都会の空の下で
ホテル・ニュートーキョーは、都心の一角にある。
周りを公園に囲まれていて、多くの樹木の姿も見受けられる。いわば都会のオアシス、ここに来れば荒んだ心も癒される。
とはいえ赤城冴子には、それを感じる余裕などなかった。
慣れない化粧で目頭がひくついている、シャツとネクタイで少しばかり息苦しい。
後ろに撫で付けた髪を、バリバリと掻きむしりたい衝動に駆られる。
もちろんそんな個人の感情、この場で見せる訳にはいかない。
身を切る寒さもそうだが、心まで締め付ける緊張感が、それを良しとはしなかった。
ホテルエントランスには、黒塗りのメルセデスが三台停められていた。
それと並列するように、ダーク系のスーツを着込んだ者達が、直立不動で立ち並び、物々しい空気を放っている。
その内のひとりが冴子だった。
別の入り口では、他の客やドアボーイが怪訝そうにチラ見していくが、それさえもお構い無し。
少し前ならば自分達のような者が、ここに出入りするなど考えられなかっただろう。
組織犯罪対策法によって、暴力団への対応が厳しくなったからだ。
それ故このような老舗ホテルへの出入りは、固く禁止されていた。
だが今は違う。
何故ならオーナーが代わったから。あこぎなやり方だったらしい、先代オーナーを闇カジノに嵌めて、その利権を奪った。
つまり今では立派な、銀狼会系列のホテルだからだ。
「お疲れさまっす!」
野太い声が響いた。続け様に多くの声が響き渡る。
自動ドアが開いて現れたのは神崎忠興だった。
その周りを、五人の屈強な男が取り囲んでいる。
「オヤジ、昨夜はゆっくり寝られましたか?」
「ああ、なんとかな」
エスコートするのは工藤という男だ。組の若衆頭をしている。現在の冴子の、兄貴分といったところだ。
神崎は短い会話を繰り出して、促されるように真ん中のメルセデスに乗り込もうとする。
他の五人は前後のメルセデスを目指す。神崎は孤独を好む、それ故の配慮だ。
「おい、てめー、顔色が悪いぞ」
不意に工藤が言った。運転席に腕を伸ばして捲し立てている。
「すみません、朝から寒気がして。一応、薬は飲んだので」
「馬鹿野郎、薬なんか飲んだら、余計眠くなんだろうが」
運転手を務めるのは二十代前半の男だ。
確かにその表情は青ざめている。時折ゴホゴホと咳き込む様子から、風邪でもひいているらしい。
「どうした、なにか問題でもあったか?」
その様子に堪り兼ねたか、神崎が言った。
「いえ、こいつ風邪気味らしくて。しかも薬なんか服用して、運転に支障が出なければと……」
おそらく工藤の憂いは二つある。
ひとつは神崎に風邪がうつりはしないかということ。
もうひとつは薬の影響で、運転手としての勤めが出来るかということ。
一瞬の沈黙。
カチカチというハザードランプの音だけが響く。
「まぁ、いい。無理はするな」
抑揚なく言い放つ神崎。
短い言い草だが、誰もが理解する。それは運転手を労る台詞だろう。
自分を大事にしろ、帰って休め、そんな意味が含まれている。
「すんません。直ぐに新たな運転手、手配しますから」
工藤に促されて、運転手がメルセデスから降り立つ。
「そんな時間はないだろ」
しかしそれを神崎は一蹴する。
その視線は工藤にも、運転手にも向けられていなかった。
「……ですがこいつは……」
それを察して言い放つ工藤。
「ただの運転手だ、誰にでも出来るだろ。それに言った筈だろ、そいつを女だと思うなって」
メルセデスの集団は、主要道路を走行していた。
辺りを包み込むのは灰色の風景。遠く見えるビル郡との対比が、一層寒さを演出する。
こうしてハンドルを握ってから、冴子は一言も言葉を発せずにいた。
それは後部座際に座る神崎への、配慮もあるかも知れない。名目上は組織の親、親子社会への配慮だ。
元々神崎は寡黙な男だ。だからムダな会話をしない、それは幼い頃から理解はしている。
それに冴子自身がムダ口の多い男は嫌いだ。だからその沈黙については文句のひとつもない。
堪らないのは身を切る寒さ。
この寒さだというのに、神崎は窓を全開にして、車窓から流れる景色を見いっている。その寒さはヒーターを全開にしても堪らぬものだ。
もちろん神崎の真意は理解はしている。
昭和きっての侠客だ、己を律して心を正せ、そんな思いの現れだろう。
通りは酷い渋滞だ。少し手前で事故があったらしく、片方の車線が通行規制されている。
車両をノロノロと少し走らせて、停車しての繰り返し。
流石にそれには苛立ちを感じてしまう。すかさず煙草を取り出して口にくわえた。
「なにをイラついてるんだ?」
しかしその神崎の一言でハッとした。
「すんません。禁煙、 でしたっけ?」
バックミラー越しに神崎の表情を窺う。
「そうじゃない。ただ、事故だけは気を付けろ」
神崎は窓の外を見つめるだけだ。口に煙草をくわえて、路肩に視線を向けている。
「うっす。注意します」
それを認めて冴子も煙草に火を点ける。
心を落ち着かせようと、遠くを見つめた。
この街を形作るのは時代という概念だ。
鉄とコンクリートで造られた巨大なそれは、日々流れ続けて、希望、絶望、歓喜と狂気、成功と挫折、凡そ人の持つ全ての感情を、ことごとく押し流し、当たり前の平穏の中にある。
有名な文章の中では、東京には空がないという。東京には四季がない、というのが歌謡曲などの決まり文句だ。
空は建ち並ぶビルに切り取られて、真実の欠片を知る由もない。
あるべき筈の四季は封印されて、鮮やかなイルミネーションに掻き消されてる。
多くの人々は、それを理解しようとはしない。いや、理解してても声には出せないのだ。
何故ならそれが当たり前の光景だから。
誰もが日々の暮らしに埋没して、素通りするだけだから。
それでもこうして心を落ち着かせれば、理解することもある。
季節は一様に巡ってくるということだ。
カレンダーでは既に十一月。
窓から吹き込む風は冬の匂いを含み、骨組と化した広葉樹の梢が、さわさわとうごめいている。
路肩にある花壇では、薄紅色のコスモスが美しく優雅に咲き誇っている。
そしてその真下には一匹の蜂の姿。憐れ蜂とはいうが、寒さに耐え兼ねて、モゾモゾと掻き消えそうな命と、懸命に向き合っている。
それが生と死、その極端を表すようでどこか物悲しい。
それを見ていると実感する。四季とはこの世のあり方、命の連鎖そのものだと……
これは短編です。次で終わり。
場合によっては、作り直し、削除するかも