉を見た。
掛けられたプレートには『ハンク』の文字。ブルーローゼス家三男、ハンク・ブルーローゼスの名だ。
ここは彼の部屋。そして白く細い手は部屋の主のもの。メイドが震えながらもう一度ハンクを呼べば、察した彼がゆっくりと扉を開けて顔を覗かせた。もっとも、開けても体の半分程度なのだが。
それも相変わらず長い前髪で目を隠しながら。
「ハ、ハンク様……。……失礼いたしました!」
「いや、別に……。ぼ、僕も、急に声を掛けてしまったし。それより今から庭に?」
「はい。シャルロッテ様とお庭にと思いまして」
「……そう。今日は暗くて湿気が多いからじきに雨が降る、早く行った方がいいかも」
相変わらずハンクの喋り方はボソボソとした小さなものだ。口の中で音を発しているのに近い。
だがシャルロッテにとって彼のこの話し方は心地良く思えていた。小さくて聞き取りにくい時も有るが、耳に届く声はいつだって穏やかで優しい。
「ハンクお兄様もお庭にいきませんか?」
「ぼ、僕は……。あまり部屋から出たくないから、い、いいかな……。二人で行っておいで」
「お外はきらいですか?」
「……嫌いというか……、そ、その、やることがあるんだ」
「やること?」
なにをするのか、そうシャルロッテが問おうとするも、それより先にハンクの手が引っ込んでしまった。最後に一度シャルロッテの頭を撫でるのは忘れないが。
「いってらっしゃい」というぼそっとした声と共に扉がパタンと閉められる。
シャルロッテは目の前で閉まった扉に「いってきます」と返し、メイドへと向き直ると彼女に飴を一つ差し出した。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます……。まさかハンク様が自ら部屋の扉を開けるなんて……」
メイドが意外だと言いたげな表情でハンクの部屋の扉を見つめる。
シャルロッテはそんな彼女の手を掴み、「お庭いきたい」と引っ張って歩き出した。




