03:公爵令嬢シャルロッテ・ブルーローゼス
「最初の男児は貴方が、最初の女児は私が名前を付ける約束だったじゃない。忘れたの? テオドール」
一度閉めた扇子を再び開いてハタハタと扇ぎながらフレデリカが問う。
これに対してテオドールは渋い顔をした。
「そうだったな。だがまさか二十年以上も昔のことを持ち出されるとは思わなかった」
「シャルロッテ以上の良い案があるなら一応は聞いてあげるけれど」
「……シャルロッテか。シャルロッテ。うん、良い名前だな」
何度か口にすることで馴染んだのか、テオドールが納得するように頷いた。
次いで彼が視線を向けてくるので、少女改めシャルロッテはきょとんと目を丸くさせてしまった。
「シャルテッテ?」
「シャルロッテだ」
「シャルルテッテ?」
「言い慣れないか。それなら縮めたらどうだろう。シャルロッテなら、縮めたらシャーかロッティだろうか」
「ロッティ」
発音しやすそうな単語を口にすれば、テオドールが穏やかに笑った。
「あぁそうだ。シャルロッテ・ブルーローゼス。可愛い我が家のロッティ」
穏やかなテオドールの声。周りの者達も「愛らしい」「お似合いです」と褒めてくれる。
それどころかシャルロッテがもう一度「ロッティ」と自分を呼べば拍手までしてくれた。誰もが目尻を下げて溶けそうな表情で見守ってくれる。
「ロッティ……」
今まさに与えられた名前を口にする。
馬車の荷台で生活していた中で、何度も「あなたの名前は?」と聞かれてきた。だけど答えられず、名前は無いと言うとみんな悲しそうな顔をして、中には涙ながらに抱きしめてくれる人もいた。
だから名前が無いのは悲しいことだと分かっていた。だけどどうやって名前を貰えば良いのか分からなかったし、きっと自分は貰えないんだと思っていた。
そんな『名前』。それが、今、この瞬間に与えられた。
シャルロッテ、愛称はロッティ。
『あれ』でも『これ』でもない、シャルロッテに与えられたシャルロッテのための名前。
「……うふふ」
嬉しい、とシャルロッテが笑い、思わず緩む頬を押さえた。
その瞬間、周囲にいた誰もが更に目尻を下げた。なんて愛おしいのだろうか、と声に出さずとも溶けた顔が訴えている。
そんなやりとりの中、パンッ!と高く響いた音が割って入ってきた。
フレデリカだ。彼女が手にしていた扇子を閉じる事で音を出し、話を止めて己に視線を集めさせたのだ。
「話が盛り上がるのは良いけれど、子供はもう寝る時間よ」
「そうか。シャルロッテ、お父様は仕事に戻るから、お母様にベッドに連れて行ってもらいなさい」
優しい声色で告げ、テオドールがシャルロッテを地面に降ろす。
その際の「おやすみ」という声は今までで一番優しく、そしてまたも頭を撫でてくれた。
「おやすみなさい、……お父様」
シャルロッテが照れながら父と呼べば、テオドールが一際嬉しそうに目を細める。
そうして最後にもう一度シャルロッテの頭を撫で、部下を引き連れて屋敷を出て行った。
その背中は先程までの穏やかなものとは変わって、凛々しく力強さがある。数人が見送りのために彼を追っていった。
扉が閉まると、次いでフレデリカがシャルロッテを呼んだ。
「さぁ、子供はもう寝る時間よ。でも眠る前にホットミルクを飲んだ方がいいかしら。その後に読む絵本を選ばないと。お母様とお部屋に行きましょう」
「お母様……」
「抱っこが良い? それとも手を繋ぐ?」
どうする? と尋ねてくるフレデリカの口調は凛としてはきはきとしている。だがそこに返答を急かすような色は無く、シャルロッテに手を差し伸べると穏やかに微笑んでくれた。
そんなフレデリカを見つめた後、シャルロッテはそっと彼女の手を取った。細くしなやかな指。きゅっと握れば優しく握り返してくれた。
「おててつないでくれますか?」
「えぇ、良いわよ。それじゃあお母様と一緒にお部屋に行きましょう」
フレデリカがゆっくりと歩き出す。
それに合わせてシャルロッテも歩き出せば、誰もが「おやすみなさいませ」と見送ってくれた。
「ここが今日からあなたのお部屋よ。カーテンももっと可愛らしいものにして、扉に飾る可愛いプレートも用意しないといけないわね」
「ロッティのお部屋……」
フレデリカに案内された部屋は、シャルロッテが今までいた馬車の荷台とは比べものにならないほど広く立派な部屋だった。
中央には天蓋付きのベッドが置かれており、柔らかそうなシーツの上には可愛らしいぬいぐるみが並んでいる。そこに置かれている一枚の服を手に取り、フレデリカが「さぁ着替えましょう」と手招きしてきた。
「パジャマは間に合わなかったけれど、メイドが大きめのシャツを持ってきてくれたの。それとぬいぐるみも。今日が休みの子もわざわざ持ってきてくれたのよ」
「ぬいぐるみ?」
「そう。ベッドには柔らかなぬいぐるみが無いと寂しいでしょう? 明日みんなにお礼を言いましょうね」
「はい」
パジャマに着替えさせてもらいつつ、シャルロッテはコクリと頷いて返した。
そうしてベッドに入るように促されて従えば、柔らかな布団をそっと体に掛けられた。ふわりと軽く、そして暖かい。今まで寝るときに使っていた薄い毛布とは大違いだ。
「大丈夫? 寒くない?」
「だいじょうぶです。こんなにふかふか初めて」
「そう……、良かった」
「あ、あのっ!」
意を決したとシャルロッテが声を掛ければ、フレデリカが穏やかな声で「どうしたの?」と尋ね返してくれた。
そんな彼女に、抱きしめていた人形を差し出す。
「この子にも、お名前をつけてほしいです」
「このお人形に?」
「ずっと一緒だったの。だから」
今日、自分はシャルロッテという素晴らしい名前を貰った。
なんて嬉しいのだろうか。シャルロッテと呼ばれるたびに嬉しさが増して、返事をすると更に気持ちがふわふわする。
だからこの人形にも素敵な名前を。
そうシャルロッテが話せば、フレデリカが優しく微笑んで頭を撫でてくれた。
次いで彼女の手が人形の頭にそっと触れる。指の先で撫で、枕元に置くように促してきた。
「それなら、明日一緒に素敵な名前を考えましょう」
「はい……!」
「それじゃあ今日はもう寝ましょう。絵本を読んであげるから目を瞑って」
フレデリカの手が優しくシャルロッテの頭を撫で、次いで人差し指の腹で目元を擽ってきた。
そのくすぐったさに笑いつつそっと目を閉じれば、最後にツンと鼻先を突いて指が離れていった。だが寂しさはない。なにせ離れていく指の代わりに、今度は優しい声がシャルロッテの耳に届いたのだ。
穏やかな口調で語られる物語。一つ一つの言葉が耳から入り胸を温めていく。その感覚に促され、シャルロッテはゆっくりと眠りについた。
◆◆◆
スゥ、スゥ……、と寝息がシャルロッテの小さな唇から漏れる。
しばし見つめて熟睡していることを確認し、フレデリカは微笑むと同時に膝に置いていた絵本をそっと閉じた。音をたてないように立ち上がり、ずれてしまった布団を掛け直してやる。
シャルロッテはよっぽど深く寝入っているようで、布団を掛け直しても、額にキスをしても起きる気配は無い。
そんなシャルロッテを残して部屋を出れば、数人のメイドが待っていた。
「いつ起きてしまっても良いように、必ず誰か一人は部屋にいるようにしてあげて。それで仕事が回らなくても仕方ないわ」
「かしこまりました」
「パジャマは大きめのシャツで代用できたけど、洋服はちゃんとサイズに合ったものを用意してあげないと。朝一に買いに行きたいから馬車を用意しておくように御者に伝えておいて」
「奥様が自ら行かれるんですか?」
「もちろん。可愛い娘の記念すべき第一着よ。本当は仕立ててあげたいけどそうもいかないから、せめて選んであげないと」
それが母の務めだと断言するフレデリカの顔は、もうすっかり母親のものだ。娘を愛する母性と、娘を愛し育てる使命感に溢れている。
これにはメイド達も穏やかに微笑むと同時に頭を下げ、各々割り振られた仕事をこなすべく別れていった。
そんな中、一人がフレデリカに声をかけた。
「ジョシュア様達にはまだお話をしておりませんが、お呼びしましょうか?」
指示を仰いでくるメイドに、フレデリカが僅かに考え込んだ。
ジョシュア・ブルーローゼス。フレデリカとテオドールの息子であり第一子。彼の他にブルーローゼス家には三人の男児がいる。
男が押し寄せてはシャルロッテが怖がると思い彼等にはまだ伝えないように止めておいた。幸い、既に寝ているのか、あるいは屋敷が広いため各々の自室まで騒ぎが届いていないのか、彼等が気付いている様子は無い。
といっても、このまま説明しないわけにはいかない。シャルロッテを娘に迎えるということは彼等の妹になるのだから。
だけど……、
「面倒くさいから今夜はもう寝ましょう。優先すべきは、息子達への説明より淑女のシンデレラタイムよ」
手にしていた扇子をハタハタと扇ぎながら、フレデリカが颯爽と歩き出す。
息子達の部屋……ではなく、己の寝室へと向かって。




