12話 落ちてきた妻(バルト視点)
俺は、目の前で起こっている状況に酷く混乱していた。
「……あの、本当に大丈夫ですか?痛かったら言ってください。怪我をしていたら私──」
そう言って、美しい翡翠色の瞳に涙を浮かべるのは、あのマリアン・オールドリッチ──つまりは俺の妻だ。
高慢で節操のない悪女として知られる彼女だが、今対峙している人物は、清楚で無垢な少女のようで、噂とは全くの別人だ。
(一体これは誰なんだ?本当にあのマリアン・オールドリッチなのか?)
俺は、今にも泣き出しそうなマリアンを必死で宥めながら、どうしてこうなったのか、思い出していた。
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その日の朝、俺は残っていた書類仕事を、執務室で片付けていた。
「旦那様、失礼します」
「あぁ、入れ」
執務室で仕事に励む俺を気遣い、クロヴィスが珈琲を持って来てくれた。それに口をつけながら、俺は次々と書類に目を通していく。
普段なら、俺が仕事で忙しい時は、クロヴィスはそのまま黙って控えているか、退室するのだが、今日ばかりは違っていたようで、珈琲を用意し終わると何やら楽し気に話し始めた。
「そう言えば旦那様。今日はお庭で面白いものが見れるかもしれませんよ?」
「……」
どうせいつもの軽口だろうと、俺は特に取り合わず、視線を落としたまま書類に集中する。クロヴィスはそんな俺の態度を意に介する事なく、更に話を続けていく。
「休憩がてら、今からお庭に出てみてはいかがですか?出来たらすぐにでも。書類の整理くらいなら、私でもできますし」
そこまでクロヴィスが勧めてくると言う事は、ただの軽口ではないようだ。何かの目的があって、その場に俺に行って欲しいのだろう。
俺は書類から視線を上げると、楽し気な笑顔のクロヴィスに、じっとりとした視線を向けた。
「できれば東側の、日当たりの良いバルコニーのある下のお庭が良いかもしれないですねぇ」
「……どういう意味だ」
東側のバルコニーと言えば、現在妻であるマリアンが使っている部屋が思い浮かぶ。そしてクロヴィスのニヤついた様子を見れば、それが正解で間違いないだろう。
「いえね、多分バルコニーから出てくると思うのですよ。私の予想ですけどね。もし危険があったらば、旦那様が下にいてもらうのが一番ですから」
「……」
そう言って笑顔を向けるクロヴィスは、俺の手から書類を奪うと「急いだ方がいいですよ?」と忠告してきた。
何が何だか分からなかったが、俺はクロヴィスの言う通り、庭へ出る事にした。
とりあえず外へ出てみてから、俺は仮面をつけてないことに気が付いた。取りに戻ろうかと一瞬迷ったが、面倒だったのでそのまま向かう事にした。
「まぁ、バルコニーから見られたとしても、俺が誰かなどわからないだろう」
そう独り言ちて、東側の庭園へと向かう。きっとクロヴィスは、中々花嫁と対面しない俺にしびれをきらして、せめてバルコニー越しでもいいから会えと言っているのだろう。
だが俺としては、マリアンの前で顔を晒すかどうかは、未だ決めかねている所だ。彼女への態度を改めるつもりではいるが、この婚姻を続けるかどうかはまた別の問題である。
寝ている彼女がいくら噂の悪女とは違うように見えても、それが真実とも限らない。彼女が夜会の間、男と消えていたのは事実だし、父親の男爵になんと言い含められてこの館にやって来たのか、わかったものではないからだ。
そんな事をつらつらと考えながら件の庭園へやって来た時だ。
「きゃっ!」
「えっ──」
頭上から小さな悲鳴が聞こえてきたかと思うと、二階のバルコニーから何か黒い影が落ちてくるのが見えた。それが人だと分かった瞬間、俺はすぐさま魔術を展開していた。
(っ──間に合うか!?)
俺は自身の足に身体強化の術を掛けて、落ちてくる人物よりも先に下に回り込む。そして落下の衝撃を和らげるため、自分の腕と相手の周囲に何層にも空気の障壁を作った。
それは一瞬の出来事だったが、それでもかなりギリギリだった。落ちてきた人物の身体を地面に衝突する寸前で受け止め、俺自身も倒れ込みながら抱きかかえる。
「っ………!!」
走った勢いで地面の上を転がってしまったが、それでも俺は抱きかかえた人物を離さなかった。
やがて回転が止まり、暫くはそのまま動かずにいたが、相手の無事を確認しようと視線を腕の中の人物に移した時だ。
(えっ──彼女は──)
目をぎゅっと閉じ身体を強張らせている人物に、俺は衝撃を受けた。使用人のような格好をしているが、それはどう見ても妻であるマリアン・オールドリッチだった。
(どうしてここに──と言うか、なんで落ちてきた!?)
マリアンの真っ赤な髪は、レースの付いたキャップに隠されており、後れ毛がほんの少しはみ出て、白いうなじを艶めかしく彩っている。慎ましい色合いの服は、彼女の美しさを半減させることなく落ち着いた雰囲気を醸し出していて、少しだけ広い襟ぐりからは豊かな胸の谷間が覗いていた。
恐怖に強張るその瑞々しい頬は、ほんのりと上気していて、男なら誰もが欲望を掻き立てられてしまうような色香を放っている。そんな美しい女が、俺の胸の上に倒れ込むような形で乗っかっているのだ。思わずゴクリと自分の喉が鳴るのが聞こえ、俺は焦った。
「こんな所で何をしている?」
「!!!」
自分の中の浅ましい感情に気付かれないようにと逆に相手を問いただせば、思いのほか低い声が出てしまったようだ。その低い声に、思い切りマリアンは肩を震わせ怯えた。
俺はしまったとすぐに後悔したのだが──
──ゴンッ!──
「痛って!!」
「痛ったぁ……」
突然半身を起こそうとした彼女の頭が、見事に俺の顎に命中した。いきなりの事だったので避けられず、折角怪我無く受け止めたはずが、互いに痛い思いをする羽目になってしまった。
「いきなり動くな!危ないだろう!」
「ご、ごめんなさい!」
バルコニーから落下してきたことといい、今の行動といい、どうやらマリアンは随分と不注意のようだ。それを嗜めるように語気を強めて言えば、彼女はビクリと肩を揺らし謝って来た。
更には俺の身体を下敷きにして助かったのだと気が付くと、見る見るうちにその美しい翡翠色の瞳に涙が溢れてくる。
「あの……大丈夫ですか?下敷きにしてしまって、本当にごめんなさい……」
今にも泣きそうな顔で見つめられ謝罪されれば、怒りなどすぐに消え失せ、逆に後悔と罪悪感でいっぱいになる。
「っ──……いや……大丈夫だ」
俺は涙目の彼女を見ていられなくて、顔を背けながら大丈夫だと言った。
それでも彼女は、泣きそうな声で何度も大丈夫かと詰め寄って来た。微かだが手が震えているのがわかる。
「……あの、本当に大丈夫ですか?痛かったら言ってください。怪我をしていたら私──」
自分のせいで怪我をしたのではと、酷く心を痛めているのが分かり、俺は慌てて否定した。
「いや、本当に大丈夫だ!何ともない!この通りぴんぴんしている!」
「そ、そうなのですか?……本当に?」
「あぁ、本当だ、本当に大丈夫だから!」
身振り手振りをつけながら、俺は何度も大丈夫だと主張した。何でこんなに焦っているのだろう?と自分でも疑問に思いながら、マリアンが泣き出さないように必死だった。