14話 本当の名前
バルコニーから落ちた私は、たまたま下を通りかかった騎士の男性に助けられていた。
(危なかった……この人がいなかったら、どうなっていたか……)
あのまま二階から地面にたたきつけられていたとしたら、ひとたまりもなかっただろう。偶然とは言え、助かったのは奇跡だ。
けれどもしかしたら、彼は魔術か何かを使ったのかもしれない。不思議な感覚に包まれて、落下の衝撃が一切無かったから。彼は数少ない魔術の使える騎士なのだろう。そう言う意味でも、彼に助けられたのは幸運だった。
「ところで君はどうしてあんなところから落ちてきたんだ?」
「え、えーと……」
騎士の男性はあれこれと事情を聞いてきた。何せいきなり上から落ちてきたのだから、怪しまれて当然だろう。彼は鍛錬の為にここに来ていたというけれど、私の部屋を見張る為に配置されたのかもしれない。
けれどその優し気で実直な様子に、私は自分でも想像もつかないような言い訳をしていた。
「……あの、私、奥様からお庭のお花を摘んで来て欲しいと頼まれまして……」
思わず自分がマリアン付きの使用人のような口ぶりで話してしまった。しどろもどろになりながらも、何とか言い訳を重ねていく。
「それで君は奥様付きのメイドなのか?」
「は、はい!まだ新人で……」
「ふっ──」
私の返答に思わず笑みを零した騎士の男性。彼は私のどぎまぎした態度を、新人メイドだからと受け取ってくれたのだろう。優し気に琥珀色の目を細めて微笑むその姿に、私は頬に熱が集まるのを感じていた。
(だけど私がマリアンだと知ったら、こんな風に優しく接してはもらえないだろうな……)
会ったばかりだというのに、優しくしてくれる彼から蔑みの目を向けられるのが怖い。いくら自分からわざと評判を落としてきたとはいえ、悪意や蔑みの感情を向けられても平気なわけがない。目的の為に必要な事だったとしても、傷つかないわけではないのだ。
(それにマリアンが脱走したと知られれば、部屋の警備が厳重になってしまうわ……そんなのは困るもの)
男爵邸では始終見張りが付き、屋敷の外へは出してもらえなかった。それはある理由のせいだったのだが、ここの領主はそれを知らない。だからこそ自由を得られると思ってこの婚姻を承諾したのに、閉じ込められては意味がない。
幸いな事に目の前の騎士は、私の嘘を信じてくれたようだ。琥珀色の瞳が、興味深げにこちらを見つめている。
「君の名前は何て言うんだ?」
「私の名前……ですか?」
「あぁ、君の名前が知りたい」
(私の名前──)
名前を問われて、私は固まってしまった。別人を装うつもりではいたが、名前までは考えていなかったのだ。だからどんな名前をと頭を悩ませていた時、ふと子供の頃の事が思い浮かぶ。
『ヴィヴィ──』
双子のアーロンが、私を呼ぶ声が脳裏に蘇る。ヴィヴィアン──それが私の本当の名前だ。
幼い日に、私はヴィヴィアンという自分の名前を捨てざるを得なかった。今では誰も呼ばなくなった私の名前。忘れられて、いなくなってしまったヴィヴィアンと言う女の子。
けれど私はずっとヴィヴィアンのままだった。マリアン・オールドリッチとしての人生を歩み、美しい服や、豪華な食事を食べて、柔らかな寝台で寝られたとしても──私はずっとヴィヴィアンだった。だから──
「…………ヴィヴィアン」
「え?」
私は自分の名前を告げた。本当の、私自身の名前を──
「ヴィヴィアンです、私の名前」
久しぶりに口にするその名前。私が私である証。それを声に出して言えば、私は、自分がマリアン・オールドリッチではなく、孤児院にいた頃の自由なヴィヴィアンを取り戻せたような気がした。
「ヴィヴィアン……いい名前だ」
目の前の騎士が、私の名前を反芻する。その事に私は体が震えるほどの喜びを感じた。
(私の名前を呼んでくれている……ただそれだけの事が、こんなにも嬉しいなんて)
私は感激に涙が零れ落ちそうになるのを、笑顔を作ることで必死に堪えたのだった。