09話 初めて見る妻の寝顔(バルト視点)
夕食の席で倒れたというマリアンの様子を見に、俺は彼女の部屋へ来ていた。入室に際し念のため扉をノックしたのだが、既に再び寝入ったとの事なので案の定返事はない。
俺は意を決して扉を開けた。了承を得ずに入る事で、後でどんな文句や言いがかりをつけられるかわからないが、それでも彼女は俺の妻になったのだ。体調不良で倒れたから様子を見に来たと言えば、言い訳もたつだろう。
鼓動が速まるのを自分でも感じながら、俺は寝台に横たわるマリアンに、足音を立てぬようそっと近づいた。そしてその顔を恐る恐る覗き込む。
「……寝ているな」
思わず当たり前で間の抜けたセリフが出てしまう。なぜならそこに寝ていたのが、以前夜会で見かけたけばけばしい女などではなく、ごく普通の女性だったからだ。
静かな寝息を立てている彼女はあどけない少女のようで、今は化粧をしていないせいか年齢よりもずっと幼い印象を受けた。
抜けるように白い肌は艶やかで張りがあり、ほんのりと色づいた形の良い唇は僅かに開いている。閉じられた大きな目を縁どるまつ毛は驚くほど長く、きっと目を開けていても美しい曲線を描くのだろう。
寝ている姿だけを見ても、かなりの美女──というより少女のようだが、夜会で見かけた者と到底同一人物には見えなかった。
ただ燃えるような美しい薔薇色の髪だけが、同じように鮮やかな色彩を放っている。その美しい赤色が、彼女の豊かな胸の上に波打つ様は、男の欲望を掻き立てるのには十分な色香を放っていた。
俺は余計な事に考えが及びそうになり、それをかき消す為に頭を振った。
「顔色はまだ優れないが、命に別状は無さそうだな」
不本意ながらに沸き起こってきた浅ましい欲望を頭の隅へ追いやり、彼女の姿をしげしげと見つめる。
寝ている姿だけを見れば、特に問題は無さそうだ。それにイザベルが世話をしてくれたから、既に身体も隅々まで綺麗にされているだろう。
俺は念の為にと、彼女の体の上に手をかざしそこに魔力を集めた。
「罪人の盃よりもたらされし穢れの水よ。我が血の祝福を受け、清浄なる光を取り戻せ」
祝詞を言い終えると共に、俺の掌から柔らかな光が放たれる。その光はマリアンの身体全体を包み込み、一瞬明るさを増した後に消えた。
「……毒は無いとの事だが、念の為だ」
俺は誰に聞かせるでもない言い訳を零す。今彼女に掛けたのは解毒の術だ。あまり得意ではないが、俺は幼少期にこの魔術を覚えさせられていた。
辺境伯として国境線を守護する我が一族は、その身に魔術の素養を持つ者が多い。俺も勿論その一人だが、使えるのはどちらかというと戦闘向きの術ばかりだ。だがその家柄のせいで命を狙われる危険も多く、また隣国や野盗との戦闘で毒に触れる機会もある為、この術の習得は必須だった。
その事実を知る者は、血族以外ではクロヴィスだけだ。それはこの魔術が使える者の希少性にもよるが、いざという時に敵方にその情報が知られていない方が、優位に立てるからでもあった。
俺はそのまま近くにあった椅子を引き寄せて腰を掛けた。そして頬杖を突きながら眠る妻、マリアン・オールドリッチの姿を眺める。
寝ている姿は、本当にごく普通の女性だ。仮面までつけて顔を隠してきた自分が、正直馬鹿らしく思えるくらいの。
その時、寝台横の棚の上に置かれたランプの灯が、小さく音を立てて消えた。丁度油が切れて無くなったのだろう。柔らかな橙色の光が消え、部屋の中は真っ暗になった。
立ち上がってランプにつぎ足す油を持ってこようとした時──
「うぅ……」
「!」
寝台から小さな呻き声が聞こえてきた。俺は思わずビクリと肩を揺らし、寝ているマリアンの方へと向き直る。
一瞬彼女の目が覚めたのかと思ったのだが、聞こえてくるのは呻き声だけで、どうやら夢にうなされているみだいだった。
その後も苦しそうな声が続くので、流石の俺も焦りはじめる。魔術で解毒は出来たとしても、悪夢から助けてやることはできない。
俺はどうしようかと少し考えてから、己の魔力を使い小さな光の玉を作ると、それを宙に浮かして灯りをともした。そこには苦悶に顔を歪めたマリアンの姿があった。
「いや……やめて……」
必死に何かを訴えるようなマリアンの姿は痛ましく、皺が寄るほどきつく閉じられた瞼の端には、涙が見えた。
俺は目の前に突き付けられたマリアンの姿に愕然とし、胸が抉られるように痛んだ。自分でも驚くほどに苦しむ彼女の姿に動揺しているのがわかる。
「……だ、大丈夫、大丈夫だ……」
苦し気に助けを求めるマリアンに、俺は根拠もなくただ大丈夫だと声を掛け、その白い額に触れ撫でてやった。
触れたその肌は、心なしか熱い。彼女の具合が悪いと言っていたクロヴィスやイザベルの言葉が、責めたてるように脳裏に蘇ってくる。
いくらマリアンの評判が悪く不本意な結婚をしたとはいえ、たった一人でやって来た彼女を無下に扱った事を、俺は早くも後悔していた。彼女が体調を崩したのは、そうした俺の酷い扱いによる心労もあったのかもしれない。
「…………すまなかった…………」
意識の無い相手に謝罪しても無意味だとわかっている。それでも俺は、小さな声で謝罪を口にした。すると僅かに彼女の眉間の皺が緩み、穏やかさを取り戻す。
俺はそのまま彼女がうなされなくなるまで、側で見守り続けた──