29:兄弟なのに
人形が動いた。それどころかゆっくりと起き上がった。
だがその動きに人間のような柔らかさはない。関節部分だけを器用に曲げた、まるで操り人形かのような動きだ。だが操り糸なんてどこにもない。もちろん操り手もいない。
この光景に数人が小さく悲鳴をあげ、年若いメイド達は恐怖で身を寄せ合う。一度目撃している者達でさえも信じられないと言いたげに顔色を青ざめさせた。
これにはさすがにブルーローゼス家の者達も驚きを隠せず、テオドールに至ってはフレデリカを庇うように彼女の前に腕を伸ばしていた。
「……確かに動いているわね」
ポツリと呟いたのはフレデリカ。、
普段は優雅の一言に尽きる彼女だが、今は表情が強張り動揺を隠しきれていない。
それでも子供や使い達の前で取り乱すまいと己を律したのか、一度深く息を吐くと落ち着いた声色でハンクを呼んだ。
「ハンク、貴方がその人形を動かしたの?」
「僕がというよりは、中にいる精霊が僕の言葉を聞いて動いてくれた、という感じです」
「……精霊。そう、精霊がいるのね」
フレデリカの言葉はハンクにというより、自分の中に落とし込むのに近い。
次いで己を庇うテオドールの腕に触れた。案じる夫に「大丈夫よ」と宥め、周囲の者達にも「落ち着きなさい」と声を掛ける。
その間も人形はカタカタと動いており、どうしていいのか迷ったのか、その場に座り込んでしまった。
もっとも、中身は精霊であっても器は人形。座る仕草は人間のものと違い柔らかさがなく、カクンと関節を曲げる不自然なものだ。その異質な動きに「ひっ」と小さな声がどこかから上がった。
「せいれいさん……」
シャルロッテがテーブルの上の精霊に近付こうとする。
だがその腕を誰かに掴まれた。
グレイヴだ。彼は不自然な動きをする人形をじっと見据え、その表情は一際険しい。シャルロッテが名前を呼んでも表情を和らげることはない。
元々大人びた顔立ちと優れた体躯もあってか、警戒を露わにすると到底十三歳とは思えぬ迫力を纏う。見習いとはいえ騎士。腰に剣を下げていれば今まさに引き抜いていただろう。
「シャルロッテ、あまり不用意に近付くな」
「グレイヴお兄様、あのね、せいれいさんね、いつもね、ロッティと遊んでくれるの」
泣きすぎて掠れた声でシャルロッテが必死に訴えれば、グレイヴが「精霊か」と小さく呟いた。
「ハンク兄さん、本当に人形を動かしているのは精霊なのか?」
ハンクに問うグレイヴの声は真剣みを帯びており、真っすぐに見据える瞳にも圧がある。
普段のハンクであれば気圧されていたかもしれない。とりわけ今のグレイヴは警戒心から普段以上の威圧感を纏っているのだ。たとえ弟相手といえども視線を逸らして小声で答え、話を終わらせてすぐに自室へ……。普段であればきっとそうしていただろう。
だが今は違う。
長い前髪ゆえにハンクの目線こそ分からないが、真っすぐに立つ姿と伏せることも逸らすこともなく正面から向き合う顔から、ハンクもまたグレイヴを見つめているのだと伝わってくる。
そうしてはっきりと「彼等は精霊だ」と告げた。その断言にはここで引くまいという強い意志が感じられる。
「本当なんだな」
「僕の話も、この状況も、信じられないのも無理はないと思う……」
弟に信じてもらえない兄の不甲斐なさを感じてか、ハンクの声に悲痛な色が混じり始める。
「それでも」と切に願えば、グレイブが真剣な表情で口を開いた。
「お、お化け、とかじゃないんだな」
という、あまりに真剣で、必死さすら感じさせる声。
シン、と室内が静まり返った。
その静けさを破ったのは、「お化け!」というライアンの声。
先程までは周囲と同様に怪訝な表情で人形を見ていた彼だが、今は妙に楽し気な顔でグレイヴを見ている。今の顔の方が彼らしいのは言うまでもない。
「グレイヴってば、お化けが怖いんだ」
「ちっ、違う! ただ気になっただけで。それに、騎士として剣で切れないものを警戒するのは当然だろ!」
「いや、良いんだよ。可愛い弟。どんなに立派に育ってもまだ十三歳、お化けが怖くて当然だね」
「だから怖くない! ……す、…少し、おばけなら、まぁ、気味が悪いなと思っただけで」
だから怖いわけではない。怖いというほどではない。
そう話すグレイヴの口調はらしくなくしどろもどろだ。他でもない兄であるライアンがこれに気付かないわけがなく、嬉しそうに目尻を下げて「良いんだよ、グレイヴ」と宥めている。
妙に、やたらと、異様に、優しい声で。
これに対してライアンを睨むグレイヴの眼光の鋭さと言ったらない。
「シャルロッテ、止めて悪かった。精霊の所に行くといい。だがけっしてライアン兄さんのところへは行っちゃ駄目だ。ライアン兄さんは性悪すぎる」
「やだなぁ、ちょっと揶揄っただけじゃん」
唸るようにグレイヴが話せば、ライアンが楽しそうに笑って両手を掲げて降参のポーズを見せた。
もっとも、このポーズもまたグレイヴを揶揄ってのものなのは言うまでもない。
そんな二人のやりとりを、シャルロッテは涙で潤んだ目で彼等を見上げながら聞いていた。きょとんと瞬きをすれば涙の粒がパラと落ちる。
それに気付いてか、ライアンが優しく目元を拭ってくれた。
「意地悪じゃないから安心してね、。ただ今まで知らなかったグレイヴの一面を知れて嬉しくって、ついね」
意地悪っぽく笑い、ライアンの手がシャルロッテの頬を撫でる。
ひんやりと冷たさを感じるのは彼の手が冷たいからか、それとも泣き過ぎてシャルロッテの顔が熱を帯びているからか。ライアンの手は不安を吸い込んでくれるようで、シャルロッテも自ら擦り寄ってひくとしゃっくりを上げた。
そのやりとりに加わったのはジョシュアだ。「知らなかった一面か……」と何か考え込むような様子。
いったいどうしたのかとシャルロッテが彼を見て問おうとし、だが言葉はひくとしゃっくりに変わってしまった。ライアンの手が落ち着かせるためかトントンと背中を叩いてくれる。お礼を言おうとするもまたしゃっくりが出た。
「私達は兄弟なのに互いのことを何も知らなかった。……ハンク、お前が精霊を見る事が出来ることも、日々彼等と向き合っていたことも、私達は知らなかった」
「……だ、黙っていてすみませんでした」
怒られていると考え、ハンクが謝罪の言葉を口にした。
俯きがちに視線を泳がすと途端に以前の消極的な彼に戻ってしまう。だがそんなハンクに、逆にジョシュアが謝罪をした。
「すまなかった」
と。
率直な言葉を、落ち着いた声で。
「え、ジョシュア兄さん……? なんで兄さんが」
「そもそも本来ならば兄弟として話せる関係を築いておくべきだったんだ」
「そ、そんなことは……」
「部屋で何かをしていたことは知っていた。だがそれを聞こうとせず、聞けるような関係を築こうともしなかった。『好きにさせよう』等という聞こえの良い言葉で目を背けていたんだ。その結果、こんな場で秘密を暴くことになってしまった」
兄弟としてもっと良い方向にもっていけたはずだ。
事前にハンクに何をしているのかを尋ねたり。否、尋ねずともハンクが打ち明けてくれるような関係を築くことができたのではないか。
いや、そもそも『打ち明ける』等という仰々しい過程こそ間違いなのだ。ハンクは物心ついた頃には精霊が見えていたというのなら、自分達もまた、物心ついた頃にはそれを知っていてもおかしくなかった。
他愛もないやりとりで知り、ハンクのことも、精霊のことも、人形作りについても、家族の一面として把握する。
そんな関係を築けることだって出来たはずだ。
自分達は兄弟で、十数年を一つ屋根の下で共に生きてきたのだから。
それなのに……。
そう語るジョシュアの口調には己の不甲斐なさと過去の怠慢への口惜しさが漂っている。
「精霊の話をする時、お前は『信じられないのも無理はない』と言っただろう。本当ならそんな考えをさせてはいけなかったんだ。一人で悩ませてすまなかった」
「ジョシュア兄さん……。そ、それを言うなら、僕だって、話せるように自分から動くべきだったんだ。兄さんたちのことを知ろうともしなかったし、自分のことを、知ってもらおうともしなかった……」
非は自分にもある。
そうハンクが話せば、真剣な表情で話を聞いていたジョシュアが口を開いた。
「それはそうだ。もちろんお前にも非がある」
と。
まさかの肯定に、ハンクはもちろん、ライアンやグレイヴ、周りの者達も目を丸くさせる。
精霊に寄り添っていたシャルロッテもきょとんとしてしまった。
「え……、じ、自分で言っておいてなんだけど、い、今の流れでまさか肯定されるなんて……」
「確かに兄弟として話ができるような関係を築けなかったのは私の責任だ。だがこれは同じ兄であるライアン、それに弟であるグレイヴの責任でもある。そして当然、ハンク、お前にも責任がある。私達は兄弟だからな」
「……兄弟。そっか、そうだよね」
ジョシュアの話にハンクがふっと軽く笑みを浮かべた。先程まであった強張った色も不安げな色も薄れた、肩の荷が下りたような笑みだ。
この話にはライアンとグレイヴも同意のようで、彼等に反論する様子は無く、それどころか顔を見合わせて苦笑している。二人もまた兄弟間で知り合おうとしなかった自覚があるのだろう。
次第に場の空気は穏やかなものになっていき、恐怖していた者達も安堵している。
人形が動く要因は分かった。恐れる必要はないことも判明した。それどころか兄弟の結束が強まったのだから、雨降って地固まるというものだ。
そう誰もが考え、一件落着と言いたげに兄弟のやりとりを見守っていた。
そんな中……、
「申し訳ありませんでした!!」
悲痛そうな女性の声が室内に響いた。




