04話 男爵家の悪夢
それは私が、オールドリッチ男爵の養女として引き取られてからすぐの事だった。
「え?名前を変えるのですか……?」
「そうだ。お前はヴィヴィアンではなく、マリアン・オールドリッチになるのだ」
「……どうして……」
孤児院から出た10歳の私が迎え入れられたのは王都から少し離れた、けれどさほど田舎でない土地にある屋敷の一つ、オールドリッチ男爵のもつ別邸だった。
そこに着くなり男爵は私に名前を変え、ヴィヴィアンではなくマリアンになれと言ってきた。
養子として引き取られたはずが、何故か男爵の実子の名前で呼ばれる事に、私は流石に疑問に思った。本物のマリアンはどこにいるのか。何故私がその名前で呼ばれるのか、と。
しかし私が素直に頷かず眉を顰めれば、あっという間に男爵は不機嫌となる。
「何故だのそんな事はどうでもいい!お前はただ命じられたことを素直にすればいいのだ!」
「っ──」
不機嫌さのままに男爵は拳を振り上げ、私は思わず身を竦める。しかし大きな拳が振り下ろされたのは机の上で、犠牲になったのは時間が経って冷めてしまった紅茶だけだった。
「……旦那様、この娘はそれなりに賢そうですから、事情を話した方が都合がよろしいのでは?」
「……うむ……」
零れてしまった紅茶を片付けながら、神経質そうな侍従の男が、男爵にそう提案する。その言葉に男爵も納得したのか、こちらを見下ろすととんでもない事を言ってきた。
「お前にはただの養女ではなく、死んだ娘の代わりになってもらう。貴族の令嬢として恥ずかしく無いよう、しっかりと学べ」
「……はい」
今度は男爵の怒りに触れぬよう、私はただ素直に頷くしかなかった。
私の答えに満足した男爵は、後の事を侍従の男に預けると、自分はさっさと部屋から出て行ってしまう。
私は侍従の男なら、ある程度事情を教えてくれそうだと彼に聞いてみた。
「……本当のマリアン様は亡くなられたのですか?」
「……えぇ。ですがその理由を貴女が知る必要はありません。貴女がマリアン様なのですから」
「でも……」
「マリアン様はそのように聞き分けの悪い方ではございません。上手くできなければ、旦那様の怒りに触れるでしょう」
「!!」
「……それが嫌なら、素直に言う事を聞くのですね。貴女は確かにこの家の娘となりましたが、その価値は旦那様の一存でどうとでもなるのですから」
侍従は、そう言って私の肩を掴むと椅子に強引に座らせる。
「まずはお嬢様自身の事をお話しましょう。貴女はマリアン・オールドリッチなのですからね。間違えてはいけませんよ?」
パシン!と鋭く風を切るような音が鳴った。見れば侍従の手には、黒い乗馬用の鞭が握られていた。私が思わず身震いをすると、侍従は嬉しそうにその薄い唇を歪める。
「お嬢様がどれだけ優秀なのか……楽しみですねぇ」
クツクツと愉悦を含んだ声が、薄暗い室内に響いた。
****************
「やめて!!」
思わず悲鳴を上げた私は、そのまま寝台から飛び起きた。
しかしそこはいつも自分が使っていた部屋ではなく、見知らぬ場所だった。
「……そうか。私、結婚したんだったわ……」
未だに心臓がバクバクとしている。それを抑え込むように、胸に手を当てた。厚手のドレスを着こんだまま寝たせいか、それとも未だに悩まされる悪夢のせいか、服の中は汗でぐっしょりと濡れていた。
「……はぁ……いい加減夢に出てこないで欲しいわ……」
マリアンとして引き取られた私が、男爵家でどのように扱われたのか。それを知っていたら、孤児院の院長やシスターは絶対に私を手放さなかっただろう。
オールドリッチ男爵は短気な男だったが、流石に実の娘として育てる私にあからさまな暴力を振るうのは躊躇われたようだ。
けれど侍従の男は嗜虐的な趣味の持ち主で、私を教育するという目的でしょっちゅう折檻してきた。それは体に傷がつかない程度のものだったがとてもしつこく陰湿で、まだ幼かった私の心に大きな傷を残していた。
「でもようやくあの家から解放されたんだわ……」
その事実に安堵の息を漏らすも、未だ震える身体を抱きしめて寝台の上で蹲る。結婚してあの家から出たのは、まだほんの始まりでしかない。私が目指す目的には程遠いのだ。
「それにしても……私どれくらい寝ていたのかしら?」
顔を上げて窓の方を見れば、すっかり陽が落ちているようだ。服も部屋にたどり着いた時と変わっていない。
「あからさまな放置か、気遣って部屋に来ないのか……まぁどちらでも構わないけど」
来たばかりの花嫁の部屋に、こんな時間まで誰も来ないなど普通はあり得ないだろう。しかしそんな対応など、男爵の家での生活に比べれば全然ましな方であった。
「そう言えば、領主はどうしているのかしら?あんなに私を嫌っているのに、ちゃんと部屋に通してくれるなんてちょっと意外だわ」
思えばこの館に到着した時、領主は顔を出さなかった。教会に置き去りされるくらい嫌われているのだから当然といえば当然なのだが、それでも使用人の出迎えや、この豪奢な部屋を用意してくれたのは意外だった。下手をしたら館にすら入れてもらえず、すぐに追い出されるかもなんて思っていたのだから。
「一応は滞在させてもらえるのだし、この調子だと初夜の床も無さそうだから、私にとってはありがたい事この上ないのだけど……」
いくら待ってもやってきそうもない使用人や領主に、特に何も期待はしていない。けれど私はそのままじっとしている性分ではないのだ。
「一応、ここがどんな所なのか、自分の目で見ておかないとね」
私は寝台から降りると、崩れてしまった身なりをささっと整えて、部屋の外へと向かった。