第七話 兄と弟
群青。群青。群青。
今視界を満たすのは青と紫の間にあるとても澄んだ色だ。
見える景色が陽炎のようにゆらゆら揺れるここは火の中だったろうか水の中だったろうか。
ああそうだ、水だ。
だってほら川面が頭上に見えている。
水面に当たる真昼の強烈な陽光が水を介して滑らかな光となって射し込んでいる。
水中なのにおかしな表現だけど、まるで雲間から射す光、天使のはしごを思わせた。
群青と白光と揺らめきの世界。
息苦しさに似つかわしくないこの幻想的な世界は何だろう。
全身から力が抜け不可視の力に引き離されるように遠のく意識。
その最後の糸を手放した刹那、僕の代わりに細いその端を掴んでくれた誰かは、その全てで僕を引き留めようとしてくれていた。
――死なないでっ!
闇に沈む感覚の中、弾けるように甦った高い声にハッと目を開けた。
そうだここはまだ水の中……とそう思った途端もがくように必死になって手を伸ばした。
「……はあっ……はあっ……はっ……」
あ、れ……?
息が、続く。
僕は今どこにいるんだっけ?
滲んでいた視界の中、伸ばした右手がようやく像を結ぶ。
薄明るい中、それほど遠くない位置に天井があった。
自分の部屋の。
遮光カーテンじゃない窓からは透過する朝日と雀の忙しない囀り、それに交ざってカラスの鳴き声も。
カラスが五月蠅い日は大抵がゴミの日だ。そっか今日は可燃ゴミの日だっけ。朝楽に出せるようにって昨日纏めたもんな。
そんな思考が僕をはっきり現実へと引き戻した。
「夢、か……」
どうにも変に現実味があって参った。
寝汗がびっしょりだ。
弟と分けて使っている二段ベッド上段に横になったまま長く細く息を吐き出すと、伸ばしていた右腕を戻して力なく目元を覆った。
「兄貴、うなされてただろ」
起きて洗面所で顔を洗っていると弟の陽向が横で順番を待ちながら訊いて来た。
同じ顔だけど陽向の方は脱色して金髪に染めているし、やや長めだから受ける印象はだいぶ違うと思う。
まあ弟はファッションも流行りに乗っていて、僕はそれ程気にしない人間だ。街中を歩いていても簡単に埋没するような平凡な服しか持ってない。
ははっだからモテないのかなー。
「ごめん、もしかして寝言とかうなされ声が五月蠅かった?」
二段ベッドの上下なんだから聞こえても不思議はなかった。
「いや、朝方ちょっと目ぇ覚めた時、上で寝苦しそうな呻きが聞こえてさ。兄貴が安眠できないって珍しいから気になって」
「そっか。何か変な夢だったんだよ。群青色の中、溺れる夢っていうか」
「溺れる……?」
するといつもへらりとしている弟がやにわに表情を真剣なものに変えた。
「兄貴、九条千尋って名に心当たりは?」
「やっぱり知り合いなんだ。その子なら、陽向の代わりにフッてやってくれって頼まれて、昨日会ってきた」
「はああ!?」
「わあっ……とと、まだ顔途中っ」
陽向は何を思ったか有無を言わさず僕を引っ掴んで反転させ、真正面から覗き込んでくる。
幸いもうほとんど泡は落ちていて、目に入って沁みずに済んだから良かった。
「くそっあの眼鏡の女兄貴んとこ行ったのかよ。兄貴、頼むから九条家に関わるのは止めてくれ。無視しろ無視!」
「……陽向?」
真剣な目で訴えてくる弟を、ポタポタと水滴を垂らす僕は困惑した顔で見つめ返した。シャツの襟がどんどん濡れていく。
「そのことだけど陽向のふりして断ったら前向きな子でさー、諦めてくれなかった。ごめん! 陽向にべた惚れでちょっと重い子だったけど言い換えれば一途な子だったよ」
それに妖怪だから陽向はすごく興味あるんじゃないの?
千尋さんも耳と尻尾が自前なのを知っているって前提で接してきたし。
「陽向、……千尋さんがお狐さんだってことは?」
家族に聞かれても困るからと声を潜めれば、陽向は盛大に顔をしかめた。
「知ってるよ。ああだから執念深いのかあれはっ。玉藻とか妲己とか古代からホントろくなのいねえな女狐は」
「こら、昔仲良く遊んだ子なのに執念深いなんて言い方良くないよ」
君主を誑かした悪い狐だったなんて言われたりもする玉藻前や妲己は割とメジャーだし名前くらいは僕でも知ってるけど、千尋さんと一緒くたは違うと思う。だって彼女はただ一途なだけで……。
震える声で「お気に召しませんか」と問われた瞬間を思い出して、僕は何とも言えない苦い気持ちになった。
そんな僕を陽向は怪訝そうに見てきたけど、すぐに怒ったような表情へと変わった。
「しつこく言うけどあいつらには関わらないでくれ。ああ言うのは誘いに応じるからつけ上がってきて面倒なんだよ。声をかけられても無視して放っておけば自然と寄り付かなくなる」
「いやそれはいくら何でも失礼…」
「――兄貴」
陽向は、僕の顔を両手で挟んで額を突き合わせた。
近い距離で兄弟で見つめ合うなんて変だけど、小さい頃からよくこうやって弟は僕に色々と諭してくれる。
「ははっリアル鏡だね」
「茶化すなよ」
逆を言えば僕に何か言い聞かせたい時はこうやってくる。
しっかりと真っ直ぐ僕の目を見て僕が納得するまで。
今までそれで僕が理解を示さなかった例はない。
陽向の言葉には説得力があったし、いつも僕のためだった。
「妖怪と人間の常識は違う。あいつらは常に自分の利益しか求めない自己中心的な化け物で、時に平気で命を奪おうとする危険な存在なんだよ。絶対に気を許したら駄目だ」
「え、でも千尋さんは命とかそこまで危険な感じはしなかったけど?」
まあ更生云々には困惑したし、ぶっちゃけ八巻さんにはひしひし危険感じたけど……。
「陽向は心配性だなー。僕たちと共存してる妖怪もいるって言ってたし、全部が全部そうじゃないらしいよ」
「兄貴は楽観的過ぎる。そんなだからっ……」
「陽向?」
「――俺は妖怪が心底嫌いだ」
「え? 好きだから詳しいんじゃないの? でも僕みたいな無知な人間が接すると危険だから魔除けのおまじないを掛けてくれたり、よく注意をくれたりするんだろ?」
「逆だ。憎んで嫌悪してるから相手の習性や生体を良く知っておく必要があると思ってる。注意するのは何かされてからじゃ遅いからだよ」
「あ、そうだったんだ……」
僕は大きな大きな勘違いをしていたらしい。
僕たちの部屋の本棚にあるオカルト関連の書物もそういう意図で集めたのか。
でも妖怪だから嫌うってのは、千尋さんには結構酷な現実だよな。
弟の口から憎むなんて強い言葉が出てきたのも、意外だった。
「確かに妖怪は怖いけど、僕は彼らを単純な好きか嫌いかでは判断できない。相手を知ることがまずは肝心だと思うから」
達観とは違うけど、持論を曲げるつもりはない。
それは弟や他の人に言わせれば愚かなのかもしれないけど、彼女たちに会ったからこそ堅持しなければならない僕のスタンスのように思うんだ。
説き伏せるのはすぐには難しいと感じたのか、額を離した陽向は苦々しそうに「あの女狐め」なんて毒づいた。
解放されようやくタオルで水滴を拭いながら、過ぎる口の悪さを注意しようとした所で先に口を開かれた。
「あのな、今だから打ち明けるけど、狐守旅館でも兄貴は妖怪のせいで死にかけたんだ。だから関わってほしくないんだよ」
「僕が……? あの時は単に風邪をこじらせただけだろ? どうしてそこに妖怪が関わってくるんだよ?」
意外な話の方向性についつい呆れた。
死にかけたなんて大袈裟だし、旅館で危険な妖怪を見た記憶はない。
高熱のせいでずっとうつらうつらしていて変な夢ばかり見ていた気はするけど、それも覚えてすらいないし。
「風邪だって旅館近くの沢に落ちて濡れたから引いたんだしさ。忘れたの? ほかでもない陽向が何度もそう説明してくれたんじゃないか。妖怪のせいにしたら駄目だよ」
「…………悪い、そうだった」
怒ったつもりはないんだけど、陽向は何だか暗い顔になった。
「だけど心配ありがとな」
何となく、弟の頭に手を置いていい子いい子した。
高校生にもなってと一瞬思ったけど昔からよくこうしていたし、陽向の方も嫌がる素振りは見せなかった。
「まあでも千尋さんの件は僕が引き受けたことだし、責任持ってきっぱり断ってくるよ」
すると弟は顔を歪めあからさまに不服そうにした。
「もし陽向が自分で行く気になったなら、手を引くけど」
「いや、兄貴が適任だよ。兄貴自身できちんと振るなら文句は言わない。だから頼むからすっぱりな」
やっぱり陽向はどうしても会いたくないらしい。
「わかった。さ、そろそろ身支度進めよう。学校に送れるよ」
「ああ……今日は一緒に出る」
「彼女との約束はいいの?」
「いつも女とばっか通ってんのも飽きた」
わあ~殺意が湧きそうなくらい羨ましい台詞。
同じ顔なのに天と地。
僕はそこはかとなく黒いものを感じつつ、タオルをタオル掛けに戻した。