35話 悲しい夢 (前半バルト視点)
「……マリアンは、まだ目覚めないのか?」
「えぇ……交代でついておりますが、未だ……」
「そうか……俺が代わるから、イザベルはもう休んでくれ」
「……はい」
マリアンが落馬して意識を失ってから既に2日が経過していた。その間、彼女は一度も目覚めてはいない。
俺は、付きっ切りで看病をしてくれていたイザベルと交代して、彼女を休ませた。俺自身何度かマリアンの様子を見に来ていたが、彼女の目はずっと閉じたままだった。
「……ヴィヴィアン……」
そっとメイド姿の時の彼女の名を呼び、俺はその青ざめた額を優しく撫でる。きっと他の人間は彼女にマリアンと呼びかけているだろうから、俺がヴィヴィアンと呼べば答えてくれるような気がしたのだ。
だが、その願いも空しく固く閉じられた瞼は動かない。俺は恐ろしくなって、今度はその柔らかな頬に手を当てた。そしてそこに彼女の熱を感じて、安堵する。このまま命が消えてしまうのではと思うと、自分でも想像がつかないほどの恐怖に襲われた。
「ヴィヴィアン……頼む……目覚めてくれ……」
「ぅ……」
その時、微かな呻きが彼女の口から漏れ出た。俺はとっさに寝台に縋りつき、彼女の名を呼び続ける。
「ヴィヴィアン!?おい!ヴィヴィアン!」
「…………アーロン……」
「!!」
確かに今、彼女の口から「アーロン」と男の名が聞こえた。俺は鼓動が嫌な音を立て始めるのを感じながら、必死に彼女の名を呼び続けた。
*****************
「アーロン!待ってよ!」
「ははっ!ヴィヴィ足遅いよ」
「もう!双子なのにどうしてアーロンの方が早いのよ」
「それはヴィヴィが女の子だから仕方ないよ」
私と同じ翡翠色の目を優し気に細めて、愛する双子の弟がこちらに笑いかける。その姿に、私はすぐに怒ったふりが出来なくなって、一緒に笑い出した。孤児院の庭を二人で駆けて笑い転げる。
幼い日の遠い記憶。すぐ手を伸ばせば触れられる距離にあったはずなのに、今はとてつもなく遠く感じる。けれどいつも心の中には、美しい緑とたくさんの笑顔に囲まれた孤児院の姿があった。
「アーロン、私達ずっと一緒よ」
子供の姿をした私が、弟の手をとり笑いかける。しかし──
「もう貴女の帰るところはないんですよ、お嬢様」
「!!?」
握っていたはずの弟の手は、いつしか大人のものに変わっていて、その姿は嗜虐的な愉悦を浮かべるあの侍従の男になっていた。
私は途端に恐ろしくなって、男の手を振り払って駆け出した。けれど男は、不気味な笑みを浮かべながら私の後を追ってくる。
「どこへ逃げるおつもりです?貴女はマリアン様だ。このオールドリッチ男爵家こそが、貴女の居場所です」
周囲の景色は、いつしか影の色に染まっていた。恐ろしくて私は孤児院に逃げ込もうと必死に走ったけれど、建物はどこにも見えない。真っ暗な闇の中を、ただひたすらに走っていた。
「ははははは!何をお探しですか?お嬢様。もしかしてあのみすぼらしい孤児院をお探しで?」
悪魔のように笑いながら、私を追いかけてくる侍従の男。そしてその残酷な言葉の刃で私を傷つける。
「あんなもの、とうに燃やしてしまいましたよ」
「っ嘘だ!!」
「嘘ではありません。ほら」
「!!!」
気が付けばそこには、真っ黒に焼かれてぼろぼろに崩れ落ちた孤児院があった。みんなで身を寄せ合って寝ていた温かなベッドも、笑い転げまわった花咲く庭も、全て真っ黒に染まって無くなっていた。
「……どうして……」
「簡単な事です。男爵家にとって、貴女の過去など必要ない。全てを無にしていただかなければなりません。貴女はマリアンなのだから」
「いや……私は……マリアンじゃない」
男がこちらに伸ばす手が、大きな闇となって私に襲い掛かる。
「私は……ヴィヴィアン……マリアンじゃない……」
闇の中に沈みながら、私は呟いた。
消え行く自分の声を聞きながら、私は思う。帰るべき場所を。
私の帰る場所はあの孤児院だけ。
だって、アーロンが私を待っている。
私はヴィヴィアンなのだから……




