第二十二話 意思疎通
僕の入れた腕の力は決して強くない。
無理にでも振り解こうとすればそうできたのに、千尋さんは急に呆けたように動きを止めて暴れようとはしなかった。
「いま……何と仰いました? わたくしをちーちゃんと?」
「へ? ――あ! いやごめんっちょっと混乱して人違いしちゃって……」
「人違い……」
千尋さんは何だか酷く落胆したような面持ちで、目に涙を浮かべた。
ギョッとすると同時に、いつになく心臓が大きく跳ねて動揺が走る。
……泣かせた、僕が。
「ひなた様、放して下さい。あなたにここまで止められてはもう無理にあの者を害したりは致しません。……あの者がこれ以上の寵を受けでもすれば別ですけれど……」
「え、寵って、ないないない。それよりこれしきの怪我でそこまで怒る必要ないよ。僕を心配してくれる気持ちは有難いけどさ」
両腕を解いて敢えて明るく言い聞かせれば、千尋さんはしゅんとした。
「ひなた様はわたくしと関わると命さえ危うい展開ばかりではありませんか。ですからわたくしはその要因になる物事の一つでも二つでも減らしておきたいのです」
千尋さんと関わってからの僕は、そんなに泣かれるくらいに何度も身の危険に陥ってたっけ?
いやまあ今回死にかけたけど、それは少なくとも彼女の前では初めてだ。八巻さんの方が目撃回数は多いよな……なーんて、普通は一回だけでも十分肝を潰すよな。
「千尋さん、泣かないでよ。心配掛けてごめんな。でも今のは、君に石が当たるよりはずっとよかったと思ってる」
「ひなた様……」
「それに何だか君が泣いてるのは僕も苦しい気持ちになるんだよ。どうか悲しみで泣かないでほしい。……笑って?」
「わかり、ました」
僕のお願いの言葉を聞いてぐっと引き締められた表情の、その泣き堪え顔が、何故か一瞬あの子と重なった。ちーちゃんと。
千尋さんは程なく涙を止めて、赤くなった自らの目元を川の水に浸した小花模様のハンカチで冷やしている。
「泣き止んでくれて良かった」
僕がふっと相好を崩せば千尋さんは「はうぅぅ」なんて可愛らしい声を出して、両手で頬を押さえるともふもふの耳まで畳んで俯いてしまった。
泣き顔をバッチリ見ちゃったから今更ながらに恥ずかしがってるのかもしれない。僕だったらそうだしな。
すぐ横では、それまで不愉快そうに頬をヒク付かせつつも何だか生温い眼差しだった陽向が、どうしてか探るような目をすると珍しくも言いにくそうに口を開いた。
「なあ兄貴、さっきちーちゃんって叫んだだろ」
「ああ、まあ」
「まさか、昔の旅館でのことを……?」
「ああうん、思い出したよ。けどその話は後でな」
思い出したと言った瞬間半ば愕然としてしまった弟は、観念するのにも似た様子で肩を落とすと「わかった」と素直に頷いた。
耳を畳んで僕たちの会話も聞こえていないらしい千尋さんは、しばらくこのまま何か一人の世界に浸ってそうだしそっとしておこう。
さて河童は……と見やれば、
「ややや八巻さん何してるんですか!?」
「千尋様の代わりに少々制裁を、と」
無表情の眼鏡先輩に胸倉をむんずと掴まれていた。
もう一度言うけど、八巻さんが河童の胸倉を掴み上げている。
つ・か・み・上げている。
ハハハ服を着ているわけでもないヌメヌメ潤いMAX肌の河童に掴める胸倉なんてあったっけ~? 母猫に咥えられる子猫とかならまだわかるけど、河童にも実はそういう部分があったとか?
まさか可愛らしい見た目にはそうだったって言われた方がむしろしっくりくる――着ぐるみだった、とか?
そいで以て背中に着脱用の隠しファスナーがあったりして?
あっはっはまさかな~……ありそう。
遠い目をしていた僕は河童の胸倉からふと目線を上げた。
助けを求めるようにこっちを見つめるつぶらな瞳とばっちり目が合っちゃったよー……。
ほんわ…ぁ……――耐えろ耐えろ耐えろ耐えろおおおー!!
「…………っはあ、はあ、耐えた……」
でもどうしよう。
記憶が戻って河童には二度も殺されそうになったってわかったけど、庇ってくれた真逆の行動も見てるし、その本性がよくわからない。
まあ八巻さんにぶちのめされるくらいなら、甘んじてもらっても別にいいよなーとは思うけど。
河童は鼻水を垂らしてうりゅうりゅ~と涙に湿ったつぶらな目で僕に強く訴えかけてくる。
どうかたしゅけて下しゃい、と。何故か赤ちゃん言葉のイメージで。
………………ああもう。
「八巻さん、もう勘弁してあげて下さい」
「勘弁してどうなさると?」
「とりあえず一度話をしてみようかと。自分に関わることですし。だからどうかお願いします」
「……」
ジッと懇願して見つめれば、やれやれと嘆息した八巻さんが河童から手を離した。
河童は解放されるやいなや即座に近くの大き目の岩陰に回り込み、半分顔を覗かせるようにした。
「仕方がないですね。話をなさるのでしたら私が通訳しましょう、責任を持って動きを見張っておりますので、近寄って下さっても構いません。そこはどうぞご随意に」
「ありがとうございます」
弟は彼からすれば愚かとしか言えない僕の行動をもう黙認してくれるのか、小さく嘆息しただけだった。
僕はじゃりりと石を踏んで河童に向き直った。
「僕を狙ったのは偶然? それとも以前僕が何かしたからか?」
「偶然ではありませんね。わざわざ巣を出て道を繋げあなたを攫ったくらいですから、執着を感じます」
そこは河童が何かを答える前に八巻さんが答えをくれた。
「そうだとして、僕は執着されるに値するような原因を思い当たらないんだけど」
河童は依然としてビクビクと岩陰から顔を覗かせながらも「ゲッゲッゲッ」と何かを答えた。八巻さんの通訳を介してもいないし、もしかして僕の言葉がわかってる?
「この河童には、巷のカラスが光る物や気に入った物を自らの巣に持ち込むのと同じような習性があるようです。とても素敵なあなた様を自分の巣にお持ち帰りしたかった、と言っています」
通訳してくれた八巻さんの言葉に僕は目を点にした。
「僕が素敵、ですか? モテたことないですけど」
「ご冗談でしょう!?」
とは千尋さん。
「人間とあやかしの感性の違いですね」
「そ、そういうものですか」
「そういうものです」
「いや違えだろ」
とは陽向。
じゃあ千尋さんはかなり奇特な妖怪なんじゃないかと思った僕は、千尋さんと陽向二人の姿を順に見て、見た目にも悪くない組み合わせだなんて感じてしまって慌てて頭を振った。
何だろう、もやもやする。
僕の心境なんぞを知る由もない八巻さんは、河童を見据えたまま説明の続きを始めた。
「しかも無知にも、人間は水の中では生きられないと理解していないのです」
「えっそれじゃあまさか、根本的に河童は僕を殺そうとしたわけじゃないと……?」
「単に死んでしまうとは知らずに興味の赴くまま行動しただけでしょう」
河童を信じられない思いで見やれば、つぶらな瞳を嬉しそうに細めて青くなっていた全身を緑に戻した。今そんな芸当要らないよ……。
「わたくしのひなた様に色目を使うな……ッ」
色目? 違うと思うけどなあ。
内心苦笑していると、ふわふわと漂ってきた小さな狐火が僕の視界の端を掠めた。
それは先頭の一つの後に幾つか続いていて、一つの狐火を何個かに分割したらこうなるだろうって大きさだ。
何だこれ千尋さんの?
放っておくとそのまま河童の方に行くんじゃないかこれ?
あ、もしかして手違い狐火?
千尋さんを振り返ると、彼女はめっちゃ据わった目をしていた。
ああもうさっき折角治まったと思ったのに!
「ち、千尋さん? お宅この小さい狐火で何をする気……?」
「――天誅を!」
「どわあああ待って待って待って!」
消し炭再びな危機に、僕は両手を振った大仰な仕種で彼女を宥めすかすと、反転して河童に向き直った。
これは早期に決着をつけた方がよさそうだ。
通じるかはわからないけど、僕は八巻さんの通訳時間さえ惜しんで河童に向かって必死な言葉とジェスチャーを試みる。
「水の中は、息がこう、苦しくなって、僕は一緒には行けない」
カタコトを話す外国人のような台詞を何度か繰り返すと、つぶらな瞳に理解の色が広がった……気がした。
水面と僕を交互に指差し、苦しそうな顔をしてみせた。
「そう! そうだよ! わかった? これぞ未知との相互理解への第一歩! だから僕は君の巣には行けない。オーケー?」
河童は数回理解を乗せた眼で頷いて、単独川に走っていって飛び込んだ。
「もしかしてわかって帰ってくれた?」
「いえ。少し待って、と」
八巻さんは興味深そうに河童の消えた水面を見ている。
仕方がなく待っていると、割とすぐに戻って来た河童の手には、どこから運び込んだのか酸素ボンベが抱えられていた。表面には酸素の化学式がでかでかとプリントされている。
「それで潜って来いって?」
「ゲッゲッゲッ!」
「……無理」
「――何でやねん!!」
実に的確なツッコミが入った。
――河童から。
「……は? 言葉? 喋れる? 人の!?」
ビックリし過ぎて単語の羅列しか浮かばない僕へと、そいつはこっくりと頷いた。
「なら最初っからそうしろーーーー!」
僕の怒声が川原に響き渡った。




