07話 現実と悪夢の狭間で
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──ヒュンッ!パシンッ──
またあの風を斬る嫌な音がする。あの男の持っている鞭の音だ。彼は、私が失態を犯すと、恍惚とも言える笑みを浮かべてわざとそれを鳴らすのだ。
(嫌だ……怖い……やめて……)
心の中で必死に叫ぶ。けれどそれを口にすることはできない。もし口にしたが最後、新たな罰を追加され、更なる痛みと恐怖を味わう羽目になるのだ。
「今日のスープは特別性ですからね。貴女のお友達に食べていただきましょう」
嗜虐的な笑みを浮かべた侍従の男が、嬉しそうに話す。テーブルには私よりも小さな子供が、嬉しそうに席についている。その身なりはみすぼらしく、多分身寄りのない孤児なのだろう。
貴族の屋敷に連れて来られて、食事を与えてもらえると知り、とても嬉しそうにはしゃいでた。その後何が起きるのかも知らないで──
「さぁ、どうぞ。遠慮なく召し上がれ。旦那様は貴方に同情して、この食事を与えてくださったのです。感謝するのですよ?」
残虐性をその瞳の奥に隠した男が、にっこりと孤児に笑いかけると、その子は素直に大きく頷いた。そして一心不乱に食事に手を付け始める。そしてスープに手を付けた時だった──
──ガシャンッ!──
「うぐ……がぁっ!!」
突然テーブルに突っ伏したかと思うと、その孤児は獣のような唸り声をあげて苦しみだした。白目を剥いて口から泡を吹き、必死で喉を掻きむしっている。
その様子を侍従は満足げに見つめ、そして青ざめて固まっている私に振り返った。
「さぁ、お嬢様。お友達の為に、貴女が成すべきことをいたしましょう。できなければ……わかってますね?」
「……はい」
「いいお返事です。素晴らしいですよ、お嬢様」
──ヒュンッ!パシンッ──
侍従の男が鞭を鳴らし、一層その残酷な笑みを深めた──
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「うぅ……」
「奥様?大丈夫ですか?」
はっきりとしない意識の中で、誰か女の人の声がする。必死で暗闇の底から浮上しようとすると、次第にその声が良く聞こえてきた。
「奥様!あぁ、目が覚めたのですね!」
その女性の嬉々とした声に薄く目を開ければ、ぼんやりと人の影が見える。その人物が話しかけているのだと分かり、私はひりつく喉の痛みをこらえて何とか声を絞り出した。
「……貴女は……」
「イザベルと申します。奥様付きの侍女ですよ」
「侍女……」
「えぇ!なんでもお申し付けくださいね」
イザベルと名乗った侍女は、たった一言の返答に満足げに頷いたようで、目の前にチラつく影がひょこひょこと動くのが見える。
「お水が欲しいでしょうが、まずはお口をゆすぎましょう。一応は綺麗にさせていただきましたが、もう一度ご自身でなさったほうがよろしいでしょうし」
イザベルはそう言うと、どこかへ行ってしまった。ぼんやりと目の前の影が消えたのを見ていると、どうやら私は寝台に寝かされているようだった。
(……私、何でここにいるんだっけ?)
先ほどまで見ていた悪夢の恐怖のせいか、自分が今どこで何をしているのかさえよくわからない。今見ている光景こそが夢なのではないかと思った時、再び誰かの足音が聞こえてきた。
「さぁ、こちらのお水でゆすぎましょう。布を敷きますから大丈夫ですよ」
戻って来たのはイザベルで、私の半身を起こすと、背中にクッションを当ててくれた。膝には厚手で柔らかい布を敷き、その上にたらいを置いている。そして水を注いだ大きめの器を渡してくれた。
私はそれを受取ろうとしたが、どうにも手に力が入らず震えてしまったので、すぐにイザベルが器を支えて介助してくれた。お礼を言う間も無く大きな器が口につけられる。
私はそこから水を少しだけ口に含みゆすいだ後、下にあるたらいの中に吐き出した。何度か同じ事を繰り返すと、水を口に含んだおかげか、少しだけ意識がはっきりとしてきた。
「ありがとう、イザベル」
「いえ、いいのですよ。もうよろしいですか?すぐに飲むためのお水をお持ちしますね」
「お願いするわ」
イザベルにお礼を言えば、満面の笑みを向けた彼女がてきぱきとたらいを片付け、今度は飲み水を持ってきてくれる。それを飲み干せば、ようやく自分がどうしてこのような状況になっていたのか思い出した。
クロヴィスに食事を持ってきてもらって、その途中で気分が悪くなり吐いてしまったのだ。ハッとして自分の身体を見下ろせば、身体に汚れは無く、ちゃんとした夜着に着替えさせられている。
「あの……私を着替えさせてくれたのは、貴女なの?イザベル」
「えぇ、そうですよ。クロヴィス様に呼ばれて、着替えさせていただきました」
「……そう、ごめんなさい。迷惑を掛けてしまって……」
意識の無い汚れた女の後始末など、さぞかし大変だっただろう。しかも巷ではすこぶる評判の悪い女だ。彼女とはちゃんとした挨拶もまだしていないというのに、最悪の初対面となってしまった。
けれどイザベルは、そんな私の心配をよそに、負の感情を一切見せない明るい表情と声で話しかけてくれる。
「さぞかしお疲れだったのでしょう。気にしないでいいのですよ。今はゆっくり休んでください。それと明日の朝食に何か要望はございますか?好き嫌いがあれば、事前に調整できますので」
そう言ってニッコリと笑うイザベルは、優しくて温かくて、私は思わず孤児院にいた頃お世話になった院長やシスターのことを思い出していた。
(きっと母親というのは、彼女みたいな人のことを言うのだわ)
ぼんやりとそんな事を考えていたら、イザベルが心配そうに私の顔を覗き込んできた。
「奥様?大丈夫ですか?」
「え、えぇ。大丈夫よ。食事の要望ね……えぇと、苦手な物はそんなにないのだけれど……」
黙っているとイザベルが心配するので、私は慌てて聞かれたことについてあれこれと話し始めた。