13話 ヴィヴィアンとの邂逅(バルト視点)
「怪我が無くて本当によかった……」
そう言って涙を眦に浮かべながらふにゃりと笑うのは、昨日結婚したばかりの妻であるマリアン・オールドリッチだ。
何とか彼女が泣き出しそうになるのを阻止したが、今度はこの状況に酷く混乱する羽目になった。
(本当に彼女が、あのマリアン・オールドリッチなのか?)
マリアン・オールドリッチという人物は、社交界では知らぬ者がいないほどの評判の悪い女だ。ごてごてとした派手なドレスに、濃い化粧、そこにキツイ香水の匂いを纏った彼女は、酷く目立っていた。
確かにマリアンの容姿は整っており、魅力的な肢体をもつ彼女は誰よりも美しいのだろうが、それでも俺の好みとはかけ離れている。その上、様々な男と寝ているとの噂があり、そこに金銭の授受まであるというのだから、最早淑女とは言えないだろう。それがただの噂だけならまだしも、俺は実際に彼女が夜会で男と姿を消しているのを目撃している。
だが目の前の彼女は、そんな噂とは似ても似つかない人物のように見えた。
顔は化粧をしていないのか、白く瑞々しい素肌はほんのりと薔薇色に上気しており、涙を溜めた翡翠色の瞳はまだあどけなさを残している。膝の間に座り込む彼女からは、キツイ香水の匂いはせず、どことなく甘い香りが漂っていた。派手ではないシンプルなワンピース姿は、優しい雰囲気で好感が持て、今の彼女によく似合っていた。
(一体何者なんだ?君は──)
目の前の人物はマリアンではなく偽物なのでは――とそんな馬鹿馬鹿しい疑問が頭をもたげた所で、マリアンが感謝の言葉と共に頭を下げてきた。
「本当にありがとうございました。怪我が無く済んだのは、貴方様のおかげです」
「いや、いいんだ。たまたま下を通りがかっただけだから」
「ところであの……貴方様は騎士様なのですか?」
(え──?)
唐突に彼女にそう言われて、驚きに目を見開く。
(俺は君の夫なんだが……)
一瞬ムッとしてしまったが、自分が仮面を着けてない事を思い出し、ハッとした。
(まずい……まさかこんな形で対面するなど思ってもみなかったから、仮面の事をすっかり忘れていた……)
アルデリアの領主としてマリアンと対面した時は、いつも仮面を着けていた。勿論それ以前の夜会で俺は評判の悪い彼女に近づきもしなかったから、マリアンが俺の素顔を知るはずがない。碌に話もしていないから、声すら覚えていないのだろう。
俺はどうしようかと少し考えた所で、彼女の勘違いに乗る事にした。
(このまま別人として話してみれば、マリアン・オールドリッチの狙いがわかるかもしれない)
そんな打算が働いた結果だ。辺境伯として素顔を晒し、後々離婚に際して面倒になるくらいなら、辺境伯としての自分はこのまま素顔を隠していた方がいいだろう。その分、別人として彼女の真の姿を探るのだ。
俺は自分でもいい考えだと内心ほくそ笑みながら、彼女の言葉に頷きを返した。
「あぁ、そうだ。修練の為に庭に出ていたのだが、悲鳴が聞こえたのでな」
「まぁ、そうなんですね。……お恥ずかしい限りです」
そう言って彼女は頬を染めて俯く。その恥じらう姿の可愛らしさに一瞬胸がざわつくが、すぐに理性で抑え込んで誤魔化した。
(相手はあのマリアン・オールドリッチだぞ?いくら魅力的でも、惑わされるな!)
そう自分に言い聞かせつつ、俺は彼女を取り調べる為にいくつか質問をすることにした。
「ところで君はどうしてあんなところから落ちてきたんだ?」
「え、えーと……」
するとマリアンは、あからさまに目を泳がせた。俺に知られてはまずいことでもあるのか、もごもごと口を動かし、何を言おうかと迷っているようだ。
(やはり何か企んでいるのか?)
俺はじっと彼女を見つめ、その一挙一動から裏に隠された事実をつきとめようとした。しかし──
「あの、私、奥様からお庭のお花を摘んで来て欲しいと頼まれまして……」
「ん?」
(奥様……だと?彼女は別人に成りすましているつもりなののか?)
「それでどんな花があるのかと下を覗き込んでたんですけど……足を滑らせてしまって……」
「……」
(いや、バルコニーから下を覗いて花を選ぶなんてしないだろう。普通)
「まさか落ちるとは思わなくて……とても助かりました」
「……そうか……」
彼女の言動に、俺は肩の力が抜けてしまった。言い訳の内容も内容だが、まさか堂々と別人のふりをするとは思わなかったのだ。確かに今の彼女の姿は使用人のようだが、それでもこの館で彼女を使用人だと思う間抜けはいないだろう。
地味な服装をしていても、その内側から溢れ出る美しさは隠せないし、この館に勤める使用人達は皆互いの顔をよく覚えている。見知らぬ人物がいれば、すぐに気が付くだろう。
だが、マリアンがあえて別人のふりをするのなら、それも面白い。噂の悪女が、別人としてどう振舞うのか興味があった。
「それで君は奥様付きのメイドなのか?」
「は、はい!まだ新人で……」
「ふっ──」
俺が話を合わせると、パッと花が咲いたような笑顔がこぼれる。頬を赤らめて嬉しそうにする姿に、思わず笑ってしまった。
(可愛いな──)
マリアンに惑わされないようにと言い聞かせていたはずの理性は、あっと言う間に新人メイドの笑顔の前に屈服した。素直に俺は彼女が可愛いと思ってしまったのだ。
胸の奥がくすぐられるような甘い感覚を楽しみながら彼女に問う。
「君の名前は何て言うんだ?」
「私の名前……ですか?」
「あぁ、君の名前が知りたい」
俺は無性に彼女の名前が知りたくなった。噂の悪女マリアン・オールドリッチではない、目の前の可愛らしいメイドの名前を。今話しているこの人物こそが、本当の彼女の姿ではないかと、そんな期待を込めて。
すると俯いた彼女から囁くように小さな声が漏れる。
「…………ヴィヴィアン」
「え?」
よく聞こえなくて聞き返すと、今度はしっかり目を合わせて言ってくれた。
「ヴィヴィアンです、私の名前」
そう言って名前を告げた彼女の翡翠色の瞳は、キラキラと輝いていた。その眼差しの強さと朗らかな笑顔に、その名前が良く似合っている。
「ヴィヴィアン……いい名前だ」
俺がその名前を呼ぶと、彼女は──ヴィヴィアンは、嬉しそうにふわりと笑った。