第九話 それぞれの日常
結局、予想に反して八巻さんに会うこともなく数日が過ぎていた。
バス通りを通らないように帰り道を変えたからってわけじゃないと思う。陽向の言うように自由が利くなら僕がどこに居ても同じだろう。実際そうやって陽向にも会いに行ったらしい。
明確に次の日時を約束していたわけじゃなかったから、また唐突に僕の前に現れるつもりなのかもしれない。
無表情に「サプライズです」なんて言って。あはは……ありそう。
千尋さんも初日の僕のお断りの言葉を冷静に顧みてくれてればいいんだけど……。
狐の恋の季節は冬。
この前の冬は一時期物が食べられないくらいに恋煩いに泣いて衰弱した。
だからこの夏、仕えてくれている八巻は自分の願いを聞き入れ園田陽向を連れに行ってくれたのだろう。
もしも次の冬も同じように絶食となれば、最悪命の保証はないが故に。
とは言え、野狐ではなくあやかし狐――妖狐な千尋は季節にかかわらずいつでも胸が高鳴る。
園田陽向の姿を思い浮かべるだけで。
背丈もそう変わらなかった当時の姿から現在へと記憶が急激な相手の変化と共に更新され、実際に抱き付いたりしたおかげで体温体臭をじかに感じただけではなく、互いの体格の違いがより顕著になっている相手の成長をも実感し、格別にドキドキした。
「……お断りされましたけれど」
広い和室に敷かれた布団の中、千尋は一人ひっそりと呟いた。
彼女は一日床の中で過ごす日も珍しくない。
この五年、会いたくて会いたくて会いたくて堪らなかった。
想い人が暮らすのは、あやかし世界よりも権力も命の流れも激しく速い、移ろいやすい人間世界だ。ぐずぐずしていたら他のメスに盗られてしまう。
人間のメスなら百歩譲るとして(なんて言ってそんな気は毛頭ないが)、もしもまたあの時みたいになったらと思うと、嫉妬と憤怒、焦燥が込み上げる。
気がかりは、彼がこちらの世界に来て自分と接触した点だ。
好き好き言っていたあれでもだいぶ抑えていたのだが、否応なく気配は付いた。
人間臭と混ざり合い、他のあやかしからも目を付けられやすくなってしまった。
あやかしたちは基本的に他のあやかしの執着するものに興味を示す傾向がある。
それが物でも人でも。
罪の意識もなく様々にちょっかいをかけ、それを壊すこともしばしばだ。
面白そうな獲物と定めれば、バケモノ道を彼の近くに意図的に繋げようとだってするだろう。
しばらくは彼の護衛をお願いしている八巻には、その点も留意するようには言ってある。
けれど、人に頼むしかない自分がもどかしい。
「ひなた様はわたくしのなんですからね」
なんて誰にともなく宣言してみる。
一度や二度の拒絶なんて想定済みだ。
思うように動けない我が身の弱さに嫌気が差す。
けれどこうなったのを千尋は後悔していなかった。
それに、昔より自分を嫌いではない。
変だ馬鹿だと後ろ指を指され、真に受けて泣いていたあの頃とは心構えが違っている。
あやかしだろうと人間だろうと、自分より劣る者、自分と違う点を寄ってたかって苛めるなんていう未熟な習性を持つ者は持っている。
でもたった一人でも、自分を受け入れてくれる特別な存在がいれば、他愛のない者の雑言なんてもう気にもならない。
「ひなた様……早くまたお会いしたいです」
五年前の出会いが千尋を根底から救ってくれた。
温かなものが胸に広がる。
先日優しく撫でられた頭に手を添え、千尋は切ないほど幸せそうにはにかんだ。
「ごめん、今日は美化委員の仕事があるんだ」
放課後、教室に来た陽向に僕はそう残念なお知らせをした。
弟は案の定「またかよ?」と不満を露わにする。
この日は、美化委員と緑化委員が定期的に合同で花壇の手入れをする日だった。
花壇の整備はどっちの管轄か微妙な線上にあるらしく、以前まではよく揉めていたらしいけど、誰かがだったら共同管轄区域にして一緒に作業をすればいいと提案し、いつからかそうなったらしい。
まあ作業内容は主に雑草取りなんだけどさ。
え、水やりは緑化委員担当だから草取りもそっちじゃないの何でだよ~って思うのは僕だけだろうか。
校舎回りからプール方面まで設置されている花壇は案外面積があるので、人海戦術で一日で終わらせようってのが学校側の魂胆なんだろう。
「仕方がないだろ。陽向も一緒にやる? 人手は多い方がいいしさ」
「……やらない、帰る」
「そう言うと思った。でも部活は?」
「兄貴が居ないなら出る意味ねえし」
「ええ? ここ数日陽向が真面目に出てるから部長も喜んでたのに」
「部長? んな人いたっけ?」
「いやいるだろ!」
いつもタンクトップと短パンで練習に臨む暑苦しい体育会系の部長を弟は苦手にしていた。
「折角タイムいいんだし練習しないなんて勿体ないよ」
僕たち園田兄弟は陸上部に所属している。
まあ陽向は帰宅部同然なんだけど。
ただ、兄の僕が驚く程身体能力は高い。
一体どこでどう鍛えてるんだかなあ。
「3000とか5000なら兄貴のがタイム良いだろ」
「僕は短距離向きじゃないからね。100Mが得意な陽向に時々憧れるよ」
「……そう、なのか」
「そうだよ」
「……俺は兄貴の持久力が羨ましいけどな」
弟は照れて口元を弛ませた。
――ハッ!
ここで僕は麻薬犬のように唐突かつ敏感にとあるものを察知した。
ちょうど教室入口で話している僕たち兄弟の姿は教室と廊下双方から見つけやすい。
帰りがけの女子たちの視線がこっちに集中している。
熱く、それでいて何かを期待するような眼差しで。
何でそんな目で見て来るんだ?
んん? 何か言ってる?
えーどれどれ、どっちかもっと近付いて顔を覗き込んでその唇を……って何で!!
女子たちの囁きに不可解なものを感じつつ、少し考え答えを出す。
目の前には好感の持てる弟の笑み。
あ、そうか。
皆陽向を見てるんだ。
こういう風に照れたり笑ったり、素直に感情を表現するからモテるんだろう。
人間の女子には分け隔てなく優しいみたいだし。
「じゃあ先帰ってるけど、帰りは気を付けろよ」
「うん、バス通りは通らないから安心して。陽向も気を付けて帰るんだよ」
「はいはい」
余裕な態度で頷きつつ弟は珍しくも僕の頭をくしゃりと撫でてきた。
女子たちがざわつく。
「陽向?」
「たまにはサービス」
「ええ? 何の?」
それには答えず、陽向は踵を返して廊下を去って行った。
――あーあ、双子BL終わっちゃった~……なんて声は、幸い僕の耳には届かなかった。