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小さな喫茶店

作者: eyecon



 閑静な街中に佇む、小さな喫茶店。夕陽に身を焦がすように、その建物は琥珀色に滲んでいる。看板は色がくすんでおり、目を凝らさないと文字が読めない程。その上レトロな作りなのもあって、まるで過去の景色から喫茶店だけを浮き出させているかのようにも見える。

 私はいつからここに通うようになったのか、と思い返してみても、正直全く覚えがない。落ち着く場所だから。なんて、理由はきっとそれだけ。

 看板下のガラス扉を覗く。そこから見えるのは、暖色の蛍光灯で仄かに照らされた、静けさの漂う店内。見回してみるが、あまり人はいないようだ。いつも通りだ、良かった。人気の多いところが苦手な私にとっては、ここは都合のいい場所だ。



 カランカラン♪



 入口を開けると、まず聴こえてきたのはドアベルの音色。そして、静かなジャズ音楽。

 Jade Visions。ビル・エヴァンス・トリオのアルバム、『Sunday at the Village Vanguard』に収録された曲。その名の通り、休日のジャズクラブがテーマになったアルバムなだけあって、週末の夕時にこの曲はぴったりだ。少しテンポが遅いのを聴く限り、Take2の方。なんて、ただの受け売りなのだけど。



「いらっしゃい、理恵さん」



 曲に耳を傾けていると、その音に紛れて、奥の方から私の名前を呼ぶ男性の声が聞こえてきた。一度音楽を聴く耳を休め、私は声のした方へ目を向ける。するとそこには、見慣れた髭を生やした、マスターの姿があった。彼は私に対して微笑みながら、カウンターの方へ歩いてくる。



「こんにちは」



 私はそう言って、軽く頭を下げる。すると、マスターは店内のスピーカーを指差して「幸運だね。ちょうど君の好きな曲が流れてる」と嬉しそうに言った。その言葉に、私は笑って返す。実はこの曲も、マスターが店内で流していたのを聴いて知ったものだ。彼はジャズ音楽が好きで、気に入った曲は客と共有したいらしく、店内で何度も流すのだ。私は見事に彼の術中にハマり、ジャズ音楽が好きになってしまった。



「まぁ、座りなさい」



 マスターはそう言って、カウンター席の方へ手を向ける。私の席は、右から数えて3番目の席。今日も私はそこへ腰掛ける。別にそうと決まっているわけではないのだが、なんとなく自分の場所は統一したい。

 私が席に座ると、マスターは途端に残念そうな表情を向ける。



「本当はこのアルバムをレコードで聴かせてあげたいんだけどね、まだ用意できないんだよ」マスターはシンクに重ねられた食器を洗いながら、話を続ける。「スコット・ラファロのベースが最高でね、アナログレコードで聴くと最高に響くんだけど、スピーカーからだとあまり聞こえないんだ」



 あまりに悔しそうな顔を向けるものだから、私はついついニヤけながら、「今日はレコードの宣伝?」とマスターに聞く。すると、マスターは私の方へ顔を近づけて、口の横に手を添え、ヒソヒソと話し始める。



「……実はここだけの話、この喫茶店はアナログレコードの制作会社がスポンサーについててね、一日一回宣伝しないと契約を切られちゃうんだよ」


「ふふ、それは大変だね」



 笑いながら、マスターの冗談に付き合う。マスターは「まぁね」とウインクをしながら、洗い終わった食器をしまう。そして、棚から白いカップを取り出す。ああ、いつもありがたい。

 私はここに来ても、コーヒーしか頼まない。それを分かっている為、いつからか私が何も言わなくても、こうしてすぐにコーヒーを用意してくれるようになった。常連というのは得である。


 マスターがコーヒーを用意してくれている間、私は店内を見渡す。少し薄汚れた白色の壁には、様々な絵画や写真が飾られており、いかにも昔ながらの喫茶店、と言った感じ。お客はやはり少なく、カウンター席には私一人。テーブル席には、楽しそうに話す数人の男子高生グループと、仲の良さそうな中年夫婦だけ。彼らもこの店でよく見る顔だ。一度も会話をしたことは無いけど。



「はい、お待たせ」



 マスターは静かに、コーヒーの入ったカップを置く。



「ありがとう」



 私はそう言って、カップを手に取る。その瞬間、コーヒーの爽やかな酸の香りが、撫でるように漂ってくる。彼曰く、このコーヒーにはローストの浅い「ケニア豆」を使用していて、香味が爽やかなのがこの豆の特徴らしい。この香りを嗅ぐだけで、疲れもストレスも浄化され、私の心がリラックスしていくように感じる。

 カップに口をつけ、コーヒーを流し込んでいく。芳醇で爽やかな、ベリー系の風味が口の中に染み渡っていく。この柑橘系のフレッシュな味も、ケニア豆ならではらしい。ローストが浅いおかげで酸味も強く、『のどごし爽やか』という言葉がぴったり当てはまるだろう。美味しいことこの上ない。



「理恵さんぐらいだよ、このコーヒーをしっかり気に入ってくれてるのは」


「そうなの?」



 私の問いに、マスターは苦笑いをしながら答える。



「ああ、日本のコーヒーは酸味を抑えたものが主流だからね。慣れ親しんでないのもあるせいか、なかなか気に入ってもらえないんだ。仕方ないけど、日本と海外との感覚の違いだろうね」



 首を小さく横に振り、マスターは寂しそうな素振りを見せる。確かに、日本で販売されているコーヒーやチェーン店で出されるコーヒーも、酸味の抑えられたものが多い。海外では旨みのアクセントとして、酸味を加えたものが好まれる傾向がある、というのは私も耳にするが、やはり環境の違いだろうか。



「残念……私は好きだよ、この味」


「そう言ってくれると嬉しいよ」



 マスターはまた、苦笑いを浮かべていた。私は静かに彼の表情から視線を背け、再びコーヒーに口をつける。あの顔を見ていると、なんだかこちらまで寂しい気分になってくる。と思った矢先。



「ああ! 感覚の違いといえば、面白い話があってね?」



 先程の苦笑いがまるで嘘だったかのように、マスターは楽しそうな表情を浮かべながら私にそう言った。なんとも気分屋でお喋りなマスターだ。



「欧米人は鈴虫の声が聞こえないのを知ってるかい?」



 飲んでいたコーヒーを置いて、私はマスターの方へ顔を向ける。



「ううん、初耳。本当なの?」



 私の言葉を聞くと、彼は傍目でも分かるぐらいに嬉しそうな表情を浮かべた。さて、彼お得意のうんちくの時間だ。



「ああ。日本人と欧米人では、虫の声の聴き方に違いがあってね。言語聴覚の違いで起こると言われてるけど、科学的には解明されてないんだ」



 マスターはそう言いながら、食器を洗っていた手を止める。



「……で、そんな風に人それぞれ音の捉え方に違いがあるという事なんだけど……その違いにスポットを当てた『無音』の曲がある事を、君は知ってるかな?」



 無音の曲。私はその答えがわからなくて、「知らない。なんて曲?」とマスターに聞く。そもそも、無音であるのに音楽として成立するのだろうか?なんて、私の疑問も消え去らないうちに、マスターは喋り始める。



「ジョン・ケージっていう音楽家が作曲した「4:33」っていうピアノ曲で……と言っても、ピアノは弾かないんだけどね」



 弾かないんだ。と、静かに心の中で私は呟く。



「『無音』である事によって、自分の中にある『音』の感じ方を解放するための音楽なんだ」


「音の……解放?」



 彼の言葉に、余計に疑問が増えていく。無音であるのに、どうして音を感じろというのか。と思ったが、自分の中で思考しても答えが浮かぶ訳では無いので、私は素直に彼の話を聞くことにした。



「そう。例えば、私たちが今ここで何もせず、喋らずにいるとする。すると、他の客の喋り声や食器がぶつかる音が聞こえてくるだろう?」


「……確かに」


「その音や声を自分なりに受け取って、音楽として消化する。それがこの音楽の肝なんだよ」


「今で言う、環境音楽みたいな?」



 アンビエントやニューエイジミュージック、その類いだろう。音楽を聴くのではなく、聞き流すための音楽。自然の音や、何かの物音等を中心に構成されたもの……だと、彼の口から聞いたことがある。つまり、受け売りだ。



「正にそれだよ! 例えばね、雨の音を聞いたとする。しかし雨の落ちる音は必ずしも一定ではないだろう? それに、いつか止んでしまって、音が止まる。すると今度は、雨で遮られていた音が聞こえてくる。それは自分の足音だったり、車の音だったり。その偶然性、つまり、ランダムに聞こえてくる音を楽しむのが、この曲なんだ」



 マスターは食器を片付け終えると、カウンターに静かに手を置いて、少し前のめりになりながら、再び話し始める。


「西洋ではね、音楽は一つの「作品」として見られてたんだよ。だから、決められている物以外の音が介入するのを恐れ、拒んでいた。ジャズなどは少し例外だけどね。だけど東洋音楽では、音の「間」を重要視している所があってね。雅楽とかがその典型だ。この「4:33」という曲はね、そんな東洋の音楽の在り方に影響を受けて、作られた曲なんだよ」



 私はその話を聞いて、彼が先程言っていた、虫の声の話を思い出した。そういった音楽の思想が、西洋、東洋の違いに現れているのだろうか。



「環境音楽の先駆けといえば、エリック・サティ。彼の音楽では、ジムノペディが有名だね」


「ああ、私も仕事柄、その曲は知ってるよ」



 私は看護婦をやっている傍ら、ジムノペディはよく聞く。病院に設置されている血圧計では、測定時にジムノペディが流れるものが多いからだ。世では、あれを落ち着く音楽と称しているが、私は嫌いだ。嫌でも仕事をしている自分を思い出してしまうから。出来るだけプライベートと仕事は切って考えたい私にとって、害になる音楽でしかない。



「彼はね、「家具の音楽」っていう室内音楽を作ったんだよ。このアルバムのコンセプトは、「意識的に曲を聞かせない事」なんだ。ただ、彼はこの試みに失敗したようだけどね。そこで彼と逆の発想をしたのが、ジョン・ケージってわけさ」



 彼は頬杖をついて、黄昏れるように外を眺め始める。



「きっかけと偶然。その瞬間に見る『美』を音として表現する。この考え方は、とても素晴らしいと思うんだよ。私たちの人生も、偶然の積み重なりだからね。どこで何が起きて、何が繋がっていくのか。それを予想出来ないからこそ、面白さがある。そしてその偶然がある限り、それは個々に引き継がれて、永遠に広がっていくんだ」



 そう言ったマスターは、突然思い出したようにこちらを向いて、頬杖を解く。



「そうだ、『Jade Visions』はね? ジェード……つまり、『翡翠』の事なんだが、翡翠を叩いた時に、澄んだ音が永遠と音を響かせる様をイメージして、作られた曲なんだ。ベースを(はじ)く音が何度も流れるだろう? ラファロはそれで翡翠の音を表現しているんだ」



 Jade――翡翠。私はその言葉の意味に、密かに驚いていた。私の誕生石と、同じだったからだ。

 翡翠も、西洋と東洋では扱いが違うと聞く。東洋ではそれこそ宝石として扱われているが、西洋では宝石としての価値はあまり見出されず、同じ原色の宝石なら、『エメラルド』の方が根強いらしい。そういった意味では、翡翠は『和』の宝石、と言ったところか。もしかしたら、私は知らず知らずのうちに、東洋的思考に惹かれていたのかもしれない。翡翠の音は聞いた事がないが、感銘を受けたということは、それほど美しいものだったのだろう。



「翡翠がぶつかるように人が出会い、そしてその音が余韻を残すように、永遠に人を紡いでいく。私はね、この喫茶店に、その可能性を感じたいんだ。いつまでも終わることのない、彼らの時間を楽しんでほしいんだよ」



「……素敵な考え方だね」私はそう言って口元を緩ませ、言葉を続ける。「この曲を好きな理由、わかった気がする」


「そうか、それは良かった」



 マスターも同じように私に微笑んだ。

 私はコーヒーカップをもう一度手に取って、少しづつ口に注いでいく。きっと私がこのコーヒーを、この曲を、この喫茶店を好きなのも、そこに理由が無いわけじゃなくて。ここで過ごした私だけが知っている時間を、翡翠のように澄んだ景色にして、記憶に焼き付けたいからなんだ。

 コーヒーを飲み干すと、私はコーヒーカップを置く。口の中にはまだ、爽やかな後味が漂っている。しばらくこれが消えない内は、この「偶然」と、爽やかな余韻を楽しんでいよう。私の時間が許すまで。




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