15話 ヴィヴィアンとの時間(バルト視点)
「ヴィヴィアン……いい名前だ」
俺がヴィヴィアンの名前を呼んだ瞬間、一瞬にしてそこに花が咲いたような笑顔が生まれた。思わず頬が熱くなり、胸に手を当てる。理性で抑えきれぬほどに、鼓動が速まっていくのを感じていた。
(これはマリアンを調査する為の演技で、仕方なく近づいているだけだ……)
誰に見咎められたわけでもないのに、俺は心の中で必死に言い訳を始める。だがそれは、あっと言う間に彼女の声によって掻き消えた。
「あの……騎士様のお名前は何と言うのですか?」
「名前──」
翡翠色の瞳が期待に輝いているのを見て、俺は内心頭を抱えた。思わず騎士のふりをしてしまったが、名前までは考えてはいなかったのだ。だから思わず幼少期に呼ばれていた自身の愛称を口にしてしまった。
「ルティ……」
「ルティ様ですか?素敵なお名前ですね」
「っ──あぁ、ありがとう」
彼女が口にする俺の愛称。その響きは甘く俺の心をくすぐる。
今は誰もその名前を使う事はない。亡き母だけが、そう呼んでくれたからだ。
久しぶりにルティと呼ばれ、俺はじんわりと胸が熱くなるのを感じる。しかしそれはかつてとは違って、どこか切ない甘酸っぱさを伴っていた。
「ルティ様、助けてくださり本当にありがとうございました。……それとその……もう大丈夫ですので、私はこれで失礼いたしますね」
そう言ってヴィヴィアンは、俺から離れていこうとした。
思えば彼女を助けてから、俺たちは抱き合ったような状態で地べたに座り込んだままだったのだ。俺の足の間に彼女の華奢な体があり、寄り掛かる形で座っていた。
そして今ようやくその事に気が付いて、ヴィヴィアンは頬を真っ赤に染め上げて立ち上がろうとしていた。だが俺は、そんな彼女の手を取った。
「え──?」
「どこか怪我をしているといけない。用事があるなら俺が付き合おう」
「え?!でも……」
オロオロと困惑する彼女を離すまいと、俺はしっかりその腕を握っていた。華奢な手首は、力を籠めたら折れてしまいそうなほどに細い。だが俺は、そのまま彼女が離れていくのを拒んだ。
(部屋から抜け出して何をしようとしているのか、見極めなければならないからな)
そう心の中で呟くが、単純に今のメイド姿のヴィヴィアンと一緒にいたいのもあった。けれど、それがどんな感情によるものかまではわからない。それでも俺は今の彼女から離れるつもりは無かった。
領主としての俺が、妻であるマリアンとの距離があるのに対し、騎士のルティとメイドのヴィヴィアンとでは、より互いの事を知っていけるだろう。そしてそれは領主としての俺にとっても有益な情報になるはずだ。
勿論そんな暇はないと、クロヴィスに怒られそうだが、そもそもアイツが俺をこの場に引っ張り出したのだ。最後まで責任を取ってもらおうと心に決め、俺は彼女についていく事にした。
ヴィヴィアンも、まさか俺がそんな提案をするとは思っていなかったのだろう。可哀そうなくらいにその翡翠色の瞳を揺らめかせ困惑している。
俺は彼女の腕を引き寄せ、その細い腰ごと抱きかかえて立ち上がった。ふわりと彼女の薔薇色の髪から甘い匂いがした。
「あっ──」
抱き寄せた彼女の瑞々しいの唇から、鈴の鳴るような声と共に、甘い吐息が俺の耳にかかる。思わずその唇をむさぼりたい衝動に駆られるが、俺は何とかかき集めた理性でその欲望をねじ伏せ、彼女を地面の上へ立たせた。
しっかりと自分の足で立てたヴィヴィアンは、気まずそうに俺から離れると、皺のよってしまった衣服を手で軽くはたいて整える。
俺は、ヴィヴィアンの熱が離れて行ってしまった事を酷く残念に思い、自分でも驚いていた。
そんな心情を知りもしない彼女は、頬を赤くしたまま潤んだ瞳で俺を見上げてくる。その罪深い眼差しに、俺の心臓はうるさいほどに暴れ出していた。
「その……大した用事はないのです。だから騎士様についていただく必要は……」
「ルティだ。ヴィヴィアン」
「えっ?」
「ルティと気軽に呼んでくれればいい。それに今は暇をしているから、気にしなくていい」
動揺を悟られないように余裕の笑みを浮かべながら、俺は彼女に愛称で呼ぶようにと言った。
彼女は今は新人メイドのヴィヴィアンだ。あのふしだらな噂のあるマリアンではない。今の彼女に、マリアンの尊大な態度やふしだらな仕草は微塵も見えなかった。
別人のふりをしているというのもあるが、俺が騎士だと告げたので丁寧な対応をしているのだろう。平民出が多いメイドにとって、貴族出身者の多い騎士は、それなりに気を遣う存在だ。
そんなメイドのふりをする彼女の対応はとても自然なので、俺はヴィヴィアンが、マリアンと同一人物であることを忘れそうだった。だが彼女は確かに、昨日俺と結婚式を挙げたあのマリアンなのだ。
(そもそも彼女は体調が良くなかったはずだから、このまま独りで出歩かせるのも良くはないな)
俺は昨夜のマリアンの様子を思い出しながらそう考えた。マリアンには部屋で休んでいるようにと、使用人を通じて告げてあるはずだ。だが今は別人に成りすまして抜け出している。
(クロヴィスは彼女が脱走するのを察して、俺をこの場に来させたのかもしれない)
ようやく俺はクロヴィスの意図を理解した。マリアンの部屋の前には護衛を配置したから、彼女が部屋を抜け出すならバルコニーからだと知っての上だろう。そして先ほどのような危険を察知して、クロヴィスは魔術が得意な俺を寄越したのだ。
(それにしても、彼女は部屋を抜け出して何をするつもりなんだ?まさか本当に花が欲しかったわけではあるまい)
その疑問に、別人のふりをしている彼女が素直に答えてくれるはずもなく、俺はじっと返答を待った。
「えぇとその……まだお屋敷の事がよくわかってませんので、騎士様……いえ、ルティ様のお手を煩わせるわけには……」
(屋敷の事……あぁ、なるほどな)
俺はヴィヴィアンのその言葉で、彼女が今求めているものが何なのか思い至った。
クロヴィスの話では、彼女は一度も使用人を呼びつけるようなことをしていない。この館の人間に歓迎されていないのを、肌で感じているのだろう。だから館の事を知る為に一人で見て回るつもりだったのかもしれない。
(その事については申し訳なく思うが……)
彼女はあのオールドリッチ男爵の娘だ。いくら可愛らしいメイドの姿をしていたとしても、腹の中で何を考えているかまではわからない。一人で歩き回られるのは危険に思えた。
「なら俺が館の中を案内しよう。俺もここでは新入りだが、君よりはこの館の事を知っている」
「え?でもいいのですか?」
「あぁ、勿論だ。今は時間が空いているからな」
新人騎士のふりをして提案すると、彼女は一瞬喜びの表情を浮かべた後、また困惑気な表情となる。
「……で、でも、その……奥様が……」
「ふっ……」
(奥様は君自身だろう。だが新人メイドのふりをしているのだから仕方ないか)
俺は、彼女が自分でした言い訳に困り果てているのに、思わず笑いそうになってしまった。それを口の中で噛み殺して耐えながら、助け舟を出してやることにした。
「奥様は具合が悪くて寝ているそうじゃないか。なら君の仕事は、奥様をゆっくり寝かせて差し上げる事だろう?花は後でも大丈夫だろう」
「……っは、はい!」
どうやら俺の提案は、ヴィヴィアンに受け入れられたようだ。下がっていた眉も、嬉しそうな笑顔にあっという間に上書きされる。
俺は彼女の手を取り、館を案内する為に歩き出した。