第二十話 因果
「兄貴! どこも齧られてないか? 腕一本持ってかれたとか言わないよな?」
「だ、大丈夫だよ陽向、ほらちゃんとあるだろ」
「千尋様、あなたと言う方は屋敷を勝手に出られただけではなくこのような無茶をなさって……! いくら相手が得意の水属性のあやかしでも、もしも御身に何かあったらどうする気だったのです」
「八巻、これくらいは平気です」
僕と千尋さんは駆け付けたそれぞれの半ば保護者によって説教染みた小言を言われ、顔を見合わせると少し苦笑して眉尻を下げた。
「笑い事ではありませんよ千尋様」
「八巻は本当に心配性ですね。ひなた様もおりましたからへっちゃらでしたのに」
「彼がいたから何だと言うのです。無力な人間なのですよ。千尋様がご無理をなさっていい免罪符にはなり得ません」
あからさまに八巻さんからじろりと睨まれて僕はたじたじになる。
「おい、責任転嫁するな。兄貴は望まず巻き込まれただけだ。元々そこの狐女が妖怪と人間は相容れないって常識と相応の分別を持ってりゃあな、兄貴に妖怪の気配がぷんぷん付いて妖怪に狙われることもなかったんだ。ハッキリ言って迷惑を被ったのはこっちだ」
「ちょっと陽向ッ」
「ごめんな兄貴、すぐに助けに行けなくて」
言い過ぎだって窘めようとしたけど、弟は千尋さんたちの方から僕に向き直ると一転して真面目な面持ちになって落ち込んだようにした。
陽向も僕を助けようと川に潜ってくれていて、僕同様ずぶ濡れだった。
だけど長時間妖怪世界を動き回った疲労もあってか、体力的に泳ぎは厳しかったようで、僕が沈む場所までの半分も来れてなかったようだけど、水中の妖怪魚が吹き飛び、千尋さんと共に僕が岸に上がったのを見て引き返していた。実は視界の端にその姿が見えていたから、弟が無事で良かったと僕も僕で密かに胸を撫で下ろしていたんだ。
ただ、労っている暇もなく千尋さんにぐいぐい引っ張られて今に至るわけだった。
「僕は大丈夫。陽向こそ、疲れてるのに助けようとしてくれて本当にありがとう。大丈夫か? 少し休んだ方がいい」
「ははっ全く一体どっちが案じられる身だよ」
陽向はゆるゆると頭を振って必要ないの意思表示をすると、濡れて額に張り付いていた僕の前髪を丁寧に指で掬い上げてくれる。
額を出し露わになった己とそっくり同じ顔をじっと見て、僕が本当に強がっているわけじゃなって確認するとようやくほっとしたように息をついた。
やっぱり仲の良い兄弟だからか、それともシンクロするなんて言われる双子だからか、昔から大体の気分は見透かされるんだよな。
陽向は無力化された妖怪魚を横目で一瞥して、次に千尋さんを不愉快そうに睨む。
「兄貴を助けるのに先を越されたのは痛恨の極みだ。けどま、妖怪狐だけあって水を制する土気の土徳を持つおかげか。黒狐じゃなくても水系の奴らには強いようだが、兄貴を助けたからって調子に乗るなよ」
「こらこら陽向、またそんな乱暴言う。喧嘩売ってどうするんだよ。千尋さんは体を張って僕を助けてくれたんだぞ」
「兄貴は知らないだろうけど、こいつが元凶なんだ。こんなのに感謝なんてするだけ馬鹿らしい」
「陽向!」
「この妖怪魚だってそうだ。俺たちは下手したら食われるとこだったんだぞ。結局妖怪は人間の敵、害悪でしかねえんだよ」
言い切った陽向は、直前までの落ち着きはどこへやら、妖怪魚に唾でも吐きたそうな顔付きになっている。
「その魚の件は反論出来ないけど、妖怪たちにだって個性はあるし、人を襲うのもいれば救うのもいるよ」
「救う……ね。そこの蛇女みたいに主人の命令でとか、その他利己的な理由じゃなくそんな善行をする妖怪がいるとは思えねえけどな。ああそういや河童は?」
一瞬息を詰めて、僕は何となく俯いてしまった。
「……そいつに食われた」
「へえ、そうか。それにしても、このでか魚はどうしてこんな浅瀬に突っ込んで来たんだか。もしかして滝壺の底に潜んでたのか? 静かに寝てたのに水上が騒がしくて出てきたとか?」
尤もな疑問だった。僕もそれは気になっていた。
ちーちゃんと来た五年前には見かけなかったし。
ここで、千尋さんに一通り小言を並べ終えたらしい八巻さんがくいっと指で眼鏡を押し上げた。やっぱり似合うなーその仕種……。
「そのデカブツは、まあ見たまんまですが血肉を……特に人間のそれを好む習性があるのです。しかし普段このような水の綺麗な上流で姿を見る機会は稀です。おそらくは川面に流れたあなたの血の臭いを敏感に嗅ぎつけて、わざわざ下流から遡上してきたのでしょう」
ハッとなった陽向は腕の傷を苦い顔付きで見下ろして奥歯を噛みしめた。
「……くそ、そうだった川にはその手の妖怪がうようよいるんだったな。怪我してからこっち何度も傷を水に付けてたから、そのせいか。河童を前に頭に血が上っててそこまで気が回らなかった。兄貴、俺の不注意で危ない目に遭わせて悪かった。本当にごめん」
「あんなの想定外も同じだし、気に病む必要はないよ。それよりも乾かすどころかまた濡らしちゃって、傷痛むだろ。僕のためにごめんな?」
「兄貴……。俺が弟だからって大目に見る必要なんてない」
「ええ? そういうつもりはないけどなあ」
「いい奴過ぎんだろ兄貴は」
そう言った陽向はどこか苛立たし気に自身の金髪を掻き上げた。そうすることで気を紛らわせ、己の内で荒波を立てる感情を抑えているようだった。
「それだけじゃない。兄貴が俺を庇って河童に水に落とされた責任は、そいつらだけじゃない、俺にもある」
「陽向はホント頑固だよな。河童にしても……ってそうだった河童だよ! あの河童は僕を庇って食べられたように見えたんだ」
「庇った? 兄貴を? 溺れさせて殺そうとしてたのに?」
陽向の言葉には八巻さんが何か言いたそうにしたけど、結局口を開かなかった。
パクパクと大きな口を開閉する妖怪魚は水がなくてもう虫の息。
あの口の奥の胃袋にはきっと河童の……。
「妖怪共はサバンナみたいに弱肉強食が常だからな。兄貴がそんな顔するなって。たとえ今日じゃなくても明日か、明後日か、或いはもっと先か、河童は何らかの強い妖怪に食われてたかもしれないんだ」
「でもそれは、僕を庇わず逃げてたら、今日には起こり得なかった」
陽向が「ハー……」と盛大な溜息を落とした。
「河童の自業自得だっての。元より兄貴に悪さをしなけりゃこんな結末は迎えなかった。そんなどこまでも人が良すぎると、そのうち本当に馬鹿を見るぞ」
陽向の言いたいことはわかる。
それでも自ら僕のために命を擲ってくれた瞬間を思い出せば、負い目を感じてしまう。
「ひなた様……」
表情を曇らせる僕を見る千尋さんまでが釣られたように眉を下げた。
ああ僕は本当に何をやっているんだかな。
彼女にまでそんな顔をさせたかったわけじゃない。
心の中で自分の甘さを窘めて彼女に言葉を掛けようとしたけど、何を思ったのか逆に向こうから手を取られ真摯な目で見つめられてしまった。
陽向が殺気立ったので、僕は内心慌てて目で制した。
「ひなた様、そんなに悲しそうなお顔をなさらないで下さい。生存可能性はゼロではありません」
「いやだけど思い切り目の前でバックリ食べられてたんだよ。あれはどう見てもご臨終としか……」
「そうなのですか。ですが、わたくしは愛するひなた様が笑顔になる可能性を捨てません」
「いやそんな大袈裟な……」
思い切りド直球な台詞を吐いた千尋さんは手を離すと、徐々に動きの鈍る黒い妖怪魚へと向き直った。
水を吸って重そうな着物の裾を持ち上げて、そいつへ真っ直ぐに腕を伸ばしたかと思えば、次の瞬間その手から強烈な群青の炎弾が打ち出され、ボッと魚の全体を燃え上がらせる。
接していた川原の石さえ黒く焦げ付かせ、あっと言う間の一瞬で妖怪魚は丸焼きを通り越して黒焦げの塊になってしまった。
「…………」
僕は顎を落とし、言葉もなかった。同様にして黙っている陽向は、けれど僕とは違い警戒するような鋭い眼差しで千尋さんを見ている。八巻さんは平然としていた。
っていうか、え!? 千尋さんってこんな凄いこと出来たの!? 病弱じゃなかったっけ!?
でもその前に、そこまでしたら身の中まで真っ黒焦げなんじゃ……。
乾きもあるだろうけど主に川から突き出された衝撃のせいで妖怪魚は再起不能だったみたいだし、せめてもの情けで一息に天に送ってやったとか?
でもこれじゃあ河童の生存はより一層絶望的だ。
黙っている僕をどう思ったのか、千尋さんはゆっくりと振り返っておずおずと僕の表情を窺ってくる。時折り視線を左右に散らしながら躊躇うようにした。
「今のでその、わたくしのこと、怖いとかお思いになりました?」
「へ? ああいや、それは全然。怖いっていうより凄いな、と」
ピコンと狐耳が立った。
表情は何だか嬉しそうだ。
「よかったです……」
柔らかな微笑と共の安堵は彼女を魅力的に見せていて、僕はこんな時なのに可愛いなと頬を緩めてしまった。
「兄貴」
陽向が僕たちのほのぼのに水を差すように超絶不満そうな声を出す。
千尋さんが好きなのは弟であって僕じゃないんだって思い出せば、苦いような気持ちが広がったけど、文句を言いたそうだった陽向はけれど、視線でとある場所を促した。
すいとそっちを向けば、黒焦げ妖怪魚がその場で揺れ動いている。
「ぎゃっ、ままままさかのゾンビ化!?」
「ひなた様ご安心を。今はそういう妖術は使っておりません」
「ゾンビ化する術もあるんだ!? でも違うなら何が起き…」
皆まで言う前にそれは消し炭妖怪魚の体をベキーッと突き破って姿を見せた。
誕生したての桃太郎ってきっとこんな感じだろう、なんて思った。




