10:小さな公爵令嬢のはじめてのクッキー配り(2)
ブルーローゼス家の敷地は広い。
豪華な屋敷、その正面に広がる美しい庭。他にも用途に合わせた建物や小屋、馬舎もある。中規模程度の公園ならば優に入る広さだ。
だがどれだけ広かろうとも手入れを怠ることなく、敷地内や客を迎える庭はもちろん、屋敷の裏手や人通りの少ない細部まで、それどころか敷地を覆う外壁までもが常に美しく整えられている。
そんなブルーローゼス家敷地内の端。屋敷の裏手へと繋がるそこは絢爛豪華とは言い難く飾られてはいないものの、さりとて寂れた空気はない。
テオドールは一人そこを歩き、ふと足を止めた。
美しい庭からは少し離れており、背の高い木と整えられた草だけが生えた一角。戻れば美しい庭に、進めば人気の無い物置小屋に繋がる。
背の高い格子が敷地と外を隔てており、その格子に背を預けるように立った。
そうして待つことしばらく……。
「お時間を取って頂きありがとうございます」
と、背後から声が聞こえてきた。低く静かな、それでも耳にしっかりと届く声。
振り返って声の主を確認したい気持ちを押さえ、テオドールもまた静かに「こちらこそ感謝する」と返した。自然と自分の声も低く小さくなる。
「何か新しい情報は?」
「幾つか新たに吐かせました。誰もが我が身可愛さでその場任せの話をしており精査は必要ですが」
「真偽の確認に時間が掛かるようなら先に行動するべきだ。現地で虚偽の情報だと分かっても、それに無駄足だと文句を言うような部下に育てた覚えはない」
「さすがテオドール様」
背後の男が褒めてくる。だが聞こえてくる声は淡々としており、一切の感情も滲ませない。静かで、むしろ静かすぎる声色。
まるで作り物のようで、現在地が日が差し込む庭ではなく薄暗い地下牢ならば悍ましさを感じたかもしれない。もっとも、背後にいる人物はそういう場所での仕事を主としているのだ。どんな人物なのかも分からないが、きっとこういう口調にもなるのだろう。
そう己に言い聞かせこれ以上の興味は抱くまいと律し、テオドールは「それで」と話を改めた。
「シャルロッテについては何か分かったか?」
「こちらに関しては難航しております。申し訳ありません」
「いや、気にするな。貴殿らの責任ではない。……ところで」
真剣な声色のままテオドールが呟くように話し出した。
背後から聞こえてくる声は「なにか」と話を動かしてくる。
「振り返って貴殿らを見てみたいんだが」
「なりません」
一刀両断され、テオドールが心の中で小さく舌打ちした。「そんなにはっきり断らなくても」と内心で騎士隊長らしからぬ愚痴を漏らす。
だがここで無理強いして見るわけにはいかず、「そうか」と一言で済ませておいた。
今自分の背後にいる人物が誰なのかをテオドールは知らない。
教えられているのは当り障りのない情報と『王族のみが関与できる部隊』という点だけだ。あの晩、捕らえた男達が連れていかれた先でもある。
そこがどんな部隊なのか、何人いるのか、どういう仕事を主としているのか……。気にはなるが知る必要が無いのなら探るまいと考えていた。
そんな部隊の一端を両陛下から借り受けて今に至る。
用途は捕らえた者達から吐かせた情報提供と、そしてシャルロッテについての情報提供。
前者は騎士隊内や国の上層部には共有しており、それを元に捜索や救助を行っている。対して後者はテオドールのみに留めている。国の部隊、それも秘密裏に動く部隊を個人が動かすのは良しとされないからだ。それが騎士隊長ならば猶の事。
だがそれでもこうやってシャルロッテについて調べてテオドールに個別に連絡をしているのは、他でもない両陛下から許可されたからである。
「両陛下の寛大さには感謝してもしきれないな」
「テオドール様の日頃のご活躍があってこそです」
「意外だな、世辞もうまいのか」
冗談めかしてテオドールが告げれば、背後の人物が笑った。……気がする。確認しようがないのだが。
そうして話の続きをと思ったのだが、背に感じていた気配がふっと消えてしまった。テオドールが「どうした?」と尋ねても返事はない。
こうなってしまっては振り返って良いものか、それとも背を向けたまま去るべきか。どうすべきかとテオドールが悩んでいると「お父様」と愛娘の声が聞こえてきた。見れば道の先からシャルロッテが駆け寄ってくる。
「お父様!」
「どうしたんだ?」
駆け寄った勢いのままぱふっと抱き着いてくるシャルロッテを受け止め、柔らかな銀糸の髪を撫でてやる。
シャルロッテが瞳を輝かせてテオドールを見上げ「クッキー!」と威勢の良い声をあげた。
「クッキーがどうしたんだ? 食べたいなら用意させるか買ってこよう」
「ちがうの。ロッティがクッキーをやいたんです!」
「シャルロッテが?」
「はい! お父様どうぞ」
持っていたカゴから袋を取り出し、シャルロッテが手渡してくる。
中に入っているのは確かにクッキーだ。少し歪だが、『娘が焼いたクッキー』と分かればテオドールの視界の中でクッキーが輝きだす。
なんて美味しそうなクッキーだろうか。
これをシャルロッテが、この小さな幼子が、
あの晩、馬車の荷台に座り泣きもせず自分を見上げていた名前も無かった幼子が、
焼いたというのか……。
「…………っ!」
言葉を詰まらせてテオドールが目頭を押さえれば、シャルロッテが「お父様!?」と驚きの声をあげた。
「お父様、悲しいの? 痛いの? クッキーはきらいですか?」
「いや、大好きだ。シャルロッテが焼いてくれたクッキーならなおさら」
心配させてしまったことを詫びてシャルロッテの頭を撫でれば、彼女は嬉しそうに笑ってくれた。
だが次の瞬間にはふと周囲を見渡しだした。どうしたのかと問えば、不思議そうに首を傾げて「だれもいない?」と呟くように尋ねてくる。
「お父様、さっきだれかとお話ししてませんでしたか?」
「それは……。仕事の人と話をしていたんだ。だけど照れ屋で、シャルロッテと会うのが恥ずかしくて隠れてしまったんだ」
無理やりに取り繕ってみたものの、無理があるか、とテオドールが内心でごちた。
現に、シャルロッテこそ信じてくれたものの、お付きのメイドであるリシェルは困惑している。それでも深く追求するまいと判断してくれたようで、テオドールと視線が合うと目を伏せて小さく頭を下げた。何も言いません、探りません、そんな無言の宣言だ。
「ロッティも、はじめての人はドキドキしちゃいます。お父様のおしごとのひとは何人ですか?」
「人数は……」
何人いるのか分からずテオドールが返答に迷っていると、鈴の音が聞こえてきた。
チリン、チリン、と高く二度響く。
気付いたシャルロッテとリシェルがきょろきょろと周囲を見回した。
「二人……。お父様の仕事のひとは二人だ」
「ふたり! ロッティね、お父様とお母様とお兄様達にクッキーをやいて、小さいのもよういしました!」
「これを渡しても良いのか?」
「はい。あのね、お父様にあげたのは、お父様とお母様とお兄様達にあげるので、ハートのクッキーが入ってるんです」
「ハート?」
「ハートのクッキーは、大好きでだいじなひとにあげるクッキーなんです」
だから分けたのだと話しながら、シャルロッテがカゴから袋を取り出す。
先程もらったものより一回り以上小さい袋で、中にはクッキーが二枚入っている。どちらもハート型ではなさそうだ。
それを二つ、「どうぞ」という可愛らしい言葉と共に差し出してきた。
「そうか、ハートのクッキーは家族にだけか。それは嬉しいな」
思わず口元が緩むのを実感しつつ、差し出されるクッキーの袋を受け取る。
見守っているメイドのリシェルも表情を和らげており、微笑まし気と言いたげだ。きっとかなり緩んだ表情なのだろう。
「仕事のひとにはお父様が渡しておこう。きっと喜ぶ」
愛しく優しい娘の頭を撫でながら話せば、シャルロッテが嬉しそうに「はい!」と元気の良い返事をした。
そうしてリシェルを連れて庭を去っていく。どうやらこの後に家庭教師が来るらしく、彼女にも用意をしているらしい。「せんせもよろこんでくれるといいな」「きっと喜んでくれますよ」という二人の会話が聞こえてくるが、なんと穏やかで微笑ましいことか。
二人が去っていき、僅かにシンと周囲が静まった。
次いでテオドールの背後にふっと人影が掛かった。どこに行っていたのか定かではないが、戻ってきたのだ。
「そういうわけだ。正面から渡せないのは残念だが、このクッキーはここに置いていこう。持っていってくれ」
「まさか我々にもくださるとは。なんとお優しい。お礼を直接お伝えできず申し訳ありません」
「シャルロッテには俺から伝えておく。それに、感謝なら日頃の働きで返してくれれば十分だろう」
「それは……、より情報を引き出すのに精が出そうですね」
背後の人物が笑った。……気がする。これもまた確認しようがないが。
一瞬テオドールの背にゾワリと怖気が走ったが、次の瞬間には怖気も人の気配も消え去ってしまった。まるで風のように。
どこかに行ったのだろう。念のためしばらく待ってから振り返れば、そこには誰も居らず外の景色だけが広がっている。
誰も居らず、何も無い。格子の縁に置いたクッキーの袋二つも無くなっている。
「公爵家令嬢からの有難いプレゼントだ。ハートのクッキーは俺達家族だけのものだけどな」
楽し気に話し、テオドールはさっそくお茶の時間にしようと上機嫌で歩き出した。
◆◆◆
クッキーを配り終え、夕食や就寝の準備を済ませ、後は寝るだけ。
パジャマに着替えさせてもらい、布団に入ってフレデリカを待とう……、となり、シャルロッテは「まって」と部屋を出て行こうとしたリシェルを呼び止めた。
「どうなさいました? 奥様がいらっしゃるまで一人で不安ならお側におりますよ」
「ちがうの。あのね……、これね……」
机の上に置いたカゴへと近付く。中にはまだ幾つか配りきれなかったクッキーの袋が残っており、そのから一番下に隠しておいた袋を取り出した。
小さな袋にはクッキーが四枚。それと、目印につけた赤い小さなリボン。
「これね、リシェルの分なの」
どうぞ、とシャルロッテが差し出せば、リシェルが驚いたと言いたげに目を丸くさせた。
「私に……? ですが、私も焼きたてのクッキーを頂きましたよ」
「あれはね、やけたねって皆でおいわいでたべたから。でもこれは、ロッティからリシェルに」
もう一度「どうぞ」と更に手を伸ばして差し出せば、リシェルが受け取り……、そのままシャルロッテを抱きしめてきた。
温かくて柔らかい抱擁にシャルロッテもまた彼女の体に手を回してぎゅうと抱き着く。
「ありがとうございます、シャルロッテ様。また一緒にクッキーを焼いて、クラリス様に並ぶくらいに上手くなりましょうね」
嬉しそうなリシェルの言葉に、シャルロッテもまた「はい!」と嬉しさで声を弾ませて答えた。




