第六話 身代わりの義務
あの後、どうにかこうにか千尋さんの誘いを断れたのは良かった。
不機嫌な千尋さんに涙目で「宿題が終わらないと先生に怒られるからもう家に帰りたい」って訴えたら大袈裟なくらいに目を見開いて口に手を当てて「わかりましたわ」ってあっさり引き下がってくれたんだ。
男子高校生として何か色々と終わってる気しかしないけど、命には代えられない……うん。
『ひなた様がバケツを両手に持って廊下に立たされるなんて、わたくし想像するだけでも耐えられません! 心が痛いです!』
彼女はそう嘆いて同情してくれた。そこももう何も突っ込まない、うん。
僕のやり口に、八巻さんは無表情にどこかの大富豪がするようなゆったりした余裕の拍手を送ってくれたっけ……。
「暗いですし、くれぐれもお気を付け下さいね~!」
屋敷正面の門前から千尋さんが見送ってくれている。
『絶対絶対またいらして下さいね』
帰りしな、千尋さんはまるで懇願するように僕の手をきゅっと握ってきた。
やっぱり僕より熱い華奢なその掌は、僕と彼女の気持ちの温度差みたいだな。
現に、この問いに僕は明確な返答をしていない。
曖昧な笑みで濁しただけだった。
「思ったよりも私どもあやかしに拒否反応がないようで正直意外でした」
門を出て、こだわりの超絶職人技の集大成か少しの凹凸もムラもない真っ平らな白漆喰の塀の横を歩く僕へと、同じくその脇を歩く八巻さんがポツリと感想を滲ませた。
「ははは、他にも動揺することばかりでしたから……」
何気なく振り返った僕の視界の先、だいぶ小さくなった千尋さんはまだ屋敷正門の前で見送ってくれていた。
もう中に入ってもいいのに、健気だよなあ。
そう思うと少し胸が痛む。
「実は妖怪って初めてでもないですし」
「そうなのですか」
「以前は何だかよくわからない姿をしたモノノケとよく遭遇していたんですよ。でもきっとああいうのは子供に寄って来やすいんですよね。最近は見かけませんし。八巻さんと千尋さんが久しぶりの妖怪でした」
それに八巻さんはまさに人間そのものだし、千尋さんの姿だって極めて人に近かった。少なくとも今まで僕はそんな妖怪には会った記憶がなかった。
八巻さんがじっとそんな僕を見つめる。
「……失礼ですが、魔除けの札などを持っていたりは?」
「さすがに御札は持ってないですけど、陽な……兄弟から魔除けのおまじないだかをかけられたことはあります。気休めだったんだと思いますけど。子供の頃からよくその手の本を眺めていましたから」
「……確かに雑魚には効くようですね」
「はい?」
「ああいえ、なるほど、彼はオカルト関係が得意でしたか。だからお会いした時の雰囲気が曲者で……」
「え、何か粗相でも?」
「いえいえ。隙のない殿方だと」
「隙のない? いつもチャラだら~って隙だらけな気がしますけど。よそ行きの顔ですかね」
陽向への八巻さんの感想にいまいちピンと来なくて僕は首を傾げた。
「ところで八巻さんはよく人間世界に来るんですか? こっちの常識に詳しそうですよね」
「ええまあ以前は情報収集のためよく行き来していました。ですが千尋様がこのお屋敷に住まわれてからは世話役に抜擢され、用がなければ伺いませんね」
「そうなんですか。あのちょっと気になったんですけど、狐守旅館のように他にも人間界に進出している妖怪の企業とか、人間として生活している妖怪っているんですか?」
「もちろんそこそこおります」
マジか。
きっと僕たちが気付かないだけで、妖怪変化は意外に多いのかも。
「それは凄いですね。人間社会に上手く溶け込んで共存できてるんだ」
「そうですね。万が一露見でもすれば大ごとになりかねませんので」
「大ごと? 妖怪大戦争とか?」
「それもかつてありましたし極論として否定はしませんが、現代においては、もしも自分のせいでバレれば人間たちからだけではなく、あやかし社会全体からも白眼視されて非常に肩身の狭い思いをする羽目になりますね。故に人間界に暮らすあやかしたちは皆細心の注意を払って日々を過ごしているようですよ」
なるほど、村八分も同然、いやもっと悪い境遇に追いやられるのか。
「でも、妖怪も人間社会で平和に生活しているなんて、何だか嬉しいですね。案外道端ですれ違ったりしてるのかも」
「嬉しい、ですか?」
くすりと小さく笑う僕を八巻さんは不思議そうに見る。
「だって妖怪でも人間でも、仲が悪いよりは良い方が楽しいじゃないですか」
「今度は楽しいときましたか。……あなたは貴重な方ですね。私たちが怖いでしょうに」
「貴重ですか? 初めて言われました。お人好しとはよく言われますけど。それにそりゃ怖い時は怖いですよ。急に牙を剥かれたりすれば尚更に。でも彼らを良く知らないから不要な怒りを買ったり怖く見える場合だってあると思うんです」
無知だったから八巻さんの地雷を踏んだしな。ハハハ……。
「私たちにとっては、あなたのその純粋な寛容さはありがたいものです」
八巻さんは微かに笑むと、足を止めた。
倣って僕も歩みを止める。
「ここまで来れば旦那様の結界も抜けましたし、千尋様に会話を聞かれる心配もないでしょう」
そう言って振り返る八巻さんに倣えば正門はいつの間にか見えない。
「えっでも壁はまだ続いてますけど?」
屋敷全体が結界って言ってなかったっけ?
「ああ、この壁はどこまでも延々と続いていて、これは侵入者を惑わす幻術なのですよ」
「へえ、なるほど。防犯対策ばっちりですね」
「はい。侵入してきた不埒者は惑わされ、死ぬまでこの白壁の道を歩かされるでしょう」
「はは……」
背筋がちょっと凍った。
「そう固くならずとも平気ですよ。私が責任を持って人間界までお送りしますからね」
「そ、それはどうも。よろしくお願いします」
すぐには顔色を戻せない心配性の僕を八巻さんはやれやれと言うような横目で見て微かに微苦笑した。
「陽向殿は千尋様の初恋なのです。五年ずっと。ですが過去はどうあれ現在のあの方は千尋様には決して振り向かないでしょう。直接彼に会ったので断言できます」
「そこは僕も同感です」
陽向は決して千尋さんに心は渡さない。
まあ、何というかそれ以外なら望めば、まあそのたぶん応じる、かも……。
くそぅっリア充弟め!
「本来こんなことを頼む道理がないのは重々承知しておりますが、あなたには最後までこの騙りにお付き合い頂きたい。それまでは何卒陽向殿のフリをして頂ければと」
「それは……」
僕は千尋さんの嬉しそうな様子や去り際の表情を思い出して、少し困ったように足元に目を落とした。
「正直、僕じゃ役不足ですし、これ以上騙すのも気が引けますし、無責任ですけど今日これっきりのつもりでいました」
「そう、ですか……」
落胆する八巻さんはけれど最初のように無理強いしてくる様子はない。
彼女も良くないとわかっているんだろう。……たぶん!
それでも仕える主のため熱心に僕に願った。
僕は静かに顔を上げ、一度ちらともう門が見えない後方を見やって先に歩き出す。今度は八巻さんが僕に倣った。
「ですが、こう中途半端だと僕自身も後悔と言うか消化不良になりそうです。だから最後まで弟のフリをしてみます」
「では」
「はい」
八巻さんは僅かに目を見開いた。
「千尋さんとは、僕が向き合います」
僕の決断に、八巻さんは僕の手を取って引き留める。
背筋を伸ばして姿勢を正すと、綺麗な所作で頭を下げた。
「ありがとうございます」
「え、あの顔を上げて下さい。上手くいく保証はないですし、こじれる可能性だって……」
「ああ、それもそうですね」
「……。因みに千尋さんはどうしても屋敷から出たら駄目なんですか?」
そもそもいつから住んでるんだろう?
「五年前は千尋さんも狐守旅館にいたはずですよね」
「少々特殊な事情がありまして」
しれっと頭を上げていた八巻さんは溜息をついた。
「特殊な事情……?」
あ、立ち入っちゃ駄目なやつ?
「すみません、無遠慮に詮索するつもりは……」
「体力的な問題で、静養のできるこちらに住まざるを得なかったのです」
意外にあっさりだった。
「体弱かったんですか?」
見えなかった、病弱少女にはとても見えなかった。
もしかして手が熱かったのは熱があったからなのか?
「私もその辺の詳しい事情は存じませんが、元からではありません。そう言えば今日はやけに気力に満ち満ちておられましたね。初恋相手に会えるという無上の喜びが体にも良い影響を与えたのでしょうか」
「え、それはフッたら気力が落ちて体力も落ちるかもって意味じゃ……」
「落ちないようにフッて下さい」
怖いくらいの真顔だった。
「そんなの無理ゲーですよ!」
「ふふっ」
八巻さんが控えめな、けれど可笑しげな笑声を立てる。
ふう、何だ冗談か。
わかりにくいなあこの人……ああいやこの蛇女さん。
「さて、そろそろ元のバス通りまでお送り致します」
「あ、八巻さん」
「何です?」
「次は手土産にお稲荷さんを持って来ようかと思うんですけど」
「そこは気を遣わなくて結構ですよ。それに、千尋様は油揚げがお嫌いです」
「さいですか……」
僕は普通に好きだけどなあ、油揚げ。
きつねうどんとか煮物のとか。
彼女はお狐さんだけど、必ずしも好物はテンプレじゃないらしい。
そうして本日二度目の瞬間移動を経て、僕は奇妙な非日常から日常に戻ったのだった。