34話 呼び起こされる恐怖
馬に乗り国境沿いの砦へと出かけていた私とルティは、陽が落ちる前には領主館に戻っていた。
ルティは私を前に乗せ、そのまま厩舎まで向かう。しかしそこには思いもよらぬ人物が待っていた。
「こんな時間に、使用人をどこぞへ連れ出すなんて、悪い騎士ですねぇ、ルティ」
「っ──!」
そこにいたのは、従僕のクロヴィスだ。相変わらず彼の美しい顔には、完璧に作られた笑みが浮かぶ。けれどその下には、凄絶な怒りがあるように思えた。
「……少しだけ気分転換も良いと思ってな。すぐに仕事に戻る」
ルティは何でもない風に受け答えしているけれど、私の方はこの思いもよらぬ邂逅に、焦っていた。クロヴィスにはマリアンとして何度も顔を突き合わせているのだ。いくら使用人のような格好をしているとはいえ、流石にばれるだろう。
(ど、どうしよう!でもこんな状態じゃ隠れられないわ!)
馬上にいる私達を見上げ、その美しい眉を顰めるクロヴィス。彼はそのアメジストの瞳を鋭く光らせ、こちらへと視線を向けた。
「……あまり睨むな。たまには息抜きをさせてもいいだろう。ほんの数刻出ただけだ」
ルティが怯える私を気遣かって、その大きな手を私の肩に乗せ、クロヴィスから隠すようにして抱き寄せる。その温かさに、思わず先日のふれあいが思い出されてしまい、頬が熱くなった。
「……まぁ貴方がそう言うのでしたら……仕方ないですね」
クロヴィスもそれ以上は強く言えないのか、ため息を吐いて引き下がる。私は内心ほっとして、その様子を眺めていた。
そうこうしている内に、ルティは颯爽と馬から降りた。そして私が降りるのを手伝う為に、手を差し出す。不安げにする私の為に、わざわざ声を掛けてくれる。
「大丈夫だ。ちゃんと支えるから怖くない」
改めて一人で馬に跨ると、馬上から地面までの高さを感じる。けれどルティが両腕を広げて待っていてくれるから、さほど恐怖は感じなかった。しかしその時──
──ヒュンっ!バシンッ!!──
どこからか鞭を振るう音が聞こえてきた。厩舎だから、世話人の誰かが鳴らしたのだろう。けれど、私にとっては幼い頃の悪夢を思い出させる悍ましい音だった。
思わず込み上げてきた恐怖に体が反応してしまい、ビクリと背中側にのけぞってしまった。そして──
「あっ……!」
「ヴィヴィアン!!」
ルティの伸ばす手も空しく宙を掻き、バランスを崩した私はそのまま後ろへと落ちていった──
****************
──ヒュンっ!パシンっ!──
私の中にある恐怖を呼び覚ます鞭の音。普通ならば馬や家畜に向けて使われるそれは、オールドリッチ男爵邸では、まだ幼かった私に向けて振るわれていた。私はあの家では家畜同然だった。
「うぅぐあぁぁぁっ!!!」
目の前には、毒入りのスープを飲んで苦しむ孤児の少年がいる。既に椅子から転げ落ち、白目を剥きながら苦しみ悶えている。
そんな少年の姿を見て青ざめる私に向けて、男爵家の侍従がうっそりと笑いながら命じた。
「さぁ、お嬢様。お友達の為に、貴女が成すべきことをいたしましょう。できなければ……わかってますね?」
「……はい」
「いいお返事です。素晴らしいですよ、お嬢様」
──ヒュンッ!パシンッ──
侍従の男が鞭を鳴らし、一層その残酷な笑みを深めた。まだ子供でしかない私には、その残虐な行為を止める術はどこにもなかった。私ができる事といえば、自分の力を使って目の前の少年が助かる道を探すこと──それだけだ。
「さぁ、集中して。彼が必要とするものを視るのです。そうでなければ解毒薬の場所はわかりませんからね」
「はい……」
私は恐怖に震える手で少年に触れ、その小さな手を握り込んで自身の胸の前に置いた。そして涙が滲む目をしっかりと瞑り一心に願った。
(神様……神様助けて……お願い、彼が死んでしまう……!これ以上誰も私のせいで死なせたくないの……だからお願い!!)
その祈りに呼応するかのように、脳裏にぼんやりとした景色が見えてくる。私はその場所をはっきりと見極めると、目をカッと開き、一気に駆けだした。
部屋の外へ出て廊下をひた走り、階段を転げ落ちるようにして下る。そうして屋敷の中庭へと向かった。
そして目的の場所を探し当てると、私は服が土で汚れるのも構わずに一心不乱に地面を掘り始める。爪は剥がれて血が滲み、時折小さな小石が手に傷を作る。
それでも私は掘り続けた。やがて小瓶のような物を土の中に見つけ、私はそれを手に取ると今度は部屋に向けてひた走った。
走って走って走って、ようやくその部屋にたどり着いた時には、もうその男の子は動かなくなっていた。それでも私は涙に顔をぐしゃぐしゃにしながら、彼の口に小瓶の中身を必死に流し込もうとした。
けれどもう動かなくなってしまったその小さな唇は、その液体を飲み込む事は無く、無情にも外に流れ落ちてしまう。
「もう少し早ければ彼は助かったかもしれません……非常に残念です」
その様子を見ていた侍従の男は、さも残念そうな声で言うのだ。けれどその表情は、どこか楽しげに歪み、そこにこの男の悍ましい狂気を感じた。
私は目の前の少年が死んでしまったことと、この後に自分の身に起こる恐怖に震え、嗚咽を漏らす。それが何をもたらすのかわかっていても、止めることはできなかった。
「うっうぅぅ……」
「泣いていても、彼は生き返りませんよ?情けない……マリアンお嬢様ともあろう御方が、これしきの未来すら碌に見通せないとは……」
──ヒュンッ!パシンッ──
「お仕置きが必要ですね、お嬢様?」
侍従の男が、歪んだ愉悦に浸りながら一際不気味に笑った。




