23話 手に入れられぬ者(後半バルト視点)
ルティから逃げ出した私は、そのまま自分の部屋まで戻って来た。
一瞬彼が追いかけてくるかもと思ったけれど、無用な心配だったようで、私は無事に与えられた部屋に到着していた。そして扉を開けて中へ入ると、その場にズルズルと崩れ落ちて蹲る。
「……うぅ……」
一気に我慢していた涙が溢れ出した。感情の嵐に翻弄され、壊れてしまった甘い時の残骸が、酷い罪悪感となって胸に突き刺さる。
ルティといると楽しかった。共に過ごせば心浮き立ち、彼に名前を呼ばれて喜びを噛み締めていた。その感情が何だったのか──本当は気づいていたのに私は目を逸らして気づかないふりをしていたのだ。
けれどもうはっきりと気が付いてしまった。彼にもたらされた熱が、私の中にある感情を浮き彫りにしてしまったから。
「…………好き……」
決して言ってはならないその言葉を、吐き出すようにして口にする。その心の叫びは、静まり返った部屋の床に落ちて儚く消えていった。
「……どうして……彼は好きになってはいけない人なのに……」
自分自身に言い聞かせるようにして声に出せば、変えることのできない現実が、私の罪を明確にする。
私は、ヴィヴィアンでありながらマリアンだ。そのしがらみから逃れられることは出来ない。何より今はこのアルデリアの領主の妻である。
たとえ夫に嫌悪されるような名ばかりの妻だろうと、結婚したからには責任がある。心がルティの下にあったとしても、その恋心の為に夫を裏切るわけにはいかない。あんな風に触れ合ってはいけないのだ。
「これでは、本当にふしだらな悪女になってしまうわね……」
悲しみを誤魔化すように自嘲すれば、虚しさが一層募る。もし本当に私が、誰とでも寝るような悪女だったとしたら、こんなに感情が千々に乱れることはなかっただろう。けれど私はそんなに器用な女ではない。本当の意味で人を好きになったのは、ルティが初めてだった。
口元に指をあてて、その熱を思い出す。触れた唇は、いまだルティの熱を持っているかのようで、甘い官能をそこに残していた。
「もう関わらないようにしなくちゃ……だって私は……」
その先の呟きは、とても小さく、誰の耳にも届かずに消えていった。
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「ヴィヴィアン……くそっ!俺は何をしているんだ……!」
ヴィヴィアンが走り去っていなくなってしまってから、その場に残された俺は一人己を罵っていた。
一瞬、彼女を追い掛けようと思ったが、すぐに思い直してやめた。あんな風に欲望のままに手を出してしまった俺が追いかければ、彼女は怯えてしまうだろう。俺は自分の所業を早くも後悔していた。
彼女にとっておきの場所を案内すると言ってここまで連れてきたはいいが、そこで俺は思わず彼女に口づけてしまったのだ。それも何度も。
ヴィヴィアンのはにかむような笑顔と、不安そうに俺の服を掴む仕草、そして俺を心配してくれるその言葉に、俺の心は完全に堕ちていた。急激に愛しさがこみあげてきて、それを自制することができなかったのだ。
「だからって、あれは……ダメだろ……いきなり口づけるとか……」
自分自身で己の至らぬ箇所を指摘する。だからといって今更どうなるわけでもない。
せめて自分の気持ちを伝えるなり、相手の気持ちを聞くなりしてからだったら良かったかもしれないが、そもそも自分の正体を偽っている時点で卑怯な行いだったのだと愕然とする。
ぐるぐると回る思考に自分でも混乱し始めた俺は、情けなく肩を落としながらその場を後にした。
そして執務室に戻った俺は、その後はずっと仕事に没頭していた。すぐにでもヴィヴィアンに会って謝罪をしたかったが、それが出来ない為、仕事に逃げたのだ。
俺が会いたいと思っているヴィヴィアンは、妻のマリアンだ。メイドの姿のヴィヴィアンに会う為には、予め約束をしていなければ無理である。ましてや俺はただの騎士のふりをしているから、何食わぬ顔でマリアンに会いに行って話を通すこともできない。
俺はどうすることもできぬ状況に、仕事をし続けるしかなかった。幸いなことに領主としての仕事はいくらでもある。仕事に夢中になってさえいれば、余計な事を考えなくて済んだ。
そんな俺の姿を見て、クロヴィスが何やら意味ありげな視線を寄越してきたが、俺はそれを完全に無視した。事の顛末を話せば、どうせ揶揄われるし、今はヤツの相手をするほどの精神的余裕はない。そもそも俺は、自分自身の行動すら良く分かっていなかったのだから。
そんな風にして午後の時間は仕事漬けで過ごし、流石に見かねたクロヴィスが夕方頃になって声を掛けてきた。休憩用のお茶を注ぎながら、こちらを労わるような言葉を口にする。
「あまり根詰めると、体を壊しますよ?」
「…………」
「もうすぐ夕飯の時間ですが、今日も奥様と一緒にとられますか?」
「っ──」
奥様という言葉に、俺の肩が過剰なまでに跳ね上がる。
(そうだ──約束が無くてはヴィヴィアンには会えないが、マリアンになら会えるじゃないか)
俺はその事実にようやく思い至り、すぐにクロヴィスを使いに出すことにした。
「……そうだな。マリアンを夕食に誘おう」
「かしこまりました」
クロヴィスがマリアンの部屋に向かう為に退室する。扉の閉まる音を聞きながら俺は、何と彼女に話そうか考えていた。
ヴィヴィアンへの言葉をマリアンに言うことはできないが、マリアン自身を気遣うことはできるだろう。彼女の夫として、これからはちゃんと彼女自身を見るのだ。そう俺は心に決めたのだが──
暫くして戻って来たクロヴィスによって、マリアンが俺の夕食の誘いを断わったとの知らせが届いたのだった。




