Ⅲ 向こうの少女
刹那は「今日は校内探検に行って来まーす」と言い残し、どこかに行っている。正直なにかやらかすのではないかと心配だが、本人は大丈夫と言っていたのでとりあえず信じておく。
それより重要な懸案事項は、これだ。
三浦は、昨日からなんかおかしい。
いつもは教師の講義を熱心に聴きながらノートをとっているのに、今日は窓の外ばかり見ている。時々、はっとしたようにノートをとり始めるが一分もしないうちにその手は止まる。
昨日、椿のことについて聞いてきたときの様子もおかしかった。
三浦がそうなる気持ちも、わからなくはない。むしろ、わかりすぎて辛いほどだ。
あの日のことは俺たちは、特に三浦は今まで口に出さなかった。
俺はふと、黒板に書かれた日付を見る。
今日は五月十七日。
あと一日で、俺たちにとっては悪夢の日になる。
***
椿春香が、生きていた頃。
俺と三浦、椿はクラスの中でも特に仲が良かった。あの頃の俺は毎日が楽しくて、それは三浦も、もちろん椿もそうだろうと思っていた。
それはどんなに愚かで、浅ましい思いだろう。
人がいる数だけ、その人間の思いは異なる。だから、自分の周りでも恐ろしいことや悲しいことはたくさん起こっている。そんな当たり前のことに、あの頃の俺はまったく気付けていなかった。
二年前のその日は、五月にしては気温が高く、空は青く澄んでいた。
教室の机の中にそっと入れられた、水色のメモ。俺は昼休みの後にそのことを気付いた。
そこに見知った丸文字で、『翔君、いままでありがとう。短い人生だけど、とっても楽しかったよ』と書かれていたのを見て、俺は教室を飛び出した。
それが何なのか。考えるまでもない。これは遺書だ。それも、幼馴染の椿春香によるもの。
けれどなぜなのか。それがまったく見当がつかなかった。
昨日の夕方、一緒に帰った春香を覚えている。
昨日の夜、遅くまで他愛のない会話をメール越しに交わした。
今朝、いつものように春香に急かされながら朝の支度を終えた。
今日の一限の後、恥ずかしそうに笑いながら教科書を借りに来た。
どの春香も、いつも通りに笑っていたのに。
クラスの友達が驚く声や授業が始まるからと諌める教師など、気にも留めなかった。
ただ、一目散に。椿がいるであろう場所に向かう。
屋上へ。
ドアをあけると、生ぬるい風が俺の汗だくになった頬を撫でる。
そして、柵の向こうにこちら側に背を向けた椿が立っていた。
椿、と俺が声を搾り出すと彼女は振り向いた。少しでもバランスを崩したら、校庭にまっさかさまだというのに驚くほど普通に、軽く彼女は振り向く。
「ああ、……翔君」
いつもと全く変わる事のない、無邪気な笑顔。かけられた声も、いつもとまったく変わらない。
大汗をかいたせいだろうか。いやに身体が薄ら寒かった。
「お前、何しようとしてんだよ……!」
「自殺」
柵の向こうに立つ少女は、まるでそれがとっても楽しい出来事のように、たったひとことで断じる。無邪気な笑顔は微塵も動くことはない。
「今にも飛び降りられるところだったのに、邪魔されちゃったところ」
そうして笑顔は変わらないまま、少しだけ目線を下にやる。そこには丁寧に揃えられた上履きと、それを重石にして置かれた封筒が置いてあった。
そして、もう一度俺のほうを見て話し出した。
「翔君はどうしてここがわかったんだろうね。私はいつも一人で、誰にも必要とされてなかったのに。どうしてここがわかったんだろうね……」
俺の表情を見て、ますます笑顔になりながら。でも、その笑顔とは逆に椿の声は冷たく鋭くなっていく。
何故か、薄ら寒さは強くなり、指先はどんどん冷えてくる。
「ねえ、どうして?」
その椿は、間違いなく俺の知らない椿だった。
表情だけは明るく、声は冷たく。先程言っていた言葉も、何もかもまったく理解できない。
知らない。
「どうして、ここに来たの?」
俺は、こんな椿を知らない―――!
そんな思いに頭はどんどん支配されていく。椿は柵の向こうにいて、自殺しようとしているのに。自分の混乱だけで、頭がいっぱいになる。
どうして、椿が自殺なんかしようとしているのか。
どうして、そんなときに笑ってなんかいられるのか。
まったく、わからない。 知らない。
わからないから、怖い。
そんな俺の感情に気付いたのだろう、椿は目を少しだけ細めた。
「椿……!」
そう呼ぶのが、やっとだった。
なんて言っていいのか、わからなかったから。
そのときだった。
中でもひときわ強い風が吹いたのは。
椿の細い身体はあっけなく、校庭のほうへ追いやられた。 彼女の表情が、はじめて驚いたものになる。 俺はもう一度、彼女の名を叫ぶ。
椿は落ちてゆく瞬間に、最期にもう一度だけ笑った。
それはいつもの、俺が知っている椿春香の笑顔だった。
志望校に無事合格しました!
更新の遅くなってしまって申し訳ありません。
書いてて辛かったのが、椿がどんどん中二病みたいになってゆくこと。
作者の中で椿は死生観がちょっと狂っているイメージの子だったので、そうしたかったんですがorz