02:はじめての「ただいま」
馬車の中でもテオドールに抱えられ、そうして辿り着いた城には数え切れないほどの者達が待っていた。
騎士はもちろん、城に仕えるメイドや給仕達、そして国の重鎮達。
夜遅く既に日付が変わろうとしているこの時間、本来ならば殆どが就寝しているはずだが、今夜だけは別だ。
そんな中、少女はメイド服を着た女性に連れられ給仕達の寮へと向かい、そこで体を洗ってもらった。
優しい女性。冷たい水を掛けることも乱暴に布で擦ることもせず、温かなお湯で擽るように拭ってくれる。
髪を乾かすときには水色のリボンをつけて「銀色の髪によく似合うわね」と笑ってくれた。それも、少女が片時も放すまいとしていた人形にも揃いのリボンをつけてくれた。
そうして再びテオドールのもとへと戻れば、数人と話していた彼はすぐさま抱き上げてくれた。
「綺麗になったな。寮の入浴設備はどうだった?」
「お湯がいっぱいでした。あわがモコモコで。それで、リボン、見て、リボンつけてくれました。お人形にも」
「そうか。似合っていて可愛いな」
テオドールが目を細めて微笑む。
次いで彼は少女を案内してきた女性へと視線をやった。
女性が一度恭しく頭を下げる。
「目立った外傷はありませんでした。髪や肌、歯を見ても、ぞんざいに扱った様子は無く、この子だけはそれなりに手入れをしていたようです。……それで、……ですが、その……」
「どうした?」
言葉を詰まらせて俯く女性にテオドールが声を掛け、次いで小さく息を呑み、「まさか」と切羽詰まった声を出した。
だがそれに対して女性は言わんとしている事を察したのか、首を横に振って否定した。
「この子に関しては心配するような事はありません。ですが、お湯をかけてあげたら驚いて……、温かいのは初めてだとはしゃいで……、それが不憫で……」
「そうか……。だがあまり泣いてくれるな、この子が心配している」
話しながら軽く揺らされ、少女は女性とテオドールを交互に見た。
女性が泣いてしまっていることは分かるが、どうして泣いているのか、どうして良いのかは分からない。
それでもとそっと女性へと人形を差し出した。
「泣かないで。お人形ぎゅってしますか?」
「ありがとう、優しいのね。お人形は大丈夫。貴女がぎゅってしてあげて……」
女性が目元を拭いながら優しく微笑む。
それを見て少女は人形を胸元でぎゅうと抱きしめ、テオドールを見た。穏やかに微笑んでくれる。
次いで彼は再び女性へと視線をやると、「もう心配しなくていい」と告げた。優しく穏やかで、それでいて力強い口調で。
「我が剣に、そしてブルーローゼス家の名に誓おう。娘は俺が守る。誰にも二度と傷つけさせない」
「どうかお願い致します。……娘?」
「あぁ、娘だ。そういえばリボンを貰ったんだったな、後日改めて礼の品をもってこよう。娘が初めて贈られた記念すべきリボンだ」
「……娘、ですか」
「娘、だ」
テオドールの断言は威圧感こそないものの、やはりはっきりとした力強さがある。
少女は二人の会話の意味が分からず、だが自分のことを言われているのだけは分かり……、
「むすめ、です」
と、彼等に合わせてキリリとした表情で告げた。どういう意味かは分からないが。
◆◆◆
城を出て、テオドールと共に向かったのは一軒の屋敷。
先程までいた城ほどではないとはいえ立派な屋敷だ。見上げていると自然と少女の口が開いてしまう。
その様が面白かったのか、少女を抱きかかていたテオドールが小さく笑い「お母様が待っているぞ」と玄関口へと向かっていった。
屋敷の中に入れば、出迎えたのは数人の男女。
皆が口々に「旦那様」とテオドールを呼び、彼の帰還を労っている。
次いで彼等の視線が向かうのはテオドールの腕の中にいる少女だ。どうしていいのか分からず、そして見られていることが気まずく、テオドールの首にぎゅうと抱き着いた。
「怖がることはない。この家のことをしてくれている者達だ」
「おうちのこと?」
「そう。みんな君のことを待っていたんだ。『ただいま』と言ってあげると良い」
「ただいま? ただいまって何ですか?」
「……家に帰った時にいう言葉だ」
テオドールに促され、少女は彼から自分を見る者達へと視線をやった。
誰もが背筋を正して立っている。こちらをじっと見ながら……。
その視線に晒されるとドキドキしてしまうが、それでもと少女はテオドールの服を掴んだ手にぎゅっと力を入れ、「あの……」と口を開いた。
「……ただいま」
様子を窺うように、恐る恐る。
それでも告げた帰宅の言葉に、待っていた者達は表情を綻ばせた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
返ってくる言葉のなんと温かいことか。
そんなやりとりに続いたのは「テオドール、戻ってきたのね」という声。
少女を見ていた者達が数歩下がって道を開ける。その奥から現れたのは一人の女性。
紫色の長く美しい髪。濃紺色のワンピースはシンプルながらに豪華で、立派な屋敷の通路をツカツカと歩いてくる様は絵になっている。だがその足早な歩みと凛とした麗しさは些か威圧感も与えてしまう。
怖い人かもしれない、と少女は臆してテオドールにしがみついた。
「おかえりなさいテオドール。任務大変だったわね。無事でよかった」
「心配かけたな。だが実を言うとこの後また戻らないといけないんだ。部下も残しているし、次の帰宅は朝になる」
「休んでいる暇もないのね。大変だろうけど、陛下から直々に承った仕事よ。私も誇りに思うわ」
「そうだな。ところで、フレデリカ、この子なんだが……」
言葉の途中でテオドールが腕の中の少女を軽く抱き直した。
ふわりと少女の身体が揺れる。それがまるで自分の出番だと言われているように感じ、少女は恐る恐るフレデリカと呼ばれた女性へと視線をやった。
麗しく、凛とした美しさのある女性。切れ長の目元には髪と同色の紫色の瞳。その瞳がじっと見つめてくる。
「この子が……。先に連絡は貰っているわ」
「詳しい話は戻ってきたら改めて伝える。とりあえず疲れているだろうから、今夜は休ませてやりたい」
「まったくあなたはそうやって勝手に決めて。突然こんな小さな子を娘にするなんて、報告を受けてどれだけ私が驚いたと思っているの?」
フレデリカが厳しい声色でテオドールを詰め寄り始めた。
これに対してテオドールは眉根を寄せつつ「だが」と反論しようとした。もっとも、その反論は続くことなく、フレデリカの「いいこと」という厳しい口調と、持っていた扇子を開けるパンッ!という音に被せられてしまったのだが。
咄嗟に少女がテオドールの首元に顔を埋めた。あの扇子で叩かれるのではと怖くなったのだ。
だが待てども叩かれることはなく、恐る恐る顔を上げて窺えば目の前で綺麗な扇子がひらひらと揺れていた。緩やかな風と共にふわりと良い香りがする。
「こんな夜中に言われて、肌に優しくて可愛いパジャマも、眠る前に読み聞かせてあげる絵本も、ベッドに並べるぬいぐるみも用意出来るわけがないじゃない」
「そうだな。……そうか?」
「そうよ。パジャマと絵本とぬいぐるみが無いと可哀想でしょ。なんとか急いで用意できたから良かったけれど」
まったくと言いたげにフレデリカが溜息を吐く。疲労というよりテオドールを責める溜息だ。
これにはテオドールも気圧されたのか「そういうものなのか……」と小さく呟いている。
彼の背後では不思議そうに首を傾げる者とうんうんと頷いている者で半々だ。
「ところでテオドール、この子の名前なんだけれど」
「あ、あぁ、連絡が先に行っていると思うが、名前が無いようなんだ」
「そう……、…………、………」
「フレデリカ?」
途端に声量を落として呟きだしたフレデリカを、テオドールが不思議そうに呼んだ。
だが返事は無く、フレデリカはいまだ真剣な表情でなにやら呟いている。……まるで何かの候補をあげるかのように。
「シンシア、マーレイン、フリージア、シャルロッテ、リーン……。シャルロッテ……、シャルロッテが良いわね。決まりだわ。おかえりなさい、シャルロッテ」
フレデリカが少女……、もとい、シャルロッテの頭を撫でてきた。
優しい動きだ。少し豪快なテオドールの撫で方とはまた違った、指先で髪の毛をふわふわと跳ねさせるような動き。
彼女の発言をきっかけに、周りにいた者達も「シャルロッテお嬢様」と口々に呼び出した。
これには少女、もといシャルロッテも首を傾げ……、だが自分の話だと理解して「はい」と返した。
フレデリカが満足そうに笑う。凛とした美しさのある顔立ちだが、目を細めて笑むと柔らかさを感じさせる。
「話が早いのは助かるんだが、名付けに関して父親の意見は……」
このやりとりにテオドールが若干切なげに呟いたのだが、それはフレデリカが扇子を閉じるパンッ!という軽快な音に掻き消されてしまった。




