Ⅲ おかえりなさい
聞いたこともないラジオを聴いているような気分。
そんな不思議な表現をする椿の姿を、ふと思い出した。思い返してみれば、それが彼女が俺に発した唯一のサインだったように思う。
俺にとって椿は物語の中の妖精のように純粋無垢で、一点の曇りもなく。俺が想像もしないような物語の世界を、謡うように紡ぐひと。そんな存在だった。
今ならわかる。俺がそうであるように、彼女もまた人間だった。嬉しければ笑うし、悲しいときは泣いていたはずだ。
今思えば俺はあまりにも浅はかすぎた。そんな一面を自分が見たことがないから、と彼女の人間性を気付け―――いや、無視していたのだ。
この二日間。くるくると表情の変わる刹那をみて、ようやく分かった。
表情こそ見えないが、笑ったり、憎たらしくボケてみたり。自殺しようとした三浦に激昂して見せたり。
なんて馬鹿で救いようがないんだろう。
こんな簡単なことを理解するのに、三年もかかった。かかってしまった。
なんて愚かで、友情の価値のない自分。
思い知らせてくれたのは、親友の言葉でない。二日前にあったばかりの、それも自分の命を狙う死神の女だった。
なんて―――、なんて無様で、生きる価値すらない自分。
*
死神による死神への執行。
その瞬間は初めて見る。もとより死神とは自殺した……いわば、生きる意味を自ら失くした魂だ。魂というのは生きるという本能をもとに意思決定しているのだから、他者への殺意なんて強い意志は生まれない。
喪失した意思を殺意によって取り戻した記念すべき瞬間、だなんて私たちの間で呼ばれる、素晴らしい瞬間だ。
殺される死神の方はどうなるとか、そんないつか自分に及ぶかもしれないことは考えない。何故なら死神は生存の意思などないのだから。死神としての生すら終えたものはどこにいくのかは知らない。きっと次の「ステージ」に向かうだけだ。死神はそんなことは興味ない。何故なら……。
なんて。
思考がどんどん無関係な方向に広がっていく。現実逃避? そんなことはしていない。これは私の生前からの悪癖だ。
急速に思い出していく。
生きていたころの私の姿。生きていたころの私の癖。生きていたときに私が大事にしていたもの。幼いころの大事な思い出。大事な人との大切な思い出。さいごの瞬間の、あの人の顔。
もう鼓動を打つことはない胸に、そんな暖かい思い出が流れ込んでいく。ろうそくに手をかざした時のように、ほのかに暖かくて、頼りなくて、でも確かにそこにある。そんな暖かい思い出が。
私は、死神の鎌を構えた、祝うべき存在に声をかけた。
「後輩を殺す気ですか?」
「さあ。あなたが今すぐ吉田翔の魂を回収するのならそうならないかもしれない」
「無理な相談ですね」
「そう」
気付けば、凛と先輩に言い返していた。守りたい人のことを思い出しただけで、こんなに強くなれるなんて。
時間にして三十秒もない時間稼ぎ。互いにフードを深くかぶったままだ。視線を交わして、火花を散らすことさえ出来たか怪しい。けれど、先輩は。
「帰る」
そういって、私に背を向けた。急な方向転換のせいで、ローブに着けられたチェーンがぶつかり合う。
「後輩の記念すべき瞬間が見れたから、帰る」
思い出したんだろう、と拗ねたように先輩は言った。
「思い出したなら下手を打つな。どのみちアンタがミスったら私が吉田翔を殺す」
殺すなんて、と見当違いに言い返そうとして疑問に思う。先輩が翔君を執行せずに帰るなら私にとって好都合な筈だ。それをもしかして私は。
「―――引き留めようとした?」
「そう青くならなくていい。生前の記憶を取り戻したのなら生存本能も戻って当然よ」
面倒くさそうに答えつつも、顔だけ振り返って、私の方を窺い見ている。血の通っていない唇が、舌打ちしたあとに何事か呟いた。―――もう、……せいが、…れ……?
「もういい。行け。時間がないんだ、グズグズするな」
何かを言い返そうとした私を、先輩はそう突き放す。ここまで言われてこの場を去らないのは馬鹿だ。
そう結論付けて、私はビルの屋上を飛び立った。
「結局アンタは、生存本能が戻るたびに死ぬんだ。忘れた方が楽だっただろうに。
さよなら刹那。―――いいえ、お帰りなさい。椿春香」