Ⅰ もうひとつの……
椿は小説を書くことが好きだった。気持ちの赴くままに小説を書き、授業中に危うく教師に見つかりそうになったこともある
。
彼女は小説を書くとき、桜色のバインダーを広げ、真っ白なルーズリーフに物語を綴っていた。小説を俺たちに見せてくれたことはない。だけど俺は、垣間見える可愛らしい丸文字や書いているときの優しくて満ち足りた椿の表情を見るのが好きだった。
昼休みの教室でのことだ。前に一度、どんな物語を書いていたのかと聞いたことがある。すると椿はくすぐったそうに笑うと、バインダーを優しく抱きしめて言うのだった。
「刹那っていう女の子が主人公なの」
それで?と続けると、「秘密!」と冗談っぽく笑って言った。
春の日差しが教室にキラキラと差し込んでいた。
***
血色の夕日と三浦の黒い影がくっきりとしたコントラストを描く。
そう―――三浦はちょうど、柵を越えて立っていた。 柵の手前には綺麗に揃えられた靴、その下には封筒。 それはまるで、あのときのよう。
初夏の空、風で暴れる彼女の髪。
あのときの彼女の言葉は、笑顔は、何を意味していたのだろうか。
俺の見ていた椿は、いつも幸せそうだったのに。
どうして彼女はあの日、屋上から飛び降りたのだろう。
教えて欲しい、椿。
階段を駆け上がったせいか、息が異常に乱れている。こみ上げる吐き気と激情を抑えながら、俺は叫ぶ。
「――三浦ッ!」
三浦はゆっくりと振り向いた。三浦の驚くほど冷たく、俺を侮蔑したような表情に思わず息を呑んでしまう。
それでも何故か―――椿の表情と重なってしまう。それでようやく気付いた。あれは、椿春香の表情は「拒絶」という名の笑顔だったことに。
息はまだ乱れたままだ。 それどころか、どんどん息継ぎが困難になっていく気がする。
「……何で来たんだよ」三浦は低い声で言った。
知らない。 こんな三浦を、俺は知らない。
無意識に心の中で呟いた言葉があのときの言葉と同じだと気付いたとき、俺はもう限界だった。
「翔君ッ!」
視界が暗転して、次に瞼を開けたときにはコンクリートの地面が目の前にあった。呼吸ができなくなってきて、次には吐きそうになってくる。刹那はうずくまっている俺の名前を呼び続け、背中をさすっている。俺は目をつぶった。
椿が少し驚いた顔で、屋上から落ちていく。そんな椿を俺はただ、何も出来ずに見ているだけ。
そんな絶望的な光景を、俺はもう一度見なければならないのか。
「このバカ! しっかりしてください!」刹那の泣いているような、怒っているような声が飛ぶ。
ダメだ、ダメなんだ刹那。吐き気を抑えているといつの間にか熱い涙が頬を伝っているのを感じた。情けなさ過ぎた俺への怒りか、刹那の小さな拳がうずくまった俺の背中をドカドカ殴る。
「俺はもう……あんな光景を二度と……ッ、二度と見たくないんだ……ッ!」
抑えきれない思いを口にした瞬間、刹那が身を硬くしたのがわかった。俺は目を開ける。熱い涙で視界がぐちゃぐちゃだった。
「そうやってお前は、椿から逃げたのか」
三浦の刃のような言葉が、俺の胸をえぐる。ほんの少しだけ顔を上げると、三浦が眉根をきつく寄せてみていた。眼鏡の奥から軽蔑したような視線が俺を貫く。
「どうせお前には、椿がどうして死んだのかわからないんだろう。そうやって生きている椿からも、死んでいる椿からも逃げて。椿の痛みを理解しようともせずに、ただ自分の中で美化して、椿を苦しめてたんだ」
何言ってんだよ、と言おうとしたがただひゅうひゅうと音がしてくるだけだった。 そんな俺を、血色の夕日を背にして立つ三浦は鼻で笑って続けた。
「俺は知ってたよ、椿がどうして苦しんでいたのか」
「何をわかってるんですか」
低い声で呟いたのは、隣にいた刹那だった。驚いて刹那を見ると、ローブの下から覗く唇をきつく噛んでいた。更に驚いたことに、刹那が見えないはずの三浦も驚いた顔をして見つめていた。
「何をわかってるんですか」
驚く三浦にもう一度問いかける刹那。その小さな身体からは異常な迫力が出ていた。
俺はこんな空気を持つ刹那を一度だけ見たことがある。あの日俺に椿について聞いたときの、異常に取り乱した刹那だ。
刹那は俺の背中をそっと撫でた後、すっくと立ち上がる。
「翔君の痛みを理解することもできないあなたに、どうして春香さんの痛みがわかるんですか」
刹那はそう言い放つと、滑らかに前へと動いた。まるで見せ付けるような、人間では決してできない動きに三浦は固まる。
刹那は死神だ。例えその姿がいくら人間の少女のものでも、いくらその身体に足が付いていようとも、刹那は決して人間ではない。人間でいることを許されない。―――それが、彼女に与えられた罰だから。
俺はみじろぎもせず、刹那の小さな背中を見つめていた。
「あなたは何も知らないし、わからない。それは翔君も同じです。それはあなたたちは残された側だから」
その動きの異様さにか、それとも刹那の迫力に気圧されたのか三浦は一歩、後ろへ下がる。
刹那は変わらず話し続け、滑るように前へ動く。
「これからも同じです。あなたは残された側で、決して誰かを残すことはできない」
三浦や俺にような、誰かを残して死んでしまった刹那。死神になって人の死に触れ、残された人間を見てきた死神の刹那。刹那は両方の苦しみを知っている。
日が落ちる寸前の、焼けるような夕日。地平線の赤以外は、既に夜の帳に包まれている。
「私は自殺に対して何も言うことはできません。でもあなたがしようとしているソレは、絶対に間違っている」
死神は自殺した人間がなる。人の死に触れて、自らの過ちに気付くための罰。
その罰を受けてきた死神女は、三浦がいる柵の向こうまであと数メートルになったとき、はっきりと告げた。
「あなたは死ぬべき人間ではありません」
三浦の身体が崩れ落ちる。しかし下手にバランスを崩したら校庭へまっさかさまの場所だ。俺が声を発する前に、刹那が動いた。神速というべき速さだった。
いつのまにか柵を越え、三浦を片手で抱きかかえていた。俺は大きく安堵の溜息をつくと共に、刹那の怪力さを笑った。
(そういえばあいつ、最初に会ったときも俺の部屋のドア蹴破ってたよな……)
どうでもいいことに笑った後、意識が薄れていくことに気付いた。
でも、意識を失う直前に振り向いた刹那は。
確かにローブの下から大粒の涙を流していた。
長らくお待たせしてしまって申し訳ありません。
今回はかなりキツかったです。 そんで分量もいつもより多いです。