絆
「……降ってきたようだな」
神崎が言った。
「ホントだ。この時期に珍しいな」
呼応して空を見上げる冴子。
灰色の空からは、白い雪が降っていた。
はらはらと舞い降りるそれは、フロントガラスに当たって掻き消える。
天気予報によれば、発達した寒冷前線の影響で、東日本は大荒れの天気になるらしく、関東の平野部でも初雪が降るらしい。
交通整理係が振る誘導棒と共に、車列が動き出す。それと共に冴子がアクセルを強めた。
「あの日も雪が降ってたな」
「えっ?」
その神崎の言葉で、ほのかな記憶が甦る。
それは新潟の祖父と共に、母と逃げだした夜の出来事。
都内では珍しく、雪が舞っていた日の記憶だ。
あのとき彼女は、別の人物の存在に気付いていた。少し離れた電柱の陰、煙草の煙がたなびいていたからだ。
それでもただの通りすがりだろうと思っていた。会話するでもなく、姿も現さなかったからだ。
それでもトラックに乗って去ろうとする際に、祖父と母が何度も頭を下げたのは覚えている。
全てを捨てて逃げ出すというのに、懐かしげな温かい笑みを浮かべていた。
「俺は"あいつ"の育て方を間違ったからな。……思えば一馬も同じことだったのかもな」
神崎の視線は遠いもの。
神崎は銀狼会会長実子である一馬の、教育係でもあった。
育てるという行為は、単純に物指しでは測れない。
どんなにずば抜けた教育だろうと、どんなに高価な物を与えようと、思い通りには育たない。
本当に大切なのは中身だ、心が健在でなければ、それは夢想に終わる。
「お言葉を返すようですが、理事長は間違ってなかったと思います」
堪らず反論した。
「……冴子」
一瞬の沈黙。
遥か上空を一機のセスナが通過する。
「少なくても、最初にあたし達が会った頃の一馬は、ホントに立派な男でしたよ。誰よりも正義感に溢れてて、そのくせ他人に対する礼儀も出来てて、なによりあたしら異性には優しかった。じゃなきゃ、葵さんも、あたしだって惚れたりはしなかった」
それは冴子なりの率直な意見だ。
夢に溢れて、未来に憧れ、生きているだけで楽しかったあの頃の記憶。
勢いばかりが空回りして、右も左も分からなかったあの頃。
当然金もなく、その日を過ごすだけで精一杯。
それでも胸を張って言える、あれこそが青春だったと。だから間違いだったの一言で、片付けて欲しくはなかった。
神崎の返答はない。窓の外に視線を巡らせて、静かに聞き入っている。
辺りに広がる東京の姿は、まるでジャングルのようだ。幾多のビルが連なりごみごみしている。
右手方向には建設中の東京スカイツリーが見える。今でも巨大な姿だが、再来年の竣工までには、世界一の電波塔になるらしい。
空を貫くその姿は、まるで神話の中のバベルの塔そのものだ。
その姿をわき目で窺う冴子。いかんともし難い、堪らぬ感情が込み上げた。
結わえた髪を解いて、指で撫でる。吹き込む風に髪がふわりと揺れた。
「一馬が変わったのは、理事長のせいなんかじゃないっすよ。……ただ時代があいつを変えたんだ」
言い訳なんかする気はなかった、責任転嫁するつもりもなかった。だけどそう思うのが最適だと感じた。
「なんていうか、与えられた物は、利用するのが人間でしょ? 文明は益々発展していく。人はその手を伸ばして、空まで支配しようとする。真っ黒な夜を光で照らして、昼間に変えてしまう。まるで神様のやり方に逆らってるみたいだ。罰当たりなことかも知れない。だけどそれは、あたしらからしたら当たり前なんだ。心のどこかでは罰当たりだと思っても、ついついそれに頼ってしまう。それを利用して、更なる発展を目指すだけ。もちろんあたしは、神様を信じるほど信心深くないけど」
世の中は目まぐるしく変化していく。
それは見た目の外観だったり、経済だったり、流行だったり、ムーブメントだったり、お笑いだったり、いくつもの要素に促されている。
それに踊らされて、人々は様々な商売に励んでいく。初心を忘れ、志を棄てて、時代に沿った生き方をしていく。
もしかしたら悪どいやり方かも知れない。法に引っかかるギリギリの手段なのかも知れない。
だけどそれも間違いではない。生きるために必死なだけ。
それのなにが悪いというのだろう。人は変わるものだ。世の中の流れに沿って、心まで流されていく。それが成長するという意味であって、この世界を大きくする手段でもある。
もちろんそれが正解とはいえない。流されて突き進んだ先に待つのは、後悔だけかも知れない。法を犯して捕まってしまうかも知れない。
それを痛感しても、立ち止まる訳にはいかない。なりふりかまってはいられない。
出遅れたら、時代から取り残されていくだけだから。
押し倒されて、流されたら、二度と浮き上がることは出来ないから。
悔しいけど、それが人間のあるべき姿だから。
「それは"あの人"だって同じことだ……」
饒舌だった冴子の言葉が止まる。
ふーっと息を吐いて、煙草を灰皿に揉み消した。
「……"あの人"がお袋にした行為は、今でもゆるせません。多くの人に迷惑をかけて、その反動かは知らないが、お袋に暴力をふるって……」
冴子自身、震えているのは理解していた。それが怒りなのか、悲しみなのかは自分でも理解出来ない。
それでもそれと向き合う覚悟はあった。
「だけどお袋は、最後の最後では、許したと思うんだ。だってお袋が本気で惚れたから、あたしが存在してるんだから」
時代は流れ続ける、人の思いも変わる。
それが発展であり、人が成長する為の糧だ。
そして過去は写真の中だけに存在して、闇の彼方に封印されていく。
だけど忘れはしない。そこには人の心が存在して、記憶の片隅ではいつでも鮮明なのだから。
この果てしない東京の空の下、二人は出逢い、激しい恋に落ちて、新たなる命が生まれたのだから。
例えその期間が短かったとしても、その時の感情は本物なのだから。
そして続く沈黙。バックミラー越しに貫く神崎の鋭い視線。
それには流石の冴子も、戸惑うだけだ。勢いとはいえ、身内だとはいえ、余計なことを口走ったと後悔する。
「お前も大人になったな」
「えっ?」
「お前みたいな女には、あの城島って男なんかが似合いなんだろうが」
普段の神崎とは思えぬ悪い冗談だ。
おそらくは気まずい空気を和まそうとしている。
口にこそ出さぬが、身内としての優しさが含まれていた。
「やだな理事長、悪い冗談だ。 あたしはあんな軽い男は好きじゃない。なにより商売仇っすよ」
それを察して冴子の表情が幾分か和らいだ。
「もちろん半分は冗談だ」
「半分って?」
「警察の情報力も、侮れないってことだ。……俺が"あいつ"の居場所、ずっと捜してたのは知ってるか? おそらく城島は、俺とお前の素性から、その存在に気付いた。そしてその居場所を探索した。その上で俺との取引の材料にしやがったのさ」
しかし神崎の表情は真面目そのもの。城島の名を介して、大切なことを伝えようとしている。
「俺だって"あいつ"のことは許してるんだ。組とは縁を切った、償いとして永い務めも果たした。なにより俺にとっては家族だ。"あいつ"が居なきゃ、俺とお前が出会うこともなかっただろうしな」
それは誤魔化せない、もうひとつの絆。二人にとってなくしてはならない、大切な絆。
「あいつは生きてるらしいぜ。勝浦で漁師をしてるそうだ」
目頭が熱くなった。涙で視界を奪われないように、指でごしごし拭った。
「無理にとは言わん。嫌ならそれでもいい。だけど落ち着いたら、会いに行ってみな」
それでもその表情は笑顔。心の奥底から、ほっこりした気持ちが込み上げた。
これは短編です。
本編、摂氏一万度の恋人たち、のひとコマです