06:たくさん愛して幸せに
シャルロッテについて問うテオドールの表情は真剣そのものである。
対してレスカは落ち着き払った態度のまま、机の上の用紙にチラと視線をやった。
そこにはシャルロッテについてが書き記されている。所謂カルテだ。もっとも、ブルーローゼス家に来るまでについては全てが憶測でしかないのだが。
「遊びってことで幾つか試してみたところ、今この時点では緊急性の問題はなさそうですね。……あくまで、今この時点では、ですが」
「どういう意味だ?」
「あの子はまだ自分が置かれていた環境を良く分かってないみたいです。ただ漠然と『怖かった』『暗かった』『嫌だった』という感情があって、自分の立場も『きっと嫌な目に合うと思ってた』と具体性がない。とにかく大きな不快感で括ってる」
シャルロッテはまだ幼く、そのうえ馬車の荷台で育ってきたため、世間のことも世界のことも何も知らない。
ゆえに自分が置かれていた環境の異質さや劣悪さを理解しきれていないのだ。
捕まった者達がどんな扱いを受けていたか、売られた先でどんな目に逢うのか。……そして、助けられずにいたら自分がどんな末路を辿っていたのか。
それら全てを理解しきれず、ただ漠然とした『怖くて暗くてとても嫌で、それが続くと思ってた』と処理している。
「あの子が成長していけばいくほど、他の人と関われば関わるほど、過去の環境の劣悪さや異常さを否が応にも理解してしまう。その時にどれだけ傷付くのか、どんな反応をするのか、流石に今の段階じゃ分かりません」
「そうか」
「せめてもっと幼ければ良かったんですが……」
シャルロッテがもっと幼く、それこそ生後数ヵ月や1歳程度の赤子であったなら、過去の事を綺麗さっぱり忘れて別の記憶を擦り込むことも出来ただろう。
養女であることを話さなければならないとしても、『理由あって孤児院に預けられた』だのと相応の理由をつけられる。偽るといえば聞こえは悪いが、時には誤魔化しも必要だ。どのみち傷付くにしても、その傷を浅くしてやることは出来た。
だがシャルロッテは推定とはいえ五歳。記憶もしっかりと残っている。
今後どれだけ楽しく眩い出来事で人生が覆われたとしても、忌々しい記憶は根底にこびりついて消えはしない。
それがいつ、どのような形で、なにを切っ掛けに、どう作用するか。医者であっても推測することは出来ない。
この話に、テオドールが深く一度頷いた。
「成長を止めることは出来ないし、止めることはシャルロッテのためにならない。いずれくると覚悟しておこう……。それで、対処法は?」
「こればっかりはどうとも言えませんよ。今の段階で焦って手を施しても、それが逆効果になる可能性もありますからね。人の心も記憶も対処に正解がなく、突然、ふとした瞬間にパンと弾けることだってあるんです」
当時は苦とは認識しなかったものが、その後ほんの些細なことを切っ掛けに記憶に蘇り、心を大きく蝕むことはそう珍しいことではない。
ゆえに『触れない』というのもまた効果のある手段なのだ。先送りと考えれば不満もあるだろうが。
「今はとにかくあの子の『今』と『これから』を大事にしてください。どれだけ自分が愛されているか、自分の未来がどれほど明るいか、それが『その時』のシャルロッテの支えになるはずです。今のところ、言えるのはこれだけです」
医者として明確な指示を出せないことがもどかしい、そう言いたげな口調でレスカが話す。
対してテオドールは真剣な顔付きで考えを巡らせるも、すぐさま迷いのない声で「分かった」と断言した。
「シャルロッテを愛して幸せにしてやればいいんだな。それなら俺の、いや、ブルーローゼス家の方針となんら変わりはない」
決意の表れか、テオドールがガタと立ち上がった。
その表情にも迷いはない。男らしく勇ましく、使命感と責任感に満ちている。騎士らしいとも言えるが父親らしいとも言える表情だ。
その力強い断言にレスカが安堵交じりの苦笑を浮かべた。
「定期的に話をしに行きますし、なにかあったら呼んでください。すぐに駆け付けます」
「あぁ、助かる」
よろしく、と一言残し、テオドールが部屋を去っていった。
その背中は今すぐにでもシャルロッテに会いたい、抱き上げてやりたいと言いたげである。
そんなテオドールを待っていたのは……、
「お父様!」
と、ぱふっと抱き着くシャルロッテである。
レスカとの話を終えてミアとお茶をしていたが、今は父がレスカと話をしていると知り、部屋の前で待っていたのだ。
早くテオドールに会いたいという気持ちと、そして出てきたタイミングで抱き着けばきっと驚くはずという少しの悪戯心。
現にテオドールは驚いたようで目を丸くしており、シャルロッテがクスクスと笑う。……のだが、次の瞬間にはシャルロッテの体がひょいと浮かび、こちらもまた目を丸くさせた。テオドールが抱き上げたのだ。
「待っていてくれたのか」
「はい。ロッティがここに居たら、お父様が『わぁ!』ってなるかなって思って。お父様、『わぁ!』ってなりましたか?」
「そうだな。こんなに可愛い娘が抱き着いてきたから驚いた。シャルロッテは策士だな」
嬉しそうなテオドールの言葉に、シャルロッテもまた彼の首元に抱き着いて笑った。
そうしてゆっくりと地面に降ろす……、となったのだが、足が地面に着く直前まできて、シャルロッテの体が再び持ち上げられた。
言わずもがなテオドールだ。降ろそうとしたのに再び抱き上げてきた。
「お父様?」
「このまま馬車まで行こう。いや、馬車までだけじゃない。家についてもずっと抱っこしていてやるからな」
シャルロッテを抱き上げたまま、さっそくとテオドールが歩き出した。
◆◆◆
テオドールに抱っこされたまま馬車に乗り込み、テオドールの膝の上に座ったまま馬車に揺られる。
ミアとの別れ際、見えなくなるまで窓から手を振れば彼女もまたずっと手を振っていてくれた。「またね」と約束したから悲しくはない。テオドールも「会いたくなったらいつでも連れてきてやる」と言ってくれた。
そうして馬車がブルーローゼス家に到着し、テオドールに抱っこされたまま屋敷に戻る。
出迎えてくれたのはフレデリカと兄達。無事に終わったのかと労い、きちんと話をしたシャルロッテを偉い立派だと褒めてくれる。
……その間もシャルロッテはテオドールに抱っこされたままだ。
その後もずっと、夕食の場に行く時も、食後も、食後の散歩も、抱っこのままである。
最初こそ不思議そうにしていたフレデリカと兄達だったが、後から帰ってきたグレイヴと話をすると何やら納得してしまった。――グレイヴもまたレスカから話を聞き、それを家族に伝えたのだ――
それどころか、
「父上、腕がお疲れでしょう。私が変わります」
「ジョシュア兄さんだってさっきまで仕事で疲れてたんじゃない? シャルロッテ、次は僕のところにおいでよ」
「……ぼ、僕は、あまり腕力に自信がないから短時間だけど、で、でも僕も抱っこはしてあげられるよ」
「シャルロッテ、俺でも良いからな!」
と、兄達が代わろうとしてくる。
ちなみにこの争奪戦を制したのは、横からひょいと手を伸ばしてテオドールの腕の中からシャルロッテを攫ったフレデリカである。
さすが五児の母。抱き上げる動きのスムーズさと言ったらない。
「さぁシャルロッテ、お部屋に戻りましょう。疲れたでしょうから今日は早く寝ましょうね」
「お母様、あのね、ロッティ、自分で歩いてお部屋に行けます」
「あら、抱っこは嫌い?」
問われ、シャルロッテはむぐと一瞬言い淀み……、
「……好き」
と、フレデリカの首に抱き着いた。
どうして皆が自分を抱っこしてくるのかは分からないが、抱っこされることは嫌いじゃない。むしろ大好きだ。
全身を預ける安堵感。ぎゅっと抱きしめられて、体に身を寄せて、触れたところから温かさが伝わる心地良さ。いつもは見上げていた顔が近くにあり、声も普段と違い間近から聞こえてくる。歩くたびにゆらゆらと体が揺れるのも楽しい。
フレデリカの首元に抱き着いたままそれを伝えれば、クスクスと彼女が笑うのが耳の近くで聞こえてきた。振動もまた触れた箇所から伝わってくる。ふわりと鼻を擽るのは母の香りだ。花のように甘くて心が落ち着く。
「それじゃあ、お部屋に行きましょうね」
フレデリカが歩き出す。
シャルロッテは彼女に抱き着いたまま、見送ってくれる父と兄達に手を振った。
「おやすみなさい、お父様。おやすみなさい、ジョシュアお兄様。おやすみなさい、ライアンお兄様。おやすみなさい、ハンクお兄様。おやすみなさい、グレイヴお兄様」
一人一人におやすみの挨拶をすれば、彼等もまた愛おしそうに目を細めて挨拶を返してくれた。
◆◆◆
翌朝、リシェルの優しい声で目を覚ましたシャルロッテは、もぞもぞと布団から這い出てベッドから降りた。
「…………」
「どうしました、シャルロッテ様。具合が悪いのでしょうか」
「ううん、ちがうの。あのね、昨日ずっと抱っこだったから、ロッティ、立ってるなって」
地面に立つのは久しぶり、そうシャルロッテが話せばリシェルが笑い、「まだまだ抱っこは続きますよ」とシャルロッテの体を抱き上げてきた。




